打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

逆行(ぎゃっこう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-19 7:05:29 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 決鬪の夜、私は「ひまはり」といふカフヱにはひつた。私は紺色の長いマントをひつかけ、純白の革手袋をはめてゐた。私はひとつカフヱにつづけて二度は行かなかつた。きまつて五圓紙幤を出すといふことに不審を持たれるのを怖れたのである。「ひまはり」への訪問は、私にとつて二月ぶりであつた。
 そのころ私のすがたにどこやら似たところのある異國の一青年が、活動役者として出世しかけてゐたので、私も少しづつ女の眼をひきはじめた。私がそのカフヱの隅の椅子に坐ると、そこの女給四人すべてが、樣樣の着物を着て私のテエブルのまへに立ち並んだ。冬であつた。私は、熱い酒を、と言つた。さうしてさもさも寒さうに首筋をすくめた。活動役者との相似が、直接私に利益をもたらした。年若いひとりの女給が、私が默つてゐても、煙草をいつぽんめぐんでくれたのである。
「ひまはり」は小さくてしかも汚い。束髮を結つた一尺に二尺くらゐの顏の女のぐつたりと頬杖をつき、くるみの實ほどの大きな齒をむきだして微笑んでゐるポスタアが、東側の壁にいちまい貼られてゐた。ポスタアの裾にはカブトビイルと横に黒く印刷されてある。それと向ひ合つた西側の壁には一坪ばかりの鏡がかけられてゐた。鏡は金粉を塗つた額縁に收められてゐるのである。北側の入口には赤と黒との縞のよごれたモスリンのカアテンがかけられ、そのうへの壁に、沼のほとりの草原に裸で寢ころんで大笑ひをしてゐる西洋の女の冩眞がピンでとめつけられてゐた。南側の壁には、紙の風船玉がひとつ、くつついてゐた。それがすぐ私の頭のうへにあるのである。腹の立つほど、調和がなかつた。三つのテエブルと十脚の椅子。中央にストオヴ。土間は板張りであつた。私はこのカフヱでは、たうてい落ちつけないことを知つてゐた。電氣が暗いので、まだしも幸ひである。
 その夜、私は異樣な歡待を受けた。私がその中年の女給に酌をされて熱い日本酒の最初の徳利をからにしたころ、さきに私に煙草をいつぽんめぐんで呉れたわかい女給が、突然、私の鼻先へ右のてのひらを差し出したのである。私はおどろかずに、ゆつくり顏をあげて、その女給の小さい瞳の奧をのぞいた。運命をうらなつて呉れ、と言ふのである。私はとつさのうちに了解した。たとへ私が默つてゐても、私のからだから豫言者らしい高い匂ひが發するのだ。私は女の手に觸れず、ちらと眼をくれ、きのふ愛人を失つた、と呟いた。當つたのである。そこで異樣な歡待がはじまつた。ひとりのふとつた女給は、私を先生とさへ呼んだ。私は、みんなの手相を見てやつた。十九歳だ。寅のとし生れだ。よすぎる男を思つて苦勞してゐる。薔薇の花が好きだ。君の家の犬は、仔犬を産んだ。仔犬の數は六。ことごとく當つたのである。かの痩せた、眼のすずしい中年の女給は、ふたりの亭主を失つたと言はれて、みるみる頸をうなだれた。この不思議の的中は、みんなのうちで、私をいちばん興奮させた。すでに六本の徳利をからにしてゐたのである。このとき、犬の毛皮の胴着をつけた若い百姓が入口に現はれた。
