打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

黄村先生言行録(おうそんせんせいげんこうろく)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-16 6:54:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 さて、きょうは、何をお話いたしましょうかな。何も別にお話する程の珍らしい事もございませぬが、(こんなに気取らないと、いい先生なんだが)本当に、いつもいつも似たような話で、皆様も(誰もいやしない)うんざりしたでございましょうから、きょうは一つ、山椒魚という珍動物に就いて、浅学の一端を御披露ひろうしましょう。先日私は、素直な書生にさそわれまして(いやな事を言う)井の頭公園の梅見としゃれたのでありますが、紅梅、白梅、ほつほつと咲きほころび(紅梅は咲いていなかった)つつましくえんきそい、まことに物静かな、仙境とはかくの如きかと、あなた、こなた、夢に夢みるような思いにてさまよい歩き、ほとんど俗世間に在るを忘却いたし(親子どんぶり、親子どんぶり)ふと眼前にあらわれたるは、幽玄なる太古の動物、深山の(言うという字に糸二つか)巒気らんきたゆとう尊いお姿、ごそりごそりとうごめいていました。いや、驚かなくともよろしい。これが、その、れいの山椒魚であったというわけなのであります。私たちは、梅が香に酔いしれ、ふらふら歩いて、知らず識らずのうちに公園の水族館にはいっていたのであります。山椒魚。私はその姿を見て直観いたしました。これだ! これこそ私の長年さがし求めていたところの恋人だ。古代そのままのにおい。純粋の、やまと。(ちょっと、こじつけ)これは、全く日本のものだ。私は、おもむろに、かの同行の書生に向い、この山椒魚の有難さを説いて聞かせようと思ったとたんに、かの書生は突如狂人の如く笑い出しましたので、私は実に不愉快になり、説明を中止して匆々そうそうに帰宅いたしたのでございます。きょうは皆様に、まずこの山椒魚の学理上の説明を少しお聞かせ致しましょう。日本の大きい山椒魚は、これは世界中でたいへん名高いものだそうでございまして、私が最近、石川千代松博士の著書などで研究いたしましたところにれば、いまから二百年ばかり前に独逸ドイツの南の方で、これまで見た事も無い奇妙な形の化石が出まして、或るそそっかしい学者が、これこそは人間の骨だ、人間は昔、こんな醜い姿をしてって歩いていたのだ、恥を知れ、などと言って学界の紳士たちをおどかしたので、その石は大変有名になりまして、貴婦人はこれを憎み、醜男は喝采かっさいし、宗教家は狼狽ろうばいし、牛太郎は肯定し、捨てて置かれぬ一大社会問題にさえなりかけて来ましたので、当時の学界の権威たちが打ち寄り研究の結果、安心せよ、これは人間の骨ではない、しかしなんだかわからない、亜米利加アメリカの谷川にむサンショウウオという小動物に形がよく似ているが、けれども、亜米利加にいるそのサンショウウオは、こんなに大きくはない、両者の間には、その大きさに於いて馬と兎くらいの相違がある。結局、なんだかわからないが、まあ、大サンショウウオとでもいうものであろう、と気のきいたごまかしかたをして、いまはこの大サンショウウオなるものは死滅して世界中のどこにもいない、居らん! と大声で言って衆口を閉じさせ、ひとまず落ちつく事にいたしましたが、さてその後、シーボルトという人が日本にまいりまして、或る偶然の機会にれいの一件がのそりのそり歩いているのを見つけて腰を抜かした。何千年も前に、既に地球上から影を消したものとばかり思われていた古代の怪物が、生きてのそのそ歩いている、ああ、ニッポンに大サンショウウオ生存す、と世界中の学界に打電いたしました。世界中の学者もこれには、めんくらった。