第四回
ワグネル君、 正直に叫んで、 成功し給え。 しんに言いたい事があるならば、 それをそのまま言えばよい。(ファウスト)
「はい。」という女のように優しい素直な返事が二階の障子の奥から聞えて来たので、私は奇妙に拍子抜けがした。いやしくも熊本君ともあろうものが、こんな優しい返事をするとは思わなかった。青本女之助とでも改名すべきだと思った。 「佐伯だあ。あがってもいいかあ。」少年佐伯のほうが、よっぽど熊本らしい粗暴な大声で、叫ぶのである。 「どうぞ。」 実に優しかった。 私は呆れて噴き出した。佐伯も、私の気持を敏感に察知したらしく、 「ディリッタンティなんだ。」と低い声で言って狡猾そうに片眼をつぶってみせた。「ブルジョアさ。」 私たちは躊躇せず下宿の門をくぐり、玄関から、どかどか二階へ駈けあがった。 佐伯が部屋の障子をあけようとすると、 「待って下さい。」と懸命の震え声が聞えた。やはり、女のように甲高い細い声であったが、せっぱつまったものの如く、多少は凜としていた。「おひとり? お二人?」 「お二人だ。」うっかり私が答えてしまった。 「どなた? 佐伯君、一緒の人は、誰ですか?」 「知らない。」佐伯は、当惑の様子であった。 私は、まだ佐伯に私の名前を教えていなかったのである。 「木村武雄、木村武雄。」と私は、小声で佐伯に教えた。太宰というのは、謂わばペンネエムであって、私の生まれた時からの名は、その木村武雄なのである。なんとも、この名前が恥ずかしく、私は痩せている癖に太宰なぞという喧嘩の強そうな名前を選んで用いているわけであるが、それでも、こんなに気持のせいている時には、思わずふっと、親から貰った名前のほうを言い出してしまうのである。「僕を木村武雄と呼んでくれ給え。」と言い足してみたが、私は、やはりなんだか恥ずかしかった。 「木村たけお。」佐伯は、うなずいて、「木村武雄くんと一緒に来たんだがね。」 「木村たけお? 木村、武雄くんですか?」障子の中でも、不審そうに呟いている。私は、たまらなくなって来た。木村武雄という名は、世界で一ばん愚劣なもののように思われた。 「木村武雄という者ですが。」私は、やぶれかぶれに早口で言って、「お願いがあって、やって来たんですけど。」 「おゆるし下さい。」意外の返事であった。「初対面のおかたとは、お逢いするのが苦しいのです。」 「何を言ってやがる。相変らず鼻持ちならねえ。」と佐伯が小声で呟いたのを、障子のかなたから聞き取った様子で、 「その鼻のことです。私は鼻を虫に刺されました。こんな見苦しい有様で、初対面のおかたと逢うのは、何より、つらい事です。人間は、第一印象が大事ですから。」 私たちは、爆笑した。 「ばかばかしい。」佐伯は、障子をがらりと開けて転げ込むようにして部屋へはいった。私も、おなかを抑えて笑い咽びよろよろ部屋へ、はいってしまった。 薄暗い八畳間の片隅に、紺絣を着た丸坊主の少年がひとりきちんと膝を折って坐っていた。顔を見ると、やはり、青本女之助に違いなかった。熊本という逞しい名前の感じは全然、無かったのである。白くまんまるい顔で、ロイド眼鏡の奥の眼は小さくしょぼしょぼして、問題の鼻は、そういえば少し薄赤いようであったが、けれども格別、悲惨な事もなかった。からだは、ひどく、でっぷり太っている。背丈は、佐伯よりも、さらに少し低いくらいである。おしゃれの様子で、襟元をやたらに気にして直しながら、 「佐伯君、少し乱暴じゃありませんか。」と真面目な口調で言って、「僕は、親にさえ、こういう醜い顔を見せた事はないのですからね。」つんとして見せた。 佐伯は、すぐに笑いを鎮めて、熊本君のほうに歩み寄り、 「読書かね?」と、からかうような口調で言い熊本君の傍にある机の、下を手さぐりして、一冊の文庫本を拾い上げた。机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐伯はそれには一瞥もくれなかった。「里見八犬伝か。面白そうだね。」と呟き、つっ立ったまま、その小さい文庫本のペエジをぱらぱら繰ってみて、「君は、いつでも読まない本を机の上にひろげて置いて、読んでる本は必ず机の下に隠して置くんだね。妙な癖があるんだね。」笑いもせずに、そう言い放って、その文庫本を熊本君の膝の上にぽんと投げてやった。 熊本君は、気の毒なほど露わに狼狽し、顔を真赤にして膝の上のその本を両手で抑え、 「軽蔑し給うな。」と、ほとんど聞えぬくらいの低い声で言い、いかにも怨めしそうに佐伯の顔を横目で見上げた。 