 百姓は私のテエブルのすぐ隣りのテエブルに、こつちへ毛皮の背をむけて坐り、ウヰスキイと言つた。犬の毛皮の模樣は、ぶちであつた。この百姓の出現のために、私のテエブルの有頂天は一時さめた。私はすでに六本の徳利をからにしたことを、ちくちく悔いはじめたのである。もつともつと醉ひたかつた。こよひの歡喜をさらにさらに誇張してみたかつたのである。あと四本しか呑めぬ。それでは足りない。足りないのだ。盜まう。このウヰスキイを盜まう。女給たちは、私が金錢のために盜むのでなく、豫言者らしい突飛な冗談と見てとつて、かへつて喝采を送るだらう。この百姓もまた、醉ひどれの惡ふざけとして苦笑をもらすくらゐのところであらう。盜め! 私は手をのばし、隣りのテエブルのそのウヰスキイのコツプをとりあげ、おちついて呑みほした。喝采は起らなかつた。しづかになつた。百姓は私のはうをむいて立ちあがつた。外へ出ろ。さう言つて、入口のはうへ歩きはじめた。私も、にやにや笑ひながら百姓のあとについて歩いた。金色の額縁にをさめられてある鏡を通りすがりにちらと覗いた。私は、ゆつたりした美丈夫であつた。鏡の奧底には、一尺に二尺の笑ひ顏が沈んでゐた。私は心の平靜をとりもどした。自信ありげに、モスリンのカアテンをぱつとはじいた。
 THE HIMAWARI と黄色いロオマ字が書かれてある四角の軒燈の下で、私たちは立ちどまつた。女給四人は、薄暗い門口に白い顏を四つ浮かせてゐた。
 私たちは次のやうな爭論をはじめたのである。
 ――あまり馬鹿にするなよ。
 ――馬鹿にしたのぢやない。甘えたのさ。いいぢやないか。
 ――おれは百姓だ。甘えられて、腹がたつ。
 私は百姓の顏を見直した。短い角刈にした小さい頭と、うすい眉と、一重瞼の三白眼と、蒼黒い皮膚であつた。身丈は私より確かに五寸はひくかつた。私は、あくまで茶化してしまはうと思つた。
 ――ウヰスキイが呑みたかつたのさ。おいしさうだつたからな。
 ――おれだつて呑みたかつた。ウヰスキイが惜しいのだ。それだけだ。
 ――君は正直だ。可愛い。
 ――生意氣いふな。たかが學生ぢやないか。つらにおしろいをぬたくりやがつて。
 ――ところが僕は、易者だといふことになつてゐる。豫言者だよ。驚いたらう。
 ――醉つたふりなんかするな。手をつゐてあやまれ。
 ――僕を理解するには何よりも勇氣が要る。いい言葉ぢやないか。僕はフリイドリツヒ・ニイチエだ。
 私は女給たちのとめて呉れるのを、いまかいまかと待つてゐた。女給たちはしかし、そろつて冷い顏して私の毆られるのを待つてゐた。そのうちに私は毆られた。右のこぶしが横からぐんと飛んで來たので、私は首筋を素早くすくめた。十間ほどふつとんだ。私の白線の帽子が身がはりになつて呉れたのである。私は微笑みつつ、わざとゆつくりその帽子を拾ひに歩きはじめた。毎日毎日のみぞれのために、道はとろとろ溶けてゐた。しやがんで、泥にまみれた帽子を拾つたとたんに、私は逃げやうと考へた。五圓たすかる。別のところで、もいちど呑むのだ。私は二あし三あし走つた。滑つた。仰向にひつくりかへつた。踏みつぶされた雨蛙の姿に似てゐたやうであつた。自身のぶざまが、私を少し立腹させたのである。手袋も上衣もズボンもそれからマントも、泥まみれになつてゐる。私はのろのろと起きあがり、頭をあげて百姓のもとへ引返した。百姓は、女給たちに取りまかれ、まもられてゐた。誰ひとり味方がない。その確信が私の兇暴さを呼びさましたのである。
 ――お禮をしたいのだ。
 せせら笑つてさう言つてから、私は手袋を脱ぎ捨て、もつと高價なマントをさへ泥のなかへかなぐり捨てた。私は自身の大時代なせりふとみぶりにやや滿足してゐた。誰かとめて呉れ。
 百姓は、もそもそと犬の毛皮の胴着を脱ぎ、それを私に煙草をめぐんで呉れた美人の女給に手渡して、それから懷のなかへ片手をいれた。
 ――汚い眞似をするな。
 私は身構へて、さう注意してやつた。
 懷から一本の銀笛が出た。銀笛は軒燈の燈にきらきら反射した。銀笛はふたりの亭主を失つた中年の女給に手渡された。
 百姓のこのよさが、私を夢中にさせたのだ。それは小説のうへでなく、眞實、私はこの百姓を殺さうと思つた。
 ――出ろ。
