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帰去来(ききょらい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/19 7:04:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「くにへ行っても、兄さんに逢えないとなると、だいぶ張合いが無くなりますね。」私は兄に逢いたかったのだ。そうして、黙って長いお辞儀をしたかったのだ。
「なに、兄さんとは此の後、またいつでもお逢い出来ますよ。それよりも、問題はお母さんです。なにせ七十、いや、六十九、ですかね?」
「おばあさんにも逢えるでしょうね。もう、九十ちかい筈ですけど。それから、五所川原の叔母おばにも逢いたいし、――」考えてみると、逢いたい人が、たくさんあった。
「もちろん、皆さんにお逢い出来ます。」断乎たる口調だった。ひどくたのもしく見えた。
 こんどの帰郷がだんだん楽しいものに思われて来た。次兄の英治さんにも逢いたかったし、また姉たちにも逢いたかった。すべて、十年振りなのである。そうして私は、あの家を見たかった。私の生れて育った、あの家を見たかった。
 私たちは七時の汽車に乗った。汽車に乗る前に、北さんは五所川原の中畑さんに電報を打った。
 七ジタツ」キタ
 それだけでもう中畑さんには、なんの事やら、ちゃんとわかるのだそうである。以心伝心いしんでんしんというやつだそうである。
「あなたを連れて行くという事を、はっきり中畑さんに知らせると、中畑さんも立場に困るのです。中畑さんは知らない、何も知らない、そうして五所川原の停車場に私を迎えに来ます。そうしてはじめて、あなたを見ておどろく、という形にしなければ、中畑さんは、あとで兄さんに対して具合いの悪い事になります。中畑君は知っていながら、なぜ、とめなかったと言われるかもしれません。けれども、中畑さんは知らないのだ、五所川原の停車場へ私を迎えに来てはじめて知って驚いたのだ。そうして、まあせっかく東京からやって来たのだし、ひとめお母さんに逢わせました、という事になれば、中畑さんの責任も軽い。あとは全部、私が責任を負いますが、私は大久保彦左衛門だから、但馬守が怒ったって何だって平気です。」なかなか、ややこしい説明であった。
「でも、中畑さんは、知っているんでしょう?」
「だから、そこが、微妙なところなのです。七ジタツ。それでもういいのです。」大久保のはかりごとはこまかすぎて、わかりにくかった。けれども、とにかく私は北さんに、一切をおまかせしたのだ。とやかく不服を言うべきでない。
 私たちは汽車に乗った。二等である。相当こんでいた。私と北さんは、通路をへだてて一つずつ、やっと席をとった。北さんは、老眼鏡を、ひょいと掛けて新聞を読みはじめた。落ちついたものだった。私はジョルジュ・シメノンという人の探偵小説を読みはじめた。私は長い汽車の旅にはなるべく探偵小説を読む事にしている。汽車の中で、プロレゴーメナなどを読む気はしない。
 北さんは私のほうへ新聞をのべて寄こした。受け取って、見ると、その頃私が発表した「新ハムレット」という長編小説の書評が、三段抜きで大きく出ていた。或る先輩の好意あふれるばかりの感想文であった。それこそ、過分のおめであった。私と北さんとは、黙って顔を見合せ、そうして同じくらい嬉しそうに一緒に微笑した。素晴らしい旅行になりそうな気がして来た。
 青森駅に着いたのは翌朝の八時頃だった。八月の中ごろであったのだが、かなり寒い。きりのような雨が降っている。奥羽線に乗りかえて、それから弁当を買った。
「いくら?」
「――せん!」
「え?」
「――せん!」
 せん! というのは、わかるけれど何十銭と言っているのか、わからないのである。三度聞き直して、やっと、六十銭と言っているのだという事がわかった。私は呆然ぼうぜんとした。
「北さん、いまの駅売の言葉がわかりましたか?」
 北さんは、真面目に首を振った。
「そうでしょう? わからないでしょう? 僕でさえ、わからなかったんだ。いや、きざに江戸っ子ぶって、こんな事を言うのじゃないのです。僕だって津軽で生れて津軽で育った田舎者です。津軽なまりを連発して、東京では皆に笑われてばかりいるのです。けれども十年、故郷を離れて、突然、純粋の津軽言葉に接したところが、わからない。てんで、わからなかった。人間って、あてにならないものですね。十年はなれていると、もう、お互いの言葉さえわからなくなるんだ。」自分が完全に故郷を裏切っている明白な証拠を、いま見せつけられたような気がして私は緊張した。
 車中の乗客たちの会話に耳をすました。わからない。異様に強いアクセントである。私は一心に耳を澄ました。少しずつわかって来た。少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々もうもうと蒸発するみたいに見事な速度で理解しはじめた。もとより私は、津軽の人である。川部という駅で五能線に乗り換えて十時頃、五所川原駅に着いた時には、なんの事はない、わからない津軽言葉なんて一語も無かった。全部、はっきり、わかるようになっていた。けれども、自分で純粋の津軽言葉を言う事が出来るかどうか、それには自信がなかった。
 五所川原駅には、中畑さんが迎えに来ていなかった。
「来ていなければならぬはずだが。」大久保彦左衛門もこの時だけは、さすがに暗い表情だった。