私は部屋の隅にあぐらをかいて坐って、二人の様を笑いながら眺めていたが、なんだかひどく熊本君が可哀想になって来て、 「里見八犬伝は、立派な古典ですね。日本的ロマンの、」鼻祖と言いかけて、熊本君のいまの憂鬱要因に気がつき、「元祖ですね。」と言い直した。 熊本君は、救われた様子であった。急にまた、すまし返って、 「たしかに、そんなところもありますね。」赤い唇を、きゅっと引き締めた。「僕は最近また、ぼちぼち読み直してみているんですけれども。」 「へへ、」佐伯は、机の傍にごろりと仰向きに寝ころび、へんな笑いかたをした。「君は、どうしてそんな、ぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね? いつでも、必ずそう言うじゃないか。読みはじめた、と言ったっていいと思うがね。」 「軽蔑し給うな。」と再び熊本君は、その紳士的な上品な言葉を、まえよりいくぶん高い声で言って抗議したのであるが、顔は、ほとんど泣いていた。 「里見八犬伝を、はじめて読む人なんか無いよ。読み直しているのに違いない。」私は、仲裁してやった。この二少年の戦いの有様を眺めているのも楽しかったが、それよりも、今の私には、もっと重大な仕事があった。 「熊本君。」と語調を改めて呼びかけ、甚だ唐突なお願いではあるが、制服と帽子を、こんや一晩だけ貸して下さるまいか、と真面目に頼み込んだのである。 「制服と帽子? あの、僕の制服と帽子ですか?」熊本君は不機嫌そうに眉をひそめ、それから、寝ころんでいる佐伯のほうに向き直って、「佐伯君、僕は不愉快ですよ。僕を、あまり軽蔑しないで下さい。いったい、この人は、なんですか?」 「いやなら、よせ。」佐伯は寝ころんだままで呶鳴った。「無理に頼むわけじゃないんだ。君こそ失礼だぞ。そこにいる人は、いい人なんだ。君みたいなエゴイストじゃないんだ。」 「いや、いや。」私は佐伯に、いい人と言われて狼狽した。「僕だって、エゴイストです。佐伯君がいやだというのを僕が無理を言って、ここへ連れて来てもらったのですから。事情を申し上げてもいいんだけど、とにかく、僕から頼むのです。一晩だけ貸して下さい。あしたの朝早く、必ずお返し致します。」 「勝手にお使い下さい。僕は、存じません。」と泣き声で言って、くるりと、私の方に背を向け、机の上の洋書を、むやみにぱっぱっとめくった。 「よそうよ。僕は、どうなったって、いいんだ。」佐伯は上半身を起して、私に言った。 「それあ、いかん。」私は、断然首を横に振った。「君は、今になって、そんな事を言い出すのは、卑怯だ。それじゃ、まるで、僕が君にからかわれて、ここまでやって来たようなものだ。」 「なんですか。」熊本君は、私たちが言い争いをはじめたら、奇妙に喜びを感じた様子で、くるりと、またこちらに向き直り、「佐伯君が、また何か、はじめたのですか? 深い事情があるようですね。」と、ひどく尊大な口調で言い、さも、分別ありげに腕組みをした。 「もういいんだ。僕は、熊本なんかに、ものを頼みたくないんだ。」佐伯は、急に立ちあがった。「僕は、帰るぞ。」 「待て、待て。」私も立ち上って、佐伯を引きとめた。「君には、帰るところは無い筈だ。熊本君だって、制服を貸さないとは言ってないんだ。君は、だだっ子と言われても仕様が無いよ。」 熊本君は、私が佐伯をやり込めると、どういうわけか、実に嬉しい様子であった。いよいよ得意顔して立ち上り、 「そうですとも。だだっ子と言われても仕様が無いですとも。僕は、お貸ししないとは言ってないんですからね。僕はエゴイストじゃありません。」壁に掛けてある制服と制帽を颯っとはずして、百万円でも貸与する時のように、もったいぶった手つきで私のほうに差し出した。「お気に召しますか、どうですか。」 「いや、結構です。」私は思わず、ぺこりとお辞儀をして、「ここで失礼して、着換えさせていただきます。」 着換えが終った。結構ではなかった。結構どころか、奇態であった。袖口からは腕が五寸も、はみ出している。ズボンは、やたらに太く、しかも短い。膝が、やっと隠れるくらいで、毛臑が無残に露出している。ゴルフパンツのようである。私は流石に苦笑した。 「よせよ。」佐伯は、早速嘲笑した。「なってないじゃないか。」 「そうですね。」熊本君も、腕をうしろに組んで、私の姿をつくづく見上げ、見下し、「どういう御身分のおかたか存じませんけれど、これでは、私の洋服の評判まで悪くなります。」と言って念入りに溜息まで吐いてみせた。 「かまわない。