三十八
向座敷にてぽん/\と手を打ち、
宗「
誰も居ぬかな」
下婢「はい」
此の座敷に寝ているのは渡邊お竹で、宗達が看病を致して居りますので、
婢「お呼びなさいましたかえ」
宗「
一寸こゝへ入ってくれ」
婢「はい」
宗「
序に水を持って来ておくれ、病人がうと/\
眠附くかと思うと向座敷で時々大勢がわアと笑うので誠に困る」
婢「誠にお
喧しゅうござりやしょう」
宗「
其処をぴったり閉めておくれ」
婢「
畏まりやした」
と立って行って大勢の所へ顔を出しまして、
「どうかあの皆さん相宿の方に病人がありやすから、
余り
大え声をして、わア/\笑わないように、喧しいと病人が眠り付かねえで困るだから、
静になさえましよ」
侍「はい/\宜しい……病人がいるなら止しましょう」
○「小声でやってくだせえ、
皆は
虚っぺえ
話で面白くねえ、旦那が武者修行をした時の、
蟒蛇を
退治たとか何とかいう
剛いのを聞きたいね」
侍「左様さ拙者は是迄恐ろしい怖いというものに出会った事はないが、
鼠に両三度出会った時は怖いと思ったね」
○「ど
何処で」
侍「
南部の
恐山から地獄谷の
向へ抜ける時だ」
○「へえー名からして
怖ねえね恐山地獄谷なんて」
侍「
此処は
一騎打の
難所で、
右手の
方を見ると
一筋の小川が山の
麓を
繞って、どうどうと小さい石を転がすように
最と
凄まじく流れ、
左手の
方を見ると
高山峨々として実に屏風を建てたる如く、誠に恐ろしい山で、
樹は
生茂り、熊笹が地を
掩うている、道なき所を踏分け/\段々
下りて来たところが、人家は
絶てなし、雨は降ってくる、困ったことだと思い、暫く考えたが
路は知らず、
深更に及んで狼にでも出られちゃア猶更と大きに心配した、時は丁度秋の
末さ、すると向うにちら/\と見える」
○「へえー、出たんでござえやすか、狼の眼は鏡のように光るてえから、貴方がうんと立止って
小便をなすったろう」
侍「なに、
小便などを
為やアせん」
○「それから」
侍「これは困ったものじゃ、
彼処に誰か
焚火でもして居るのじゃアないかと思った」
○「成程山賊が居て身ぐるみ脱いでけてえと、お前さん
引こぬいて斬ったんで」
侍「まゝ黙ってお聞き、そう先走られると
何方が話すのだか分らん、山賊が
団楽坐になっていたのではない、一軒の
白屋があった」
○「へえー山ん中に……
問屋でしょう」
侍「なに
茅屋」
○「え、
油屋」
侍「油屋じゃアない、壊れた家をあばらやという」
○「
確かりした家は
脊骨屋で」
侍「そう先走っては困る、
其家へ行って拙者は
武辺修行の者でござる、
斯かる
山中に
路に踏み迷い、
且此の通り雨天になり、日は暮れ、誠に難渋を致します、
一樹の蔭を頼むと云って音ずれると、奥から出て来た」
○「へえー
肋骨が出て、歯のまばらな
白髪頭の
婆が、片手に
鉈見たような物を持って出たんだね、一つ
家の婆で、上から石が落ちたんでげしょう」
侍「
然うじゃアない、二八余りの
賤女が出たね」
○「それじゃア気が
無え、雀が二三羽飛出したのかえ」
侍「
賤女」
○「えゝ
味噌汁の中へ入れる汁の実」
侍「汁の実じゃアない、二八余り十六七になる娘が出たと思いなさい」
○「へえー
家に居たんだね、
容貌は
好うごぜえやしたろうね、
容貌は」
侍「そんな事は何うでも宜しいが、
能く見ると
乙な女さ」
○「へえー、おい鐵、
此方へ寄れ、ちょいと見ると
美い女だが、能く見ると
眇目で横っ
面ばかり見た、あゝいう事があるが、
矢張其の
質なんでしょう」
侍「
足下が喋ってばかり居っては拙者は話が出来ぬ」
○「じゃア黙ってますから一つやって下せえ」
侍「それから
紙燭を
点けて出て来て、お武家さま斯様な人も通らん
山中へ何うしてお出でなさいました、拙者は武術修業の身の上ゆえ、
敢て淋しい処を恐れはせぬが如何にも追々
夜は更けるし、雨は降って来る、誠に難渋いたすによって一泊願いたいと云うと、何事も
行届きません、召上る物も何もございませんし、着せてお
寐かし申す物もございません、それが御承知なれば見苦しけれども御遠慮なくお泊り遊ばせと、親切な女で汚い
盥へ谷水を汲んで来て、足をお洗いなさいというので足を洗いました」
○「へえー其の娘の親父か何かいましたろう」
侍「親父もいない、娘一人で」
○「へえー……
母親もいませんか」
侍「そう喋っては困りますな」
○「もう云いません、それから」
侍「ところが段々聞くと両親もなく、只一人
斯る山の中に居って、
躬ら
自然薯を掘って来るとか、
或は
菌を
採るとか、
薪を採るとか、女ながら随分荒い稼ぎをして
微かに暮しておるという
独身者さ、見れば器量もなか/\
好い、色が白くて目は少し小さいが、眉毛が濃い、口元が可愛らしく、髪の毛の