 改札口を出て小さい駅の構内を見廻しても中畑さんはいない。駅の前の広場、といっても、石ころと馬糞ばふんとガタ馬車二台、さびしい広場に私と大久保とがかばんをさげてしょんぼり立った。
「来た! 来た!」大久保は絶叫した。
 大きい男が、笑いながら町の方からやって来た。中畑さんである。中畑さんは、私の姿を見ても、一向におどろかない。ようこそ、などと言っている。濶達かったつなものだった。
「これは私の責任ですからね。」北さんは、むしろちょっと得意そうな口調で言った。「あとは万事、よろしく。」
「承知、承知。」和服姿の中畑さんは、西郷隆盛のようであった。
 中畑さんのお家へ案内された。知らせを聞いて、叔母がヨチヨチやって来た。十年、叔母は小さいおばあさんになっていた。私の前に坐って、私の顔を眺めて、やたらに涙を流していた。この叔母は、私の小さい時から、頑強に私を支持してくれていた。
 中畑さんのお家で、私はつむぎの着物に着換えて、はかまをはいた。その五所川原という町から、さらに三里はなれた金木かなぎ町というところに、私の生れた家が在るのだ。五所川原駅からガソリンカアで三十分くらい津軽平野のまんなかを一直線に北上すると、その町に着くのだ。おひる頃、中畑さんと北さんと私と三人、ガソリンカアで金木町に向った。
 満目の稲田。緑の色が淡い。津軽平野とは、こんなところだったかなあ、と少し意外な感に打たれた。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行ってみたが、裏日本の草木の緑はたいへん淡く、土は白っぽくカサカサ乾いて、陽の光さえ微弱に感ぜられて、やりきれなく心細かったのだが、いま眼前に見るこの平野も、それと全く同じであった。私はここに生れて、そうしてこんな淡い薄い風景の悲しさに気がつかず、のんきに遊び育ったのかと思ったら、妙な気がした。青森に着いた時には小雨が降っていたが、間もなく晴れて、いまはもう薄日さえ射している。けれども、ひんやり寒い。
「この辺はみんな兄さんの田でしょうね。」北さんは私をからかうように笑いながら尋ねる。
 中畑さんが傍から口を出して、
「そうです。」やはり笑いながら、「見渡すかぎり、みんなそうです。」少し、ほらのようであった。「けれども、ことしは不作ですよ。」
 はるか前方に、私の生家の赤い大屋根が見えて来た。淡い緑の稲田の海に、ゆらりと浮いている。私はひとりで、てれて、
「案外、ちいさいな。」と小声で言った。
「いいえ、どうして、」北さんは、私をたしなめるような口調で、「お城です。」と言った。
 ガソリンカアは、のろのろ進み、金木駅に着いた。見ると、改札口に次兄の英治さんが立っている。笑っている。
 私は、十年振りに故郷の土を踏んでみた。わびしい土地であった。凍土とうどの感じだった。毎年毎年、地下何尺かまでこおるので、土がふくれ上って、白っちゃけてしまったという感じであった。家も木も、土も、洗いさらされているような感じがするのである。路は白く乾いて、踏み歩いても足の裏の反応は少しも無い。ひどく、たより無い感じだ。
「お墓。」と誰か、低く言った。それだけで皆に了解出来た。四人は黙って、まっすぐにお寺へ行った。そうして、父の墓を拝んだ。墓の傍の栗の大木は、昔のままだった。
 生家の玄関にはいる時には、私の胸は、さすがにわくわくした。中はひっそりしている。お寺の納所なっしょのような感じがした。部屋部屋が意外にも清潔に磨かれていた。もっと古ぼけていた筈なのに、小ぢんまりしている感じさえあった。悪い感じではなかった。
 仏間に通された。中畑さんが仏壇の扉を一ぱいに押しひらいた。私は仏壇に向って坐って、お辞儀をした。それから、あによめに挨拶した。上品な娘さんがお茶を持って来たので、私は兄の長女かと思って笑いながらお辞儀をした。それは女中さんであった。
 背後にスッスッと足音が聞える。私は緊張した。母だ。母は、私からよほど離れて坐った。私は、黙ってお辞儀をした。顔を挙げて見たら、母は涙を拭いていた。小さいお婆さんになっていた。
 また背後に、スッスッと足音が聞える。一瞬、妙な、(もったいない事だが、)気味の悪さを感じた。眼の前にあらわれるまで、なんだかこわい。
「修ッちゃあ、よく来たナ。」祖母である。八十五歳だ。大きい声で言う。母よりも、はるかに元気だ。「逢いたいと思うていたね。ワレはなんにも言わねども、いちど逢いたいと思うていたね。」
 陽気な人である。いまでも晩酌を欠かした事が無いという。
 お膳が出た。
「飲みなさい。」英治さんは私にビイルをついでくれた。
「うん。」私は飲んだ。
 英治さんは、学校を卒業してから、ずっと金木町にいて、長兄の手助けをしていたのだ。そうして、数年前に分家したのである。英治さんは兄弟中で一ばん頑丈な体格をしていて、気象も豪傑ごうけつだという事になっていた筈なのに、十年振りで逢ってみると、実に優しい華奢きゃしゃな人であった。東京で十年間、さまざまの人と争い、荒くれた汚い生活をして来た私にくらべると、全然別種の人のように上品だった。顔の線も細く、綺麗だった。多くの肉親の中で私ひとりが、さもしい貧乏人根性の、下等な醜い男になってしまったのだと、はっきり思い知らされて、私はひそかに苦笑していた。
「便所は?」と私は聞いた。
 英治さんは変な顔をした。

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