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大震火災記(だいしんかさいき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-12 9:45:10 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       二

 災害の来た一日はちょうど二百十日にひゃくとおかの前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々あおあおとはれて、平和な初秋はつあきびよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐら/\/\とゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所ほんじょのような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場だいこうばの屋根がわらがうねうねと大蛇だいじゃが歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうと土烟つちけむりが立ち上る、附近の空地あきちへにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火があがって来たと話した人があります。
 ある人は、電車で神田かんだ神保町じんぼうちょうのとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとびりると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町すだちょうの近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒烟くろけむりが上っていたと言っています。
 まったくそうでしょう。最初の震動は約十四秒つづいたのですが、それから、ものの三分とたたないうちに、神田以下十二区にわたって四十か所から発火したのです。本所や浅草あさくさでは、十二時におのおの十二、三か所からもえ上ったくらいです。それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川ふかがわ、浅草、日本橋にほんばし京橋きょうばしの全部と、麹町こうじまち、神田、下谷したやのほとんど全部、本郷ほんごう小石川こいしかわ赤坂あかさかしばの一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。
 その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作や、家々のこんろなぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少くなかったようです。何分なにぶん地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、二十けんはばぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向うがわはもうまっにもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割ほりわりやどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルヂィングなぞには、地震でがらがらとつぶされて、一どに何百人という人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。
 多くの人々は、たいてい、ソラ火がまわったというので、のみ着のままにげ出したようです。中には、安全と思うところへ早く家財なぞをもち出して一安神ひとあんしんしていると、もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっうから火の子がふりかぶさってるという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもにげにげするうちに、とうとうほりわりのところなぞへおいつめられて、仕方なしに泥水どろみずの中へとびこむと、その上へ、あとから何十人という人がどんどんおちこんで、下のものはおしつけられておぼれてしまうし、上の方にいた人は黒こげになって、けっきょく一人のこらず死んだような場所もあります。
 てんでんにつつみをしょってかけ出した人も、やがて往来が人一ぱいで動きがとれなくなり、仕方なしに荷をほうり出す、むりにせおってつきぬけようとした人も、その背中の荷物へ火の子がとんでもえついたりするので、つまりは同じく空手からてのまま、やっとくぐりぬけて来たというのが大方おおかたです。気のどくなのは、手近てぢかの小さな広場をたよって、坂本さかもと、浅草、両国りょうごくなぞのような千坪二千坪ばかりの小公園なぞへにげこんだ人たちです。そんな人は、ぎっしりつまったなり出るにも出られず、みんな一しょにむし焼きにあってしまいました。
 そんなわけで、なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城きゅうじょう前の広地ひろちや、芝、日比谷ひびや上野うえのの大公園なぞを目がけてひなんしたのです。平生へいぜいはふつうの人のはいれない、離宮やぎょえんや、宮内省くないしょうの一部なども開放されたので、人々はそれらの中へもおしおしになってにげこみました。
 にげるについて一ばんじゃまになったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来に一ぱいつづきはだかっているので、歩こうにも出ようにもあがきがとれなかったと言います。そんなところでは、ただぎゅうぎゅうおされ/\て、やっと一寸二寸ずつうごいていくだけなので、目ざす広場へつくのに、平生なら二十分でいけるところを、二時間も三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちにはうしろの方の人は見る見るむし焼きになり、横の方からはどんどん火の子が来て、着物や髪にもえつくというようなありさまで、女や子どもの中には、ふみたおされて死んだものもどれだけあるか分らないと言われています。
 中でも一ばん悲さんだったのは、本所の被服しょうあとへにげこんだ人たちです。そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところが、そこも、やがて、ぐるりと火の手につつまれ、多くの荷物へどんどんもえ移って来て、とうとう、三万二千という多数の人が、すっかり黒こげになってしまいました。
 そのむらがりかさなってたおれた人の一ばん下になっていたために、からくもたすかって息をふきかえし、上部の人がすっかり黒やけになったのち、やっともぐり出たという人が二、三十人ばかりあります。そんな人たちの話をきくと、まるで身の毛もよだつようです。或一人は、当夜、火の手がせまって息ぐるしくてたまらないので、人のからだの下へぐんぐん顔をつッこんでうつしになっていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気みずけというのは、人の小便しょうべんか、焼け死んだ死体のあぶらが流れたまっていたのだろうと話しました。
 そのほかいろいろの方面のそう難者について、さまざまのいたいたしい話を聞きました。永代橋えいたいばしが焼けおちるのと一しょに大川おおかわの中へおちて、あとでたすけ上げられた或婦人なぞは、最初三つになる子どもをつれて、深川の方からのがれて来て、橋の半ば以上のところまで、ぎゅうぎゅうおされてわたって来たと思うと、急に、さきが火の手にさえぎられて動きがつかなくなり、やがてまうえへもびゅうびゅう火の子をかぶって息も出来ません。婦人はもうこれなり焼け死ぬものと見きわめをつけやっと帯や小帯こおびをつないで子どもをしばりつけて川の上へたぐりおろし、下を船がとおりかかったらその中へ落すつもりでまっているうちに、つい火気かっきで目がくらんで子どもをはなしてしまい、じぶんも間もなく橋と一しょに落ちこんで流れていったのだと話していました。隅田川すみだがわにかかっていた橋は、両国橋のほかはすべて焼けおちてしまいました。
 浜町はまちょう蔵前くらまえあたりの川岸かわぎしで、火におわれて、いかだの上なぞへとびこんだ人々の中には、どおし火の風をあびつづけて、生きた思いもなく、こごまっていた人もあり、中にはくびのあたりまで水につかって、火の子が来るともぐりこみ、もぐりこみして、七、八時間も立ちつづけていた人もあったそうです。

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