うそだろう、シーボルトという奴は、もとから、ほら吹きであった、などと分別臭い顔をして打ち消す学者もございましたが、どうも、そのニッポンの大サンショウウオの骨格が、欧羅巴ヨーロッパで発見せられた化石とそっくりだという事が明白になってまいりましたので、知らぬ振りをしているわけにもゆかず、ここに日本の山椒魚が世界中の学者の重要な研究課目と相なりまして、いやしくも古代の動物に関心を持つほどの者は、ぜひとも一度ニッポンの大サンショウウオにお目にかからなければ話にならぬとまで言われるようになって、なんとも実に痛快無比、御同慶のいたりに堪えません。思っても見よ(また気取りはじめた)太古の動物が太古そのままの姿で、いまもなお悠然とこの日本の谷川に棲息せいそくし繁殖し、また静かにものを思いつつある様は、これぞまさしく神ながら、万古不易の豊葦原とよあしはら瑞穂国みずほのくに、かの高志こし八岐やまた遠呂智おろち、または稲羽いなばの兎の皮をぎし和邇わになるもの、すべてこの山椒魚ではなかったかと(脱線、脱線)私は思惟しいつかまつるのでありますが、反対の意見をお持ちの学者もあるかも知れません。別段、こだわるわけではありませんが、作州の津山から九里ばかり山奥へはいったところに向湯原村というところがありまして、そこにハンザキ大明神という神様をまつっているやしろがあるそうです。ハンザキというのは山椒魚の方言のようなものでありまして、半分に引き裂かれてもなお生きているほど生活力が強いという意味があるのではなかろうかと思いますが、そのハンザキ大明神としてまつられてある山椒魚も、おそろしく強く荒々しいものであったそうで、さかんに人間をとって食べたという口碑こうひがありまして、それは作陽誌という書物にも出ているようでございます。あんまり人間をとって食べるので、る勇士がついにこれを退治して、あとのたたりの無いように早速、大明神として祀り込めてうまい具合におさめたという事が、その作陽誌という書物に詳しく書かれているのでございます。いまは、ささやかなお宮ですが、その昔は非常に大きい神社だったそうで、なんだか、八岐やまた大蛇おろちの話に似ているようなところもあるではございませんか。決して、こだわるわけではありませぬが、作陽誌によりますると、そのハンザキの大きさが三丈もあったというのですが、それは学者たちにとっては疑わしい事かも知れませんが、どうも私は人の話を疑う奴はまことにきらいで、三丈と言ったら三丈と信じたらいいではないか。(何も速記者に向って怒る必要はない)とにかく昔は、ほうぼうに山椒魚がいて、そうしてなかなか大きいのも居ったという事を私は信じたいのでございます。いったいあの動物は、からだが扁平へんぺいで、そうして年を経ると共に、頭が異様に大きくなります。そうして口が大きくなって、いまの若い人たちなどがグロテスクとか何とかいって敬遠したがる種類の風貌を呈してまいりますので、昔の人がこれを、ただものでないとして畏怖いふしたろうという事も想像に難くないのであります。実際また、いま日本の谷川に棲息している二尺か二尺五寸くらいの山椒魚でも、くらいついたり何かするとひどいそうです。鋭い歯はありませんけれども何せ力が強うございますから、人間の指の一本や二本は、わけなく食いちぎるそうで、どうも、いやになります。(失言)その点に就いても私は山椒魚に対して常に十分の敬意を怠らぬつもりでございます。割合におとなしい動物でありますけれど、あれで、怒ると非常にこわいものだそうで、稲羽いなばの兎も、あるいはこいつにやられたのではなかろうかと私はにらんでいるのでございますが、これに就いてはなお研究の余地もあるようでございます。妙なもので、あのように鈍重に見えていても、ものを食う時には実に素早いそうで、静かに瞑想めいそうにふけっている時でも自分の頭の側に他の動物が来ると、パッと頭を曲げて食いつく、これがどうも実に素早いものだそうで、話に聞いてさえ興醒きょうざめがするくらいで、突如として頭を曲げて、ぱくりとやって、また静かに瞑想にふける。日本の山椒魚は、あのヤマメという魚を食っているのですが、どうしてあんな敏捷な魚をとって食えるか、不思議なくらいであります。