光艶も
好し、
山家に
稀な美人で」
○「へえー、ふう成程」
侍「何とも云やアしない、まア黙ってお聞き」
○「へえ」
侍「拙者は修業の身の上で、好い女だとは思いましたけれど、
猥らしい事を云い掛けるなどの念は毛頭ない」
○「それは
何年頃の事ですか」
侍「丁度五年
以前の事で」
○「あなたは
幾歳だえ」
侍「
其様な事を聞かなくとも
宜い、三十九才じゃ」
○「老けているね……五年
以前、じゃア
未だア
壮な時でごぜえやすな」
侍「左様」
○「へえ、それから何うしました」
侍「拙者の枕元へ水などを持って来て、
喉が渇いたら召上れと
種々手当をしてくれる、
蕎麦掻を
拵えて出したが、
不味かったけれども、親切の志有難く旨く喰いました」
○「蕎麦粉は宜うごぜえやしたろうが、
醤油が悪かったに
違えねえ、ぷんと来るやつで、
此方の
醤油を持って
行きたいね」
侍「何を云っている」
○「へえ、それから」
侍「娘は向うの方へ一人で寝る、時は丁度秋の末の事、
山冷でどうも寒い、雨はばら/\降る」
○「成程/\うん/\」
侍「娘は何うしたか
何時までも寝ないようで」
○「うん(膝へ手を突き前へ乗出し)それから」
侍「拙者に夜具を貸してしまい、娘は夜具無しで
其処へごろりと寝ているから、どうも
其方の着る物を貸して、此の寒いのに其方が夜具無しで寝るような事じゃア気の毒じゃ、風でも引かしては宜しくないというと、いえ宜しゅうございます、なに宜しい事はない、
掛蒲団だけ持って行ってください、拙者は敷蒲団をかけて寝るから、いゝえ何う致しまして、それならば旦那さま恐入りますが、貴方のお
裾の方へでも入れて寝かしてくださいませんかと云った」
○「へえー、ふう鐵もっと
此方へ出ろ、面白い話になって来た、旦那は真面目になってるが、
能く見ると助平そうな顔付だ、目尻が
下ってて、旨く女をごまかしたね、中々油断は出来ねえ、白状おしなさい」
侍「ま、黙ってお聞きなさい、
苟めにも
男女七才にして席を同じゅうせずで、一つ寝床へ女と一緒に寝て、
他に悪い評でも立てられると、修行の身の上なれば甚だ困ると断ると、左様ならば
御足でも
擦らして下さいましと云った」
○「へえー、女の方で、えへ/\、
矢張山の中で男珍らしいんで、えへ/\/\成程うん」
侍「どうも様子が
訝しい、変だと思った」
○「なに先で思っていたんでしょう」
侍「それから拙者は
此方の小さい座敷に寝ていると、改めて又枕元へ来てぴたりと
跪いて」
○「其の女が
蹴躓きやアがったんで」
侍「蹴躓いたのではない、丁寧に手を突いて、先生
私は何をお隠し申しましょう、親の
敵を尋ねる身の上でございます」
○「うん、其の女が…成程」
侍「敵は此の
一村隔いて隣村に居ります、
僅に八里山を越すと、現に敵が居りながら、女の細腕で討つことが出来ません、先方は浪人者で、
私の父は
杣をいたして居りましたが、
山界の争い事から其の浪人者が
仲裁に入り、
掛合に来ましたのを
恥かしめて帰した事があります、其の争いに
先方の
山主が負けたので、礼も貰えぬ所から、それを遺恨に思いまして、其の浪人が私の父を
殺害いたしたに相違ないという事は、世間の人も申せば、私も左様に存じます、其の
傍に
扇子が落ちてありました、黒骨の
渋扇へ金で山水が
描いて有って、
確に其の浪人が持って居りました
扇子で見覚えが有ります、どうか先生を武術修行のお方とお見受け申して、お頼み申しますが、助太刀をなすって
敵を討たして下さいませんか、始めてお泊め申したお方に何とも恐入りますが、助太刀をなすって本意を遂げさせて下されば、
何の様な事でも貴方のお言葉は背きません、
不束な者で、
迚もお側にいるという訳には参りませんが、
御飯焚でもお小間使いでも、お寝間の
伽でも仕ようという訳だ」
○「へえー、
此奴ア
矢張然ういう事があるんでげしょう、へえー、なア……鐵やい、左官の
松の野郎が火事の時に手伝って、それから
御家様の
処え
出入りをし、
何日か深い訳になったが、成程然ういう事がありましょう、それから何うしました」
侍「
然ういう訳なれば宜しい、助太刀をして
慥かに本意を遂げさせて遣ろうと受合うと、女は悦んで、あゝ有難う草葉の蔭において両親も
嘸悦びましょうと、綺麗な顔で真に随喜の涙を流した」
○「へえー
芋売見たような涙を」
侍「なに
有難涙を」
○「へえ成程それから何うしました」
侍「ところで
同衾に寝たんだ」
○「へえー
甚いなア……成程、鐵ウもっと前へ出ろ、大変な話になって来た」
向座敷で手をぽん/\と打つと、
又候下女がまいって、
下婢「皆さんお静かになすって、なるたけわア/\云わねえように願います」
○「へえ/\……それから何うしました、先生」
侍「いや止そう」