 さう叫んで、私は百姓の向ふ臑を泥靴で力いつぱいに蹴あげた。蹴たふして、それから澄んだ三白眼をくり拔く。泥靴はむなしく空を蹴つたのである。私は自身の不恰好に氣づいた。悲しく思つた。ほのあたたかいこぶしが、私の左の眼から大きい鼻にかけて命中した。眼からまつかな焔が噴き出た。私はそれを見た。私はよろめいたふりをした。右の耳朶から頬にかけてぴしやつと平手が命中した。私は泥のなかに兩手をついた。とつさのうちに百姓の片脚をがぶと噛んだ。脚は固かつた。路傍の白楊の杙であつた。私は泥にうつぶして、いまこそおいおい聲をたてて泣かう泣かうとあせつたけれど、あはれ、一滴の涙も出なかつた。


 くろんぼ

 くろんぼは檻の中にはひつてゐた。檻の中は一坪ほどのひろさであつて、まつくらい奧隅に、丸太でつくられた腰掛がひとつ置かれてゐた。くろんぼはそこに坐つて、刺繍をしてゐた。このやうな暗闇のなかでどんな刺繍ができるものかと、少年は拔けめのない紳士のやうに、鼻の兩わきへ深い皺をきざみこませ口まげてせせら笑つたものである。
 日本チヤリネがくろんぼを一匹つれて來た。村は、どよめいた。ひとを食ふさうである。まつかな角が生えてゐる。全身に花のかたちのむらがある。少年は、まつたくそれを信じないのであつた。少年は思ふのだ。村のひとたちも心から信じてそんな噂をしてゐるのではあるまい。ふだんから夢のない生活をしてゐるゆゑ、こんなときにこそ勝手な傳説を作りあげ、信じたふりして醉つてゐるのにちがひない。少年は村のひとたちのそんな安易な嘘を聞くたびごとに、齒ぎしりをし耳を覆ひ、飛んで彼の家へ歸るのであつた。少年は村のひとたちの噂話を間拔けてゐると思ふのだ。なぜこのひとたちは、もつとだいじなことがらを話し合はないのであらう。くろんぼは、雌ださうではないか。
 チヤリネの音樂隊は、村のせまい道をねりあるき、六十秒とたたぬうちに村の隅から隅にまで宣傳しつくすことができた。一本道の兩側に三丁ほど茅葺の家が立ちならんでゐるだけであつたのである。音樂隊は、村のはづれに出てしまつてもあゆみをとめないで、螢の光の曲をくりかへしくりかへし奏しながら菜の花畠のあひだをねつてあるいて、それから田植まつさいちゆうの田圃へ出て、せまい畦道を一列にならんで進み、村のひとたちをひとりも見のがすことなく浮かれさせ橋を渡つて森を通り拔けて、半里はなれた隣村にまで行きつゐてしまつた。
 村の東端に小學校があり、その小學校のさらに東隣りが牧場であつた。牧場は百坪ほどのひろさであつてオランダげんげが敷きつめられ、二匹の牛と半ダアスの豚とが遊んでゐた。チヤリネはこの牧場に鼠色したテントの小屋をかけた。牛と豚とは、飼主の納屋に移轉したのである。
 夜、村のひとたちは頬被りして二人三人づつかたまつてテントのなかにはひつていつた。六、七十人のお客であつた。少年は大人たちを毆りつけては押しのけ押しのけ、最前列へ出た。まるい舞臺のぐるりに張りめぐらされた太いロオプに顎をのせかけて、じつとしてゐた。ときどき眼を輕くつぶつて、うつとりしたふりをしてゐた。
 かるわざの曲目は進行した。樽。メリヤス。むちの音。それから金襴。痩せた老馬。まのびた喝采。カアバイト。二十箇ほどのガス燈が小屋のあちこちにでたらめの間隔をおいて吊され、夜の昆蟲どもがそれにひらひらからかつてゐた。テントの布地が足りなかつたのであらう、小屋の天井に十坪ほどのおほきな穴があけつぱなしにされてゐて、そこから星空が見えるのだ。
 くろんぼの檻が、ふたりの男に押されて舞臺へ出た。檻の底に車輪の脚がついてゐるらしくからからと音たてて舞臺へ滑り出たのである。頬被りしたお客たちの怒號と拍手。少年は、ものうげに眉をあげて檻の中をしづかに觀察しはじめた。
 少年は、せせら笑ひの影を顏から消した。刺繍は日の丸の旗であつたのだ。少年の心臟は、とくとくと幽かな音たてて鳴りはじめた。兵隊やそのほか兵隊に似かよつたやうな概念のためではない。くろんぼが少年をあざむかなかつたからである。ほんたうに刺繍をしてゐたのだ。日の丸の刺繍は簡單であるから、闇のなかで手さぐりしながらでもできるのだ。ありがたい。このくろんぼは正直者だ。