大丈夫だ。」私は頑張った。「こんな学生を、僕は、前に本郷で見た事があるよ。秀才は、たいてい、こんな恰好をしているようだ。」 「帽子が、てんで頭にはいらんじゃないか。」佐伯は、またしても私にけちを附けた。「いっそ、まっぱだかで歩いたほうが、いいくらいだ。」 「僕の帽子は、決して小さいほうでは、ありません。」熊本君はもっぱら自分の品物にばかり、こだわっている。「僕の頭のサイズは、普通です。ソクラテスと同じなんです。」 熊本君の意外の主張には、私も佐伯も共に、噴き出してしまった。熊本君も、つい吊り込まれて笑ってしまった。部屋の空気は期せずして和やかになり、私たち三人、なんだか互に親しさを感じ合った。私は、このまま三人一緒に外出して、渋谷のまちを少し歩いてみたいと思った。日が暮れる迄には、まだ、だいぶ間が在る。私は熊本君から風呂敷を借りて、それに脱ぎ捨てた着物を包み、佐伯に持たせて、 「さあ行こう。熊本君も、そこまで、どうです。一緒にお茶でも、飲みましょう。」 「熊本は勉強中なんだ。」佐伯は、なぜだか、熊本君を誘うのに反対の様子を示した。「これから、また、ぼちぼち八犬伝を読み直すのだから。」 「僕は、かまいません。」熊本君も、私たちと一緒に外出したいらしいのである。「なんだか、面白くなりそうですね。あなたは青春を恢復したファウスト博士のようです。」 「すると、メフィストフェレスは、この佐伯君という事になりますね。」私は、年齢を忘れて多少はしゃいでいた。「これが、むく犬の正体か。旅の学生か。滑稽至極じゃ。」 たわむれて佐伯の顔を覗くと、佐伯の眼のふちが赤かった。涙ぐんでいるのである。今夜の事が急に心配になって来たのだろうと、私は察した。黙って少年佐伯の肩を、どんと叩いて私は部屋から出た。必ず救ってやろうと、ひそかに決意を固くしたのである。 三人は、下宿を出て渋谷駅のほうへ、だらだら下りていった。路ですれちがう男女も、そんなに私の姿を怪しまないようである。熊本君は、紺絣の袷にフェルト草履、ステッキを持っていた。なかなか気取ったものであった。佐伯は、れいの服装に、私の着物在中の風呂敷包みを持ち、私は小さすぎる制服制帽に下駄ばきという苦学生の恰好で、陽春の午後の暖い日ざしを浴び、ぶらぶら歩いていたのである。 「どこかで、お茶でも飲みましょう。」私は、熊本君に伺った。 「そうですねえ。せっかく、お近づきになったのですし。」と熊本君は、もったいぶり、「しかし、女の子のいるところは、割愛しましょう。きょうは、鼻が、こんなに赤いのですから。人間の第一印象は、重大ですよ。僕をはじめて見た女の子なら、僕が生まれた時からこんなに鼻が赤くて、しかもこの後も永久に赤いのだと独断するにきまっています。」真剣に主張している。 私は、ばかばかしく思ったが、懸命に笑いを怺えて、 「じゃ、ミルクホールは、どうでしょう。」 「どこだって、いいじゃないか。」佐伯は、先刻から意気銷沈している。まるで無意志の犬のように、ぶらりぶらり、だらしない歩きかたをして、私たちから少し離れて、ついて来る。「お茶に誘うなんてのは、お互、早く別れたい時に用いる手なんだ。僕は、人から追っぱらわれる前には、いつでもお茶を飲まされた。」 「それは、どういう意味なんですか。」熊本君は、くるりと背後の佐伯に向き直って詰め寄った。「へんな事を言い給うな。僕と、このかたとお茶を飲むのは、お互の親和力の結果です。純粋なんだ。僕たちは、里見八犬伝に於て共鳴し合ったのです。」 往来で喧嘩が、はじまりそうなので、私は閉口した。 「止し給え。止し給え。どうして君たちは、そんなに仲が悪いんだ。佐伯の態度も、よくないぞ。熊本君は、紳士なんだ。懸命なんだよ。人の懸命な生きかたを、嘲笑するのは、間違いだ。」 「君こそ嘲笑している癖に。」佐伯は、私にかかって来た。「君は、老獪なだけなんだ。」 言い合っていると際限が無かった。私は、小さい食堂を前方に見つけて、 「はいろう。あそこで、ゆっくり話そう。」興奮して蒼ざめ、ぶるぶる震えている熊本君の片腕をつかんで、とっとと歩き出した。佐伯も私たちの後から、のろのろ、ついて来た。 「佐伯君は、いけません。悪魔です。」熊本君は、泣くような声で訴えた。「ご存じですか? きのう留置場から出たばかりなんですよ。」 私は仰天した。 「知りません。全然、知りません。」 私たちは、もう、その薄暗い食堂にはいっていた。
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