○「
其処まで遣って止すてえ事はありません、お
願えだから
後を話しておくんなせえ」
侍「病人があると云うから止そう」
○「だって先生、こゝで
止めちゃア罪です」
侍「こゝらで止める方が宜かろう」
○「
落話家や講釈師たア
違えます」
侍「
此処が丁度
宜い
段落だ」
○「おい、よ話しておくんねえな/\」
侍「困るな…すると其の女にこう□□
[#底本2字伏字]められた時には、
身体痺れるような
大力であった」
○「へえー、それは化物だ、面白い話だね、それから」
侍「もう止そう」
○「冗談じゃアない、これで
止められて
堪るものか……皆さん誰か一つ旦那に頼んでおくんなせえな、是から
面白え処なんで、今止められちゃア寝てから
魅されらア」
侍「やるかなア」
○「うん成程、其の女が貴方の顔をペロ/\
甜めたんで」
侍「なに甜めるものか、うーんと
振解して、枕元にあった
無反の一刀を引抜いて、斬付けようとすると、がら/\/\と
家鳴震動がした」
○「ふうん」
侍「ばら/\/\表へ逃げる様子、
尚追掛けて出ると、
這は如何に、拙者が
化されていたのじゃ、
茅屋があったと思う処が、
矢張野原で、
片方はどうどうと
渓間に水の流れる音が聞え、片方は恐ろしい
巌石峨々たる山にして、ずうっと裏手は杉や
樅などの
大樹ばかりの林で、其の中へばら/\/\と追込んだな」
○「へえー成程、
狐狸は
尻を出して何かに見せると云うが、貴方それから何うしました」
侍「追掛けて行って、すうと一刀
浴せると、ばたり前へ倒れた…化物が…拙者も疲れてどたーり
其処へ尻餅を
搗いた」
○「成程是は
尤もです、
痛うござえましたろう、其処に大きな石があったんで」
侍「なに石も何もありゃアせん、余計な事を云わずに聞きなさい」
○「な何の化物でげす」
侍「
善く善く其の姿を見ると、それが
伸餅の石に
化したのさ」
○「へえ、何故だろうなア」
侍「だから何うしてもちぎる訳にいかん」
○「冗談じゃアない、真面目な顔をして嘘ばっかり
吐いてる、
皆な
嘘っぺい
話でいけねえ、
己のは本当だ、此の
中に聞いた人もあるだろう、
何の話さ、大変だな、己ア江戸の者だ、谷中の久米野美作守様の屋敷へ出入の職人だったが、
其処に大変な悪人がいて、渡邊様てえ人を斬って、其の上に女を連れて逃げたは、えゝ何とかいう奴だっけ、
然うよ、春部梅三郎よ、
其奴は
甚い奴で、重役の渡邊織江様を
斬殺したんで、其の子が跡を
追掛けて行くと、旨く言いくろめて、
欺して到頭連出して、何とかいう所だっけ、然う/\、
新町河原の
傍で
欺し
討に渡邊様の子を殺して逃げたというんだが、大騒ぎよ、八州が八方へ手配りをしたが、
山越をして甲府へ
入ったという噂で」
鐵「止しねえ/\、うっかり喋るな、冗談じゃアねえぜ、
若し八州のお役人が、
是れは何う云う訳だ、他人に聞いたんでと云っても
追付くめえ」
と一人が止めるのを、一人の男が
頻りに知ったふりで喋って居ります。
三十九
別座敷に寝て居りましたお竹が、此の話を
洩れ聞き大きに驚き、
竹「もし/\宗達様/\/\(
揺起す)」
宗「あい/\/\、つい看病疲れで少し
眠ました、はあー」
竹「よく
御寝なっていらっしゃいますから、お
起し申しましては誠に恐入りますが、少し気になることを向座敷で噂をしております、
他の者の話は
嘘のように存じますが、中に江戸屋敷へ
出入る職人とか申す者の話は、少し心配になりますから、お目を
覚してくださいまし」
宗「あい……はア……つい何うも……はア大分まだ降ってる様子で、ばら/\雨が戸へ当りますな」
竹「
何卒あなた」
宗「はい/\……はア……何じゃ」
竹「其の話に春部と申す者が
私の
弟を新町河原で
欺討にして甲府へ逃げたと云う事でございますが、
何卒委しく尋ねて下さいまし、都合に寄っては又江戸へ帰るような事にもなろうと思いますから」
宗「それは
怪しからん、図らず
此処で聞くというは妙なことじゃ、江戸の、うん/\職人
体の下屋敷へ出入る者、宜しい……えゝ御免ください」
と宗達和尚が向座敷の
襖を開けて、大勢の中に入りました。見ると矢立を持って鼠無地の衣服に、綿の沢山入っております半纒を着て居り、
月代が
蓬々として看病疲れで顔色の悪い坊さんでございますから、一座の人々が驚きました。
○「はい、おいでなさい」
宗「あゝ江戸のお方は
何方で」
○「江戸の者は
私で、奥州仙台や常陸の竜ヶ崎や何か集ってるんで、へえ」
宗「只今向座敷で聞いておった処が、その江戸に久米野殿の屋敷へ出入りをなさる職人というはあなた方か」
○「えゝ
私でござえやす」
鐵「えおい、だから余計なことを言うなって云うんだ、詰らねえ事を喋るからお
互えに
掛合になるよ」