それにはあの山椒魚の皮膚の色がたいへん役立っているようであります。かれが谷川の岩の下に静かに身を沈めていると、泥だか何だかさっぱりわからぬ。それでかれは、岩穴の出口のところに大きい頭を置いておきまして、深くものを思うておりますると、ヤマメがちょいとその岩の下に寄って来る、と突如ぱくりと大きな口をあけてそれを食べる、遠くまで追いかけて行くという事はからだが重くてとても出来ない、そのかわり自分の頭のすぐそばに来たなら決して逃がさずぱくりと食べる、それは非常に素早いものだそうであります。昼はたいてい岩の下などにもぐっているのですが、夜はのそのそ散歩に出かける。そうしてずいぶん遠く下流にまでやって来る様子で、たいへん大きな河の河口で網を打っていたら、その網の中にはいっていたなどの話もあるようでございます。だいたい日本のどの辺に多くいるのか、それはあのシーボルトさんの他にも、和蘭オランダ人のハンデルホーメン、独逸ドイツ人のライン、地理学者のボンなんて人も、ちょいちょい調べていましたそうで、また日本でも古くは佐々木忠次郎とかいう人、石川博士など実地に深山を歩きまわって調べてみて、その結果、岐阜の奥の郡上ぐじょう郡に八幡はちまんというところがありまして、その八幡が、まあ、東の境になっていて、その以東には山椒魚は見当らぬ、そうして、その八幡から西、中央山脈を伝わって本州の端まで山椒魚はいる、という事にただいまのところではなっているようでございます。周防すおう長門ながとにもいるそうですし、石州あたりにもいるそうです。それから、もう一つは、琵琶湖の近所から伊勢、伊賀、大和、あの辺に山脈がありますが、あの山脈にもちょいちょい居るそうでございます。その他は、四国にも九州にもいまのところ見当らぬそうで、箱根サンショウウオというのが関東地方に棲息して居りますけれども、あれはまた全く違った構造を持っているもので、せいぜい※(「虫+原」、第3水準1-91-60)いもりくらいの大きさでありまして、それ以上は大きくなりませぬ。日本の山椒魚が、とにかく古代の化石と同じくらいに大きいというところに有難さがある訳でありまして、文句無しに世界一ばん、ここに私の情熱もおのずから湧いて来て、力こぶもはいってまいります次第でございます。最近、日本で発見せられた山椒魚の中で一ばん大きいのは、四尺五寸、まず一メートル半というところで、それ以上のものは、ちょっと見当らぬそうでございます。けれども、伯耆国ほうきのくに淀江よどえ村というところに住んでいる一老翁が、自分の庭の池に子供の時分から一匹の山椒魚を飼って置いた、それが六十年余も経って、いまでは立派に一丈以上の大山椒魚になって、時々水面に頭を出すが、その頭の幅だけでも大変なもので、幅三尺、荘厳ですなあ、身のたけ一丈、もっとも、この老翁は、実にずるいじいさんで、池の水を必要以上に濁らせて、水面には睡蓮すいれんをいっぱいはびこらせて、その山椒魚の姿を誰にも見せないようにたくらんで、そうして自分ひとりで頭の幅三尺、身のたけ一丈、と力んでいるのだそうで、それは或る学者の報告書にも見えていた事でございますが、その学者は、わざわざ伯耆国淀江村まで出かけて行ってその老翁に逢い、もし本当に一丈あるんだったら、よほど高い金を出して買ってもよろしい、ひとめ見せてくれ、と懇願したが、老翁はにやりと笑って、いれものを持って来たか、と言ったそうで、実に不愉快、その学者も「面妖めんようの老頭にして、いかぬ老頭なり」とその報告書にしるしてありますくらいで、地団駄じだんだ踏んでくやしがった様が、その一句にっても十分に察知できるのであります。その山椒魚は、その後どうなったか、私も実は、それほどの大きい山椒魚を一匹欲しいものだと思っているのでありますが、どうも、いれものを持って来たか、と言われると窮します。バケツぐらいでは間に合いません。