「鬚を、剃らないか。」私は朝から何かと気をもんでいたのだ。 「そんな必要も無いだろう。」奇妙に大きく出る。私のこせこせした心境を軽蔑しているようにも見える。 「きょうは、でも、小坂さんの家へ行くんだろう?」 「うむ、行って見ようか。」 行って見ようかも無いもんだ。御自分の嫁さんと逢うんじゃないか。 「なかなかの美人のようだぜ。」私は、大隅君がも少し無邪気にはしゃいでくれてもいいと思った。「君が見ないさきに僕が拝見するのは失礼だと思ったから、ほんのちらと瞥見したばかりだが、でも、桜の花のような印象を受けた。」 「君は、女には、あまいからな。」 私は面白くなかった。そんなに気乗りがしないのなら、なぜ、はるばる北京からやって来たのだ、と開き直って聞き糺したかったが、私も意気地の無い男である。ぎりぎりのところまでは、気まずい衝突を避けるのである。 「立派な家庭だぜ。」私には、そう言うのが精一ぱいの事であった。君にはもったいないくらいだ、とは言えなかった。私は言い争いは好まない。「縁談などの時には、たいてい自分の地位やら財産やらをほのめかしたがるものらしいが、小坂のお父さんは、そんな事は一言もおっしゃらなかった。ただ、君を信じる、と言っていた。」 「武士だからな。」大隅君は軽く受流した。「それだから、僕だって、わざわざ北京から出かけて来たんだ。そうでもなくっちゃあ、――」言うことが大きい。「何しろ名誉の家だからな。」 「名誉の家?」 「長女の婿は三、四年前に北支で戦死、家族はいま小坂の家に住んでいる筈だ。次女の婿は、これは小坂の養子らしいが、早くから出征していまは南方に活躍中とか聞いていたが、君は知らなかったのかい?」 「そうかあ。」私は恥ずかしかった。すすめられるままに、ただ阿呆のように、しっかりビイルを飲んで、そうして長押の写真を見て、無礼極まる質問を発して、そうして意気揚々と引上げて来た私の日本一の間抜けた姿を思い、頬が赤くなり、耳が赤くなり、胃腑まで赤くなるような気持であった。 「一ばん大事のことじゃないか。どうしてそれを知らせてくれなかったんだ。僕は大恥をかいたよ。」 「どうだって、いいさ。」 「よかないよ。大事なことだ。」あからさまに憤怒の口調になっていた。喧嘩になってもいいと思った。「山田君も山田君だ。そんな大事なことを一言も僕に教えてくれなかったというのは不親切だ。僕は、こんどの世話はごめんこうむる。僕はもう小坂さんの家へは顔出しできない。君がきょう行くんだったら、ひとりで行けよ。僕はもう、いやだ。」 ひとは、恥ずかしくて身の置きどころの無くなった思いの時には、こんな無茶な怒りかたをするものである。
私たちは、おそい朝ごはんを、気まずい思いで食べた。とにかく私は、きょうは小坂氏の家へ行かぬつもりだ。恥ずかしくて、行けたものでない。縁談がぶちこわれたってかまわぬ。勝手にしろ、という八つ当りの気持だった。 「君が、ひとりで行ったらいいだろう。僕には他に用事もあるんだ。」私は、いかにも用事ありげに、そそくさと外出した。 けれども、行くところは無い。ふと思いついた。一つ牛込の瀬川さんを訪れて、私の愚痴を聞いてもらおうかと思った。 さいわい先生は御在宅であった。私は大隅君の上京を報告して、 「どうも、あいつは、いけません。結婚に感激を持っていません。てんで問題にしていないんです。ただもう、やたらに天下国家ばかり論じて、そうして私を叱るのです。」 「そんな事はあるまい。」先生は落ちついている。「てれているんだろう。大隅君は、うれしい時に限って、不機嫌な顔をする男なんだ。悪い癖だが、無くて七癖というから、まあ大目に見てやるんだね。」まことに師の恩は山よりも高い。「時にどうだ、頭のほうは。」そればかりを気にして居られる。
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