宗「で、その久米野殿の御家来に渡邊織江と申す者があって人手にかゝり、其の子が親の
敵を尋ねに歩いた処、春部梅三郎と申す者に欺かれて、新町とかで殺されたと云う話、八州が何うとかしたとの事じゃが、それを
委しく話してください」
鐵「だから云わねえ事じゃアねえ、
先方は
彼な姿で来たって八州の隠密だよ」
と一人の
連の者に云われ、一人は
真蒼になり、ぶる/\と
顫え出し、碌々口もきけません様子。
○「なに本当に知っている訳じゃアごぜえやせん、
朦朧と知ってるんで、へえ
一寸人に聞いたんで」
宗「聞いたら聞いたゞけの事を告げなさい、新町河原で渡邊祖五郎を
殺害した春部梅三郎という者は
何れへ逃げた」
○「あ
彼方へ逃げて……それから
秩父へ出たんで」
宗「うん成程、秩父へ出て」
○「それからこ甲府へ逃げたんで」
宗「秩父越しをいたして甲府の方へ八州が
追掛けたのか」
鐵「おゝおゝ仕様がねえな、本当に
手前は
饒舌だな」
○「饒舌だって剣術の先生や何かも
皆な喋ったじゃアねえか………
何でごぜえやす……えゝ其の八州が
追掛けて何したんで、当りを付けたんで」
宗「何ういう処に当りが付きましたな」
○「そりゃア何でごぜえやす、鴻の巣の宿屋でごぜえやす」
宗「はゝー鴻の巣の宿屋……(紙の端へ書留め)それは何という宿屋じゃ」
○「
私ア知りやせん、其の宿屋へ女を連れて逃げたんで、其の宿屋が春部とかいう奴が勤めていた屋敷に奉公していて、
私通いて連れて逃げた女の親里とかいう事で」
宗「うん…それから」
○「それっ切り知りやせん」
宗「知らん事は無かろう、知らんと云っても知らんでは通さん」
○「へえ……(泣声)御免なせえ、
真平御免下さい」
宗「あなた方は江戸は
何処だ」
○「真平御免…」
宗「御免も何もない、言わんければなりませんよ」
○「へえ
外神田金沢町で」
宗「うん外神田金沢町…名前は」
○「
甚太っ子」
宗「甚太っ子という名前がありますか、
甚太郎かえ」
○「
慥か
然うで」
宗「甚太郎……
其方にいるお方は」
鐵「
私は喋ったんでもねえんで」
宗「言わんでも
宜い、名前が宿帳と違うとなりませんぞ、宜いかえ」
鐵「へえ、
下谷茅町二丁目で」
宗「お名前は」
鐵「ガラ鐵てえんで」
宗「ガラ鐵という名はない、
鐵五郎かえ」
鐵「へえ」
宗「宜しい」
鐵「御免なさい」
と驚いて
直に其の晩の内
此処を逃出して、夜通し高崎まで逃げたという。
其様なに逃げなくとも宜しいのに。
此方はお竹が病苦の中にて此の話を聞き、どうか直に此処を立ちたいと云う。
宗「何うして今から立たれるものか、碓氷を越さなければならん」
と
稍くの事で止めました。
翌朝になると、お竹は尚更
癪気が起って、病気は益々重体だが当人が何分にも
肯きませんから、駕籠を
傭い、碓氷を越して
松井田から
安中宿へ掛り、安中から新町河原まで来ますと、とっぷり日は暮れ、往来の人は途絶えた処で、駕籠から下りてがっかり致し、お竹はまたキヤ/\差込んで来ました。宗達は驚いて抱起したが、
舁夫は
此処までの約束だというので不人情にも病人を見棄てゝ、其の儘ずん/\往ってしまいました。宗達は持合せた薬を
服ませ、水を汲んで来ようと致しましたが、他に仕方がないから、
ろはつという禅宗坊主の持つ
碗を出して、一杯流れの水を汲んで持って来ました。
漸くお竹に水を飲ませ、
頻りと介抱を致しましたが、中々
烈しい事で、
竹「ウヽーン」
と河原の中へ其の儘
反かえりました。
宗「あゝ困ったものじゃ、何うか助けたいものじゃ」
と又薬を飲まし、口移しに水を
啣ませ、お竹を□□
[#底本2字伏字]めて
我肌の
温かみで暖めて居ります内に、雪はぱったり止み、雲が切れて十四
日の月が段々と差昇ってまいる内に、雪明りと
月光りとで
熟々お竹の顔を見ますと、出家でも
木竹の身では無い、
忽ち起る煩悩に
春情が発動いたしました。御出家の方では
先ず
飲酒戒と云って酒を戒め、邪淫戒と申して不義の淫事を戒めてあります。つまり守り難いのは此の
戒でございます。此の念を
断切る事は何うも
難い事です、修業中の行脚を致しましても、よく宿場女郎を買い、
或は宿屋の
下婢に戯れ、酒のためについ堕落して、折角積上げた修業も水の泡に致してしまう事があります、
未だ
壮んな宗達和尚、お竹の器量と云い、不断の
心懸といい、実に惚れ/″\するような女、其の上侍の娘ゆえ中々
凛々しい気象なれども、また
柔しい処のあるは真に是が本当の女で、
斯かる娘は容易に無いと
疾から惚込んで、看病をする内にも
度々起る煩悩を断切り/\公案をしては此の念を払って居りましたが、今は
迷の道に
踏入って、我ながら魔界へ落ちたと、ぐっとお竹を□□
[#底本2字伏字]める途端に、
温みでふと気が附いたお竹が、眼を