けれども、私は、いつの日か、一丈ほどの山椒魚を、わがものにしたい、そうして日夕相親しみ、古代の雰囲気にじかに触れてみたい、深山幽谷のいぶきにしびれるくらい接してみたい、頃日けいじつ、水族館にて二尺くらいの山椒魚を見て、それから思うところあってあれこれと山椒魚にいて諸文献を調べてみましたが、調べて行くうちに、どうにかして、日本一ばん、いや日本一ばんは即ち世界一ばんという事になりますが、一ばん大きな山椒魚を私の生きて在るうちに、ひとめ見たいものだという希望に胸を焼かれて、これまた老いの物好きと、かの貧書生(ひどい)などに笑われるのは必定と存じますが、神よ、私はただ、大きい山椒魚を見たいのです、人間、大きいものを見たいというのはこれ天性にして、理窟も何もありやせん! (本音に近し)それは、どのように見事なものだろう、一丈でなくとも六尺でもいい、想像するだに胸がつぶれる。まず今日は、これくらいにして置きましょう。(ばかばかしい)

 その日の談話は以上の如く、はなはだ奇異なるものであった。いくら黄村先生が変人だといっても、こんな奇怪な座談をこころみた事は、あまり例が無い。日によっては速記者も、おのずからえりを正したくなるほど峻厳な時局談、あるいは滋味きくすべき人生論、ちょっと笑わせる懐古談、または諷刺ふうし、さすがにただならぬ気質の片鱗へんりんを見せる事もあるのだが、きょうの話はまるで、どうもいけない。一つとして教えられるところが無かった。紅梅白梅が艶を競ったの、夢に夢みる思いをしたのといい加減な大嘘ばかり並べて、それからいよいよ山椒魚だ、巒気らんきたゆとう尊いお姿が、うごめいていて、そうして夜網にひっかかったの、ぱくりと素早くたべるとか何とか言って、しまいには声をふるわせて、一丈の山椒魚を見たい、せめて六尺でもいい、それはどのように見事だろう、なんて言い出す始末なので、私は、がっかりした。先生も山椒魚の毒気にあてられて、とうとう駄目になってしまったのではなかろうかと私は疑い、これからはもうこんなつまらぬ座談筆記は、断然おことわりしようと、心中かたく決意したのである。その日は私もあまりの事にあきれて、先生のお顔が薄気味わるくさえ感じられ、筆記がすむとすぐにおいとましたのであるが、それから四、五日経って私は甲州へ旅行した。甲府市外の湯村温泉、なんの変哲もない田圃たんぼの中の温泉であるが、東京に近いわりにはひなびて静かだし、宿も安直なので、私は仕事がたまると、ちょいちょいそこへ行って、そこの天保館という古い旅館の一室に自らを閉じこめて仕事をはじめるということにしていたのである。けれども、その時の旅行は、完全に失敗であった。それは二月の末の事で、毎日大風が吹きすさび、雨戸が振動し障子しょうじの破れがハタハタささやき、夜もよく眠れず、私は落ちつかぬ気持で一日一ぱい火燵こたつにしがみついて、仕事はなんにも出来ず、腐りきっていたら、こんどは宿のすぐ前の空地に見世物小屋がかかってドンジャンドンジャンの大騒ぎをはじめた。悪い時に私はやって来たのだ。毎年、ちょうどその頃、湯村には、厄除地蔵やくよけじぞうのお祭りがあるのだ。たいへん御利益のある地蔵様だそうで、信濃しなの身延みのぶのほうからも参詣人が昼も夜もひっきりなしにぞろぞろやって来るのだ。見せ物は、その参詣人にドンジャンドンジャン大騒ぎの呼びかけを開始したのである。私は地団駄踏んだ。厄除地蔵のお祭りが二月の末に湯村にあるという事は前から聞いて知っていたのに、うっかりしていた。ばかばかしい事になったものだ。私は仕事を断念した。そうして宿の丹前たんぜんに羽織をひっかけ、こうなれば一つその地蔵様におまいりでもして、そうしてここを引き上げようと覚悟をきめた。宿を出ると、すぐ目の前に見世物小屋。テントは烈風にはためき、木戸番は声をからして客を呼んでいる。ふと絵看板を見ると、大きな沼で老若男女が網をいているところがかかれていて、ちょっと好奇心のそそられる絵であった。私は立ちどまった。
「伯耆国は淀江村の百姓、太郎左衛門が、五十八年間手塩にかけて、――」木戸番は叫ぶ。

上一页  [1] [2] [3]  下一页 尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口