春は飛ぶ
指がまづそれと氣のつく春の土
これは最近「雛によする展覽會」のため、人形をつくる首を泥でこねた實感をうたつた句である。今年は春が早くきて庭の梅もくれのうちから蕾みそめて、雪がきたらどうすることかと心配しながらアトリエの窓から人形をつくりながら時折梅の枝を眺めやつたものだつた。しかし彼女はためらいながらも、氣まぐれな寒い日暖かい日を送り迎へながらも咲いた。季節のうつりかはりや、花の咲くけはひなどをこんな心持で觀察したり感得したりすることは近來のことだ。少年時代にはまるで美しい景色とか花とか注意を向けなかつたと思ふ。年と共に認識が深くなつてゆくやうだ。これはどうも日本人特有のものらしい。
野茨やこの道ゆかばふるさとか
少年時代には何げなく見過ごしたことであるが、村から村、村から街をつなぐ街道の美しさ、あの曲り、あの高低、そしてあの無限感それから遠い村にさいたこぶしの花の明るさは、白壁の白よりも白い、あんなに朗らかな春の傳令使もあるまい。 武藏野には野茨がまことに少いその代り、このあたりでゑごとよんでゐる、ちさの木はいたるところに見られる。くぬぎ林の中に、畑の畦道の傍に、冬の素直な枝ぶりを見せて立ち、五月はじめには三角な葉と共にまことに可憐な白い匂ひの花をつける。五月の雨に花が散りしいて、深い影を野の小徑につくつてゐる風情は、もし自然木の牧場の柵の傍にでもあればもしそれロシア更紗のガウンでもきて手籠をもつた若い細君でも過ぎてゆくとしたら、そのまゝ可憐な風景畫が得られる。總じて東京の近郊は土壤が黒くて道がぬかるみで惡いが、春先き三月のはじめころになると、さすがに土の底からもりあげる春のけはひを靴の底に感じることが出來る、丘をくだる時、すこし滑りぎみな赤土の中に、吸ひこむやうな春の誘惑がある。しかし道は平坦なもの、曲線よりも直線が短いという概念から東京の郊外も人が住むや否や、丘も森も切拂つて、オフイスへ出かける時間の節約を考へる。或は靴に土をつけないため門のうちまで自動車が入るやうに道をつける。車のわだちのあとに生えてゐたおばこ草もいつの間にかなくなつた。やがてゑごの小徑もなくなるであらうと思はれる。私はゑごの木を惜む心から、見あたり次第にゑごの木を買つてきて庭へ植つけた。實生から出來たゑごの苗木も百本ほどになつた。希望の方にはおわけしたいと思つてゐることをこの機會に書きつけておこう。
土つきし靴のいとしさや烏麥
南からふいてくる暖かい風がネルのキモノの袖口をふく晩春初夏のころの郊外はまたなくうれしいものだ。咲きおくれた山櫻が茶褐色の葉の間に、まだ葉をつけぬならの林の間にひつそり立つてゐる景色を私は春の景色の中で一番好もしく思ふ。京都にゐたころにも清水から小夜中山の道をぬけて山科の方へぬける道や、鹿ヶ谷から三千院の方へ歩く道を、うつらうつら歩いたものだ。南禪寺の松林の木の間に咲いてゐた櫻の美しさ岡崎公園の空いちめんに飛んでゐた、たんぽゝのむく毛。どんがんどんがんと壬生寺の狂言の鐘と太鼓の音をききながら歩いた菜の花道。島原の道中の日、東寺の縁日に見たのぞき眼鏡のエロチツクな感覺。いづれも春の感傷でないものはない。
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MEMOより
街に住む人々に、時候のかはりめをいちはやく知らせるものは街樹である。私の部屋の窓から見える鈴掛の葉は、毎朝毎に秋が過ぎて冬の早く來たことを知らせる。慌しい生活のひまにこの年も過ぎてゆく。今日も鈴掛の木は道ゆく人に黄色な葉を投げてゐる。 私が子供の頃には海老茶色が流行つた。シヨールなど今のやうではなくロシヤの女がしてゐるやうな大きなのであつた。髮もこの頃のやうな形のわるい束髮でなくずつと前髮をつめた、根の下つた品の好い形をしてゐた。半襟は江戸紫のビロードなど多かつたやうにおもふ。圖按のまづい半襟より無地の方がどんなに好いかわからない。 成裝した少女よりは、さつぱりした常着の少女の方が氣持が好いのは、心の上にも姿の上にも調子がとれてゐるからであらう。たいへん立派な着物をきて反つて品の下つた卑しい感じのする少女がある。服裝がどんなにその人の心持を支配する力を持つかといふことを感じる。またその人の性格がどんなに服裝の趣好のうちに表はれるかといふことも感じる。平和に暮してゆく人はやはり調子のとれた生活をした人であるやうに、調子のとれた服裝をした人は氣持の好いものです。黒い髮の持主が色白く、赤い髮の持主が桃色の面をしてゐることも自然の巧みである。赤い髮の少女が深い紅色の花をさした美しさを見たことがある。形のうへばかりではない、心持のうへにも調子のとれた生活をしたい。これはあなたがたにいふのではない、私自身に言ふのである。 しかし調子の好い人間といふのではない。あまり調子の好いのはたのもしいものではない。私等はあまりたやすくYesやNoを言つてゐるやうにおもふ。心持の調子とれた人は、あらゆる問ひに直に答へられる筈はないとおもふ。太陽は必ずしも赤くはない。霧の多い春先の太陽は青磁の花瓶より青い。よく澄んだ夏の富士川の流よりも、冬の黄色い隅田川の水の美しく見えることさへある。昔から美しいと思はれたものを直に美しいと考へることは間違つてゐる。