開いて見ますと、力に思う宗達和尚が、常にもない
不行跡、
髭だらけの
頬を我が顔へ当てゝ、肌を開いて□□
[#底本2字伏字]めて居りますから、驚いて、
竹「アレー、何を遊ばします」
と宗達和尚を
突退けて向うへ駆出しにかゝる袖を
確かり押えて、
宗「お竹さん
御道理じゃ、どうも迷うた、もうとても出家は遂げられん、
私はお前の看病をして枕元に附添い、次の間に
寐ていても、此の程はお前の
身体が利かんによって、便所へ
行くにも手を引いて連れて行き、足や腰を
撫てあげると云うのも、実は私が迷いを起したからじゃ、とても此の煩悩が起きては私は出家が遂げられん、真に私はお前に惚れた、□□□□
[#底本4字伏字]私の云う事を
肯いてくだされば、衣も棄て
珠数を切り、生えかゝった
月代を幸いに一つ
竈とやらに前を
剃こぼって、お前の供をして
美作国まで送って上げ、
敵を討つような話も聞いたが、
何の
様な事か
理由は知らんが、助太刀も仕ようし、又何の様な事でも御舎弟と
倶に力を添える、誠に面目ない恥入った次第じゃが、何うぞ私の言う事を肯いてくだされ」
と云われ、呆れてお竹は宗達の顔を見ますと、宗達の顔色は変り、眼の色も変り、少し狂気している
容子で、
掴み付きにかゝるのを
突退けて、お竹は腹立紛れに懐へ手を入れて、母の形見の合口の
柄を握って、寄らば突殺すと云うけんまくゆえ、
此方も顔の色が違いました。
竹「宗達さん、あなたは
怪しからぬお方で、御出家のお
身上で……御幼年の時分から御修業なすって、何年の間行脚をなすって、
私は斯う云う修業をした、仏法は有難いものじゃ、斯ういうものじゃによって、お前も迷いを起してはならないと、宿に泊って居りましても
臥床る迄は貴方の御教導、あゝ有難いお話で、大きに悟ることもありました、美作まで送って遣ろうとおっしゃっても、他の方なれば断る処なれど、御出家様ゆえ安心して願いました甲斐もなく、貴方が
然う云うお心になってはなりません、
何卒迷いを晴らして……
憤りはしませんから、元々通り道連れの女と思召して、美作までお送り遊ばしてくださいまし、是迄の御真実は
私が存じて居りますから」
宗「むゝう、是程に云ってもお
聞済みはありませんか」
竹「どうして貴方大事を抱えている身の上で
其様な事が出来ますものか」
宗「
然うか……そうお前に強う云われたらもう是までじゃ、
私もどうせ迷いを起し魔界に
堕ちたれば、
飽までも
邪に
行く、私はこれで別れる、あなたは
煩うている身体で鴻の巣まで
行きなさい、それも
宜いが、道の勝手を知って
居るまい、夜道にかゝって、女の一人旅は
何の
様な難儀があろうも知れぬ、さ、これで別れましょう」
竹「お別れ申しても仕方がございませんけれども、貴方の迷いの心を
翻えしてさえくだされば、私に
於てはお恨みとも何とも存じませんから」
宗「いや、お前は何ともあるまいが、
此方に有るのじゃ、
私は
還俗してお前のためには力を添えて、何の様にも仕よう、長旅をして、お前を美作まで送って上げようとは、今迄した修業を水の泡にしてしまうのも
皆なお前のためじゃ、何うぞ私の
願を
叶えてください、それとも
肯かんければ
詮方がない、もう此の上は鬼になって、何の様な事をしても此の念を晴さずには置かん、仕儀によっては
手込にもせずばならん」
と飛付きに掛りますから、お竹は
慌てゝ跡へ
飛退って、
竹「迷うたか御出家、寄ると只は置きませんぞ」
と合口をすらりと引抜いて振上げ、けんまくを変えたから、
宗「おまえは
私を斬る気になったのじゃな、
最う此の上は可愛さ余って憎さが百倍、さ斬っておくれ」
と云いながら身を
躱して飛付きにかゝる。
竹「そんなれば最う是迄」
と
引払って突きにかゝる途端に、ころり足が
辷って雪の中へ転ぶと一杯の
血で、
宗「おゝ
何処か怪我アせんか」
竹「私を斬ったな、
法衣を着るお身で貴方は恐しい殺生戒を破って、ハッ/\、お前さんは鬼になった
処じゃアない
蛇になった、あゝ宗達という御出家は人殺しイ」
と云うが、ピーンと川へ響けます。
宗「あゝ悪い事をした、お竹さんが
此様な怪我をする事になったのも
畢竟我が迷い、実に仏罰は恐ろしいものである」
と思ったので宗達はカアーと
取逆上せて、お竹が持っていた合口を
捻取って、
「お前一人は殺しはせん、
私も一緒に死んで、地獄の道案内をしましょう」
と云いながら
我腹へプツリ。
宗「ウヽーン/\」
竹「もし/\……宗達さま」
宗「あい/\……あい……はアー」
竹「あなたは大層
魘されていらっしゃいました」
宗「あい/\、あゝ……おゝ、お竹さま」
竹「はい」
宗
[#「宗」は底本では「竹」]「あなたはお達者で」
竹「あなた怖い夢でも御覧なすったか、大層魘されて、お額へ汗が大変に」
