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芸術ぎらい(げいじゅつぎらい)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-20 8:25:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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魯迅の随筆に、「以前、私は情熱を傾けて 私は十年来、ひどくまずい小説ばかり書いて来ている三十六歳の男子であって、小説界に於いても私の言説にまじめに耳を傾けてくれるような物好きな人がひとりもいない現状なのだから、いわんや、映画界に於いては、誰も私のつまらぬ名前など知らんのではないかと思われる。名前を知られたって、ろくな事は無いのだし、別段、自分の無名を残念がってもいないのであるが、でも、世間の人は、無名の人の文章は(お互いいそがしいのだから)てんで読もうとしないので、困るのである。私がもし映画統制局々長(そんな官名があるかどうか知らないが)とか何とかの肩書のある男であったなら、「どうも、なんですねえ、娯楽味を忘れては、なりませんですねえ」などと何の意味も無いような意見を述べても、映画界の幹部たちはひとしく感奮し、ただちに映画界の全従業員を集めて、「実にこの娯楽味を忘れてはなりませぬです」という一場の訓辞をこころみるかも知れないのだから、人の気持って微妙なものだ。 私だって少しは誇りを持っている。自分の書いた文章が、全く読まれないか、あるいはざっと一読の光栄に浴して、そうして、「なんだいこれは」と顔をしかめられるのをハッキリ自覚しながら、それでも一字一字まじめに考え考えして文章を書かなければならぬというのは、つらい話である。むかしの私だったら、この種の原稿の依頼に対しては汗顔平伏して御辞退申し上げるに違いないのであるが、このごろの私は少し変った。日本のために、自分の力の全部を出し切らなければならぬ。小説界と映画界とは、そんなに遠く隔絶せられた世界でもない。小説家としての私の愚見も、あるいは、ひょっとしたら、ひとりの勇敢な映画人に依って支持せられるというような 映画は芸術であってはならぬ。芸術的雰囲気などといういい加減なものに目を細めているから、ろくな映画が出来ない。かつて私は次のような文章を発表した事がある。「誰しもはじめは、お手本に拠って習練を積むのですが、一個の創作家たるものが、いつまでもお手本の匂いから脱する事が出来ぬというのは、まことに 昨年の暮、私は二つの映画を見た。「無法松の一生」とかいうのと、「重慶から来た男」とかいう映画である。そうして、「無法松」はたいへんつまらなかった。「芸術的」という努力は、なんてまあ古いもんだろうと思った。阪妻はヤニングスみたいな熱演で、私は阪妻に同情したが、しかし、いいとは思えなかった。阪妻に対する不満ではない。「無法松」という映画に対する不満である。どこがいいのか、私には、さっぱりわからなかった。傑作意識を捨てなければならぬ。傑作意識というものは、かならず昔のお手本の幻影に迷わされているものである。だからいつまで経っても、古いのである。まるで、それこそ、筋書どおりじゃないか。あまりに、ものほしげで、閉口した。「芸術的」 底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房 1989(平成元)年6月27日第1刷発行 底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房 1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月 初出:「映画評論」 1944(昭和19)年4月1日発行 入力:土屋隆 校正:noriko saito 2005年3月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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