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王春今昔
春に隣りする心持など、もういつか實感に遠いものになつてゐる。たゞ、年の暮れてゆく姿ばかりが眼につく。 いつもながら、場末の唐物屋にメリヤスの肌着が積まれ、大賣出しの立札がたてられ、三等郵便局の貯金口に人垣が作られ、南京豆の空袋が、風にふかれて露地を走る風景の中では、街角に傾いたまゝ突立つた瓦斯燈よりも、人間は慌しいと思ふことだ。 もしそれ、新開地の洋食店のバルコンで廣告樂隊の奏する「煙も見えず」のマーチでも、うつかり聞されたら、今でさへとんでもない涙を流さうも知れぬ。 といふのは、まだ家を持つたばかりの年の暮れに、その頃W大學の政治科にゐたNが來合せて、細君が鏡臺の引出しへしまつておいた正月餅の料を見付けて、どこかの斜めの細道で、「破門さん」と呼びかけられたのを、けつく好いしほにして、あくる日のまつ晝間、王道坦々と歸つてくると、家の近所の新開の洋食屋のバルコンで、件の「煙も見えず」の音樂だ。氣がとがめて、懐手で、政治科と二人で、空腹でものが哀れで、子供に交つて、ぼんやり樂隊を眺めてゐると、師走の二十九日のことだから、赤い手柄をかけた艶々の丸髷の女が、折も折、にこやかに近づいて來るのだ。それが細君で、讓葉と小松を一本、心ばかり淋しく提げた風情を今も忘れない。 依然、その日暮しの破門さんは、シルクハツトを被つて伺候する光榮も持たない代りに、年始の禮を缺ぐ謂れもない。だから東京の新年の記憶と言へば、街ががらんとして、大禮服を着た兵隊が晴がましく歩いてゆくのを思出すくらゐなものだ。昔下宿屋の二階でよんだ、紅葉や一葉の作物の中にある東京の春の抒景は、もう古典になつたほど、今の東京の新年は、商取引と年期事務としてあるに過ぎないと、思はるる。 富士山の見える四日市場に、紀州の蜜柑船がつくのさへもう見られまい。 生れた國の方では、年の暮になると、母親の里から、姉の嫁入先から、男の子のために破魔弓を贈られるのを樂んだものだ。あゝいふ素朴なペザントアートがまだ田舍には殘つてゐるであらうか。今の子供達もあゝいふ心持で正月を待つてゐるであらうか。奥の座敷の炬燵へもぐつて、皮のすこし苦酸い雲州蜜柑を食べながら、酒倉の方で、もとをかく杜氏の唄を聞きながら、暦をまく老人の心境とはまた異つた心で、もういくつ寢たらと指を折つたものであつた。姉の嫁かぬ前には播州室津からきてゐた師匠が、いつも炬燵の女王で、「やしよめ、やしよめ、京の町のやしよめ」を唄つたものだ。 ある年、祇園の蒼求詣に、一家女中まで引連れて、蒼求の火を持つたまゝ、終夜運轉の京阪電車が嬉しさに、道頓堀のおそい茶屋で年越そばを祝つて、住吉へお詣りすると、ほのぼのと夜が明けはなれ、太鼓橋の上で初日出を拜んだ。ほがらかな心持でとうとう和歌浦までいつてしまつた。三ヶ日の雜煮もそこで祝つて、 「正月にはどうも生れた土地の米が食べたい」そんな事で、大阪から女中だけ京へ歸して、岡山まで、正月の餅を食べにいつたものだ。親も兄弟もそこにゐるのではなかつたが、心豐かな友達がゐて、その山莊へ私達を迎へて、匂のなつかしい備前米を食べさせてくれた。それから病みついて(それが原因でといふ意味ではない)有馬の湯に二週間ばかり、京へたどりついたのは、二月の下旬でもあつたらうか。 「それまで蒼求の火を消さないで持つて歩いたといふお話でせうね」とこの話をきいた友達がある時言つたが、蒼求の火はもとより、その時の道伴れであつた家刀自はもはやない。 「年の名殘りも心細けれ、亡き人の來る夜とて魂まつるこそ、あはれなりしか」とあるものの本を思出すのである。
附記。蒼求の火といふのは、祇園社に大晦日の宵から元朝寅の刻へかけて行ふ削掛の神事に、一切の凶惡を除祓ふために、この削掛の火を參詣の人が蒼求(不祥を除く草にて火繩のごとく作りたるもの)に移して、その火を消さぬやうに持つて皈つて、元朝の羮を炊ぐ。そして火を一年中絶さないやうにすると幸福があると言はれてゐる。
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