 やがて、燕尾服を着た仁丹の鬚のある太夫が、お客に彼女のあらましの來歴を告げて、それから、ケルリ、ケルリ、と檻に向つて二聲叫び、右手のむちを小粹に振つた。むちの音が少年の胸を鋭くつき刺した。太夫に嫉妬を感じたのである。くろんぼは、立ちあがつた。
 むちの音におびやかされつつ、くろんぼはのろくさと二つ三つの藝をした。それは卑猥の藝であつた。少年を置いてほかのお客たちはそれを知らぬのだ。ひとを食ふか食はぬか。まつかな角があるかないか。そんなことだけが問題であつたのである。
 くろんぼのからだには、青い藺の腰蓑がひとつ、つけられてゐた。油を塗りこくつてあるらしく、すみずみまでつよく光つてゐた。をはりに、くろんぼは謠をひとくさり唄つた。伴奏は太夫のむちの音であつた。シヤアボン、シヤアボンといふ簡單な言葉である。少年は、その謠のひびきを愛した。どのやうにぶざまな言葉でも、せつない心がこもつてをれば、きつとひとを打つひびきが出るものだ。さう考へて、またぐつと眼をつぶつた。
 その夜、くろんぼを思ひ、少年はみづからを汚した。
 翌朝、少年は登校した。教室の窓を乘り越へ、背戸の小川を飛び越へ、チヤリネのテントめがけて走つた。テントのすきまから、ほの暗い内部を覗いたのである。チヤリネのひとたちは舞臺にいつぱい蒲圃を敷きちらし、ごろごろと芋蟲のやうに寢てゐた。學校の鐘が鳴りひびいた。授業がはじまるのだ。少年は、うごかなかつた。くろんぼは寢てゐないのである。さがしてもさがしても見つからぬのである。學校は、しんとなつた。授業がはじまつたのであらう。第二課、アレキサンドル大王と醫師フイリツプ。むかしヨーロツパにアレキサンドル大王といふ英雄があつた。少女の朗朗と讀みあげる聲をはつきり聞いた。少年は、うごかなかつた。少年は信じてゐた。あのくろんぼは、ただの女だ。ふだんは檻から出て、みんなと遊んでゐるのにちがひない。水仕事をしたり、煙草をふかしたり、日本語で怒つたり、そんな女だ。少女の朗讀がをはり、教師のだみ聲が聞えはじめた。信頼は美徳であると思ふ。アレキサンドル大王はこの美徳をもつてゐたがために、一命をまつたうしたやうであります。みなさん。少年は、まだうごかずにゐた。ここにゐないわけはない。檻は、きつとからつぽの筈だ。少年は肩を固くした。かうして覗いてゐるうちに、くろんぼは、こつそりおれのうしろにやつて來て、ぎゆつと肩を抱きしめる。それゆゑ背後にも油斷をせず、抱きしめられるに恰好のいいやうに肩を小さく固くしたのであつた。くろんぼは、きつと刺繍した日の丸の旗をくれるにちがひない。そのときおれは、弱味を見せずかう言つてやる。僕で幾人目だ。
 くろんぼは現れなかつた。テントから離れ、少年は着物の袖でせまい額の汗を拭つて、のろのろと學校へ引き返した。熱が出たのです。肺がわるいさうです。袴に編みあげの靴をはいてゐる男の老教師を、まんまとだました。自分の席についてからも、少年はごほごほと贋の咳ばらひにむせかへつた。
 村のひとたちの話に依れば、くろんぼは、やはり檻につめられたまま、幌馬車に積みこまれ、この村を去つたのである。太夫は、おのが身をまもるため、ピストルをポケツトに忍ばせてゐた。



底本:「太宰治全集2-小説1-」筑摩書房
   1998(平成10)年5月25日初版第1刷
入力:赤木孝之
校正:湯地光弘
1999年6月29日公開
2001年11月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

上一页  [1] [2]  尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口