宗「はい/\……お前は何うしたえ」
竹「はい、私は大きに熱が
退れましたかして少し落着きました」
宗「左様か、ウヽン……煩悩経にある睡眠、あゝ
夢中の
夢じゃ、実に怖いものじゃの、あゝ悪い夢を
視ました、悪い夢を視ました」
と心の
中に公案を二十ばかり重ねて云いながら、手拭を出して額と胸の
辺の汗を拭いて、ホッと息を
吐き、
宗「あゝ迷いというものは
甚いものじゃ」
四十
さて又粂野の屋敷では丁度八月の六日の事でございます。此の程は大殿様が余程御重症でございます。お医者も手に手を尽して
種々の妙薬を用いるが、どうも
効能が薄いことで、大殿様はお加減の悪い中にまた御舎弟紋之丞様は、只今で云えば
疳労とか肺労とかいうような症で、
漸々お痩せになりまして、勇気のお方がお
咳が出るようになり、お手当は十分でございますが、どうも思うように薬の効能が無い、唯今で申せば空気の
異った所へと申すのだが、其の頃では方位が悪いとか申す事で、小梅の中屋敷へいらっしゃるかと思うと、又お下屋敷へ入らっしゃいまして、谷中のお下屋敷で御養生中でありますと、若殿の御病気は変であるという噂が立って来ましたので、忠義の御家来などは心配して居られます。五百石取りの御家来秋月喜一郎というは、
彼の春部梅三郎の伯父に当る人で、御内室はお
浪と云って今年三十一で、色の浅黒い大柄でございますが、
極柔和なお方でございます。或日
良人に
対い、
浪「いつもの
婆がまいりました、あの大きな
籠を
脊負ってお芋だの大根だの、
菜や何かを売りに来る婆でございます」
秋「あ、
田端辺からまいる老婆か、久しく来んで居ったが、
何ぞ買ってやったら宜かろう」
浪「貴方がお
誂えだと申して
塵だらけの
瓢を持ってまいりましたが、
彼はお
花活に遊ばしましても余り
好い姿ではございません」
秋「
然うか、それはどうも……
私が去年頼んで置いたのが出来たのだろう、それでも能く丹誠して……
早速此処へ呼ぶが
宜い、庭へ通した方が宜かろう」
浪「はい」
と是から下男が案内して庭口へ廻しますと、
飛石を伝ってひょこ/\と
婆さまが籠を脊負って入って来ました。縁先の敷物の上に座蒲団を敷き、前の処へ烟草盆が出ている、秋月殿は黒手の細かい縞の黄八丈の
単衣に本献上の帯を締めて、
下襦袢を着て居られました。誠にお堅い人でございます。目下の者にまで丁寧に、
秋「さア/\
婆こゝへ来い/\」
婆「はい、誠に御無沙汰をしましてま
今日はお庭へ通れとおっしゃって、
此様なはア結構なお庭を見ることは容易にア出来ねえ事だから、ま遠慮申さねえばなんねえが、御遠慮申さずに見て、

っ子や忰に話して聞かせべいと思って
参りました、皆様お変りもごぜえませんで」
秋「
婆ア丈夫だの、
幾歳になるの」
婆「はい、六十八になりますよ」
秋「六十八、左様か、アハヽヽヽいやどうも達者だな田端だっけな」
婆「はい、田端でごぜえます」
秋「名は何という」
婆「はい、お
繩と申します」
秋「妙な名だな、お繩…フヽヽ余り聞かん名だの」
婆「はいあの
私の村の鎮守様は
八幡様でごぜえます、其の別当は真言宗で
東覚寺と申します、其の脇に不動様のお堂がごぜえまして
私の
両親が子が
無えって其の不動様へ
心願を掛けました処が、不動様が出てござらっしゃって、左の手で
母親の腹ア
緊縛って、せつないと思って眼え覚めた、
申子でゞもありますかえ、それから母親がおっ
妊んで、だん/″\腹が
大くなって、当る
十月に
私が生れたてえ話でごぜえます、縄で腹ア縛られたからお繩と
命けたら
宜かんべえと云って附けたでごぜえますが、是でも生れた時にゃア
此様な婆アじゃアごぜえません」
秋「アハヽヽ田舎の者は正直だな、手前は久しく来なかったのう」
婆「はい、ま、ね、秋は一番忙がしゅうごぜえまして、それになに
私などは田地を沢山持って居ねえもんだから、
他人の田地を手伝をして、
小畠で
取上げたものを
些とべえ売りに
参ります、白山の駒込の市場へ
参って、
彼処で自分の物を広げるだけの場所を借りれば商いが出来ます」
秋「成程左様か、娘が有るかえ」
婆「いえ嫁っ子でごぜえます、是が心懸の
宜いもので、忰と二人で能く稼ぎます、
私は
宅にばかり居ちゃア
小遣取りが出来ましねえから、斯うやって小遣取りに出かけます」
秋「そうか、茶ア遣れ、さ菓子をやろう」
婆「有難う…おや/\まア
是れだけおくんなさいますか、まア
此様に
沢山結構なお菓子を」
秋「
宜いよ、また来たら遣ろう」
婆「はい、此の
前参りました時、
巨え御紋の附いたお菓子を戴きましたっけ、在所に居ちゃア
迚も見ることも出来ねえ、お屋敷様から
戴えた、有りがたい事だって村中の子供のある処へ
些とずつ遣りましたよ、毎度はや誠に有難い事でござえます」
秋「どうだ、暑中の田の草取りは中々辛いだろうのう」
婆「はい、熱いと思っちゃア兎ても出来ませんが、草が生えると稲が痩せますから、何うしても
除ってやらねえばなりませんが、
此間儲けもんでござえまして、
蝦夷虫一疋取れば銭い六百ずつくれると云うから、大概の
前栽物を
脊負い出すより其の方が楽だから、おまえさま
捕つかめえて、毒なア虫でごぜえますから、
籠へ入れて
蓋をしては持って
参ります」
秋「ムヽウ、それは何ういう虫だえ」
婆「あの
斑猫てえ虫で」
秋「ムヽウ斑猫……何か一疋で六百文ずつ……どんな処にいるものだえ」
婆「はい、豆の葉に
集って居ります、在所じゃア
蝦夷虫と云って
忌がりますよ」
秋「
何にいたすのだ」
婆「何だかお医者が
随いて来まして
膏薬に
練ると、これが
大え薬になる、毒と云うものも、使いようで薬に成るだてえました」
秋「ムヽウ、
何の位
捕まった」
婆「左様でごぜえます、
沢山でなければ利かねえって、
何にするんだか
沢山入るって、えら
捕めえましたっけ」
秋「そりゃア妙だ、医者は
何処の者だ」
婆「何処の者だか知んねえで、一人男を連れて来て、其の虫を
捕まって置きさえすれば六百ずつ置いては持って
往きます、其の人は今日お前様白山へ
参りますと、白山様の門の坂の途中の
処にある、小金屋という飴屋にいたゞよ、
私は
懇意だからお前様の
家は
此処かえと何気なしに聞くと、其の男が言っては悪いというように眼附をしましたっけ」
秋「はて、それから何う致した」
婆「
私も小声で、今日は虫が
沢山は
捕れましねえと云うと、
明日己が行くから今日は何も云うなって銭い
袂へ入れたから、
幾許だと思って見ると一貫呉れたから、あゝ是は
内儀さんや奉公人に
内証で毒虫を捕るのだと勘づきましたよ」
秋「ムヽウ白山前の小金屋という飴屋か」
婆「はい」
秋「あれは御当家の
出入である……茶の
好いのを入れてください、婆ア飯を馳走をしようかな」
婆「はい、有難う存じます」
秋「婆ア
些と頼みたい事があるが、
明日手前の
家へ
私が
行くがな、其の飴屋という者を
内々で私に会わしてくれんか」
婆「はい、殿様は
彼の飴屋の御亭主を御存じで」
秋「いや/\知らんが、少し思うことがある、それゆえ貴様の
家へ
往くんだが、貴様の家は
二間あるか、失礼な事を云うようだが、広いかえ」
婆「店の
処は土間になって居りまして、
折曲って内へ入るんでがすが、土間へは、
薪を置いたり炭俵を積んどくですが、二間ぐれえはごぜえます、庭も
些とばかりあって、奥が六畳になって、縁側附で
爐も切ってあって、都合が宜うごぜえます、其の奥の方も畳を敷けば八畳もありましょうか、
直に折曲って台所になって居ります」
秋「そんなら六畳の方でも八畳の方でも
宜いが、その
処に隠れていて、飴屋の亭主が来た時に
私に知らしてくれ、それまで私を奥の方へ隠して置くような工夫をしてくれゝば
辱けないが、隠れる処があるかえ」
婆「はい、
狭うござえますし、それに殿様が入らっしたって、汚くって坐る処もないが、
上の
藤右衞門の
処に
屏風が有りますから、それを
立廻してあげましょう」
秋「それは至極宜かろう、何でも宜しい、
私が弁当を持って
行くから別に厄介にはならん」
婆「
旨えものは有りませんが、
在郷のことですから
焚立の御飯ぐらいは出来ます、畑物の
茄子ぐらい煮て上げましょうよ」
秋「
然うしてくれゝば千万
辱けないが、事に寄ると
私一人で
往くがな、飴屋の亭主に知れちゃアならんのだが、
何時ぐらいに飴屋の亭主は来るな」
婆「左様さ、大概お昼を
喫ってから出て参りますが、
彼でも
未刻過ぐらいにはまいりましょうか、それとも早く来ますかも知れませんよ」
秋「そんなら
私は
正午前に弁当を持ってまいる、村方の者にも云っちゃアならん」
婆「ハア、それは何ういう
理由で」
秋「此の
方に少し訳があるんだ、注文をして置いた
瓢覃を持って来たとな」
婆「誠に妙な
形でお役に立つか知りませんが」
と差出すを見て、
秋「斯ういう
形じゃア不都合じゃが」
婆「其の代り
無代で宜うがんす、口を
打欠えて
種子え投込んで、
担へ釣下げて置きましたから、銭も何も
要らねえもんでごぜえますが、
思召が有るなら十六文でも廿四文でも戴きたいもんで」
秋「是はほんの心ばかりだが、百
疋遣る」
婆「いや何う致しまして、殿様
此様なに戴いては済みません」
秋「いや、
取とけ/\、お
飯を
喫べさせてやろう」
と是からお
飯を喫べさせて帰しました。さて秋月喜一郎は翌日
野掛の
姿になり、弁当を持たせ、家来を一人召連れて
婆の宅を尋ねてまいりました。
彼の田端村から西の方へ深く切れてまいると、丁度東覚寺の裏手に当ります処で。
秋「
此処かの、……
婆は
在宅か、此処かの、婆はいないか」
婆「ホーイ、おやおいでなせえましよ、さ
此処でござえますよ、ままどうも…
今朝っから忰も悦んで、殿様がおいでがあると云うので、
待に待って居りました処でござえます、
何卒直にお
上んなすって……お供さん御苦労さまでごぜえました」
秋「其の様に大きな声をして構ってくれては困る、世間へ知れんように」
婆「心配ごぜえませんからお構えなく」
秋「左ようか……其の包を其の儘
此方へ出してくれ」
婆「はい」
秋「これ婆ア、是は詰らんものだが、ほんの
土産だ、
是れは
御新造が婆アが寒い時分に江戸へ出て来る時に着る
半纏にでもしたら宜かろう、綿は
其方にあろうと云って、有合せの裏をつけてよこしました」
婆「あれアまア……
魂消ますなア、
此様なに戴きましては済みませんでごぜえます、これやい
此処へ
来う忰や」
忰「へえ御免なせえまし……
毎度ハヤ
婆が出まして御贔屓になりまして、
帰って来ましちゃア悦んで、何とハア
有難え事で、
己ような身の上でお屋敷へ出て、立派なアお方さまの側で以てからにお
飯ア戴いたり、
直接にお言葉を掛けて下さるてえのは
冥加至極だと云って、
毎度帰りますとお屋敷の噂ばかり致して居ります、へえ誠に有難い事で」
秋「いや/\
婆に碌に手当もせんが、今日は少し迷惑だろうが、少しの間座敷を貸してくれ、弁当は持参してまいったから、決して心配をしてくれるな、兎や角構ってくれては
却って困る、これは貴様の妻か」
嘉「へえ、
私の
嚊でごぜえます、ぞんぜえもので」
妻「お
入来なせえまし、毎度お
母が
参りましては
種々御厄介になります、何うかお支度を」
秋「いやもう構ってくれるな、早く屏風を立廻してくれ」
婆「
畏りました、破けて居りますが、
彼でも借りてめえりましょう、
其処な
家では自慢でごぜえます、村へ
入る
画工が
描いたんで、立派というわけには
参りません、お屋敷様のようじゃアないが、丹誠して描いたんだてえます」
秋「成程是は妙な
画だ、
福禄寿にしては形が変だな、成程
大分宜い画だ」
婆「
宅で
拵えた新茶でがんす、
嘉八や能くお礼を申上げろ」
嘉「誠に有難うごぜえます、
貴方飴屋が
参りますと、何かお尋ねなせえますで」
秋「
其様なことを云っちゃアいけない」
嘉「実はその去年から頼まれて居りますが、
婆さまの云うにア、それは
宜えが
訝しいじゃアなえか、何ういう
理由か知んねえ、毒な虫を
捕って六百文貰って
宜えかえ、なに構ア事はなえが、黒い羽織を着て、立派なア人が来るです」
秋「まゝ
其様なことを云っちゃアいけない」
嘉「へえ/\、なに
此処は別に通る人もごぜえませんけれども、梅の時分には店へ腰をかけて、
草臥足を休める人もありますから、
些とべえ駄菓子を置いて、
草履草鞋を
吊下げて、商いをほんの片手間に致しますので、子供も滅多に遊びにも
参りません、
手習をしまって寺から帰って来ると、一文菓子をくれせえと云って
参りますが、それまでは
誰も
参りませんから、安心して何でもおっしゃいまし、お帰りに重とうござえましょうが、
芋茎が
大く成りましたから五六
把引こ抜いてお土産にお持ちなすって」
供「旦那さま、芋茎のお土産は御免を
蒙りとうございます……御亭主旦那様は芋茎がお嫌いだからお土産は成るたけ軽いものが
宜い」
嘉「軽いものと仰しゃっても今上げるものはごぜえません、
南瓜がちっと残って居ますし、柿は未だ少し渋が切れないようですが、柿を」
供「柿の
樹はお屋敷にもあります」
秋「
今日は来ないかの」
嘉「いえ
急度参るに相違ごぜえません」
と云っている内に、只今の午後三時とおもう頃に
遣ってまいりましたのは、飴屋の源兵衞でございます。
源「あい御免よ」
婆「はい、お出でなせえまし、さ、お
上んなせえまし」
源「あゝ何うも
草臥れた、
此処まで来るとがっかりする、あい誠に御亭主
此間は」
嘉「へえ、是はいらっしゃいまし、久しくお
出がごぜえませんでしたな、
漸々秋も末になって
参りまして、毒虫も思うように
捕れねえで」
源「これ/\大きな声をするな、
是れは毒の
気を取って膏薬を
拵えるんだ、
私は前に
薬種屋だと云ったが、
昨日婆さんに会った、隠し事は出来ねえもんだ、これは口止めだよ、少しばかりだが」
嘉
[#「嘉」は底本では「源」]「どうもこれは…」
源「其の代り
他人に云うといけないよ」
嘉「いえ申しませんでごぜえます」
源「
私も
十露盤を取って商いをする身だから、
沢山の礼も出来ないが、五両上げる」
嘉「えゝ、五両……
魂消ますな、五両なんて戴く訳もなし、一疋
捕まえて六百文ずつになれば立派な
立前はあるのに、
此様なに、
大く戴きますのは止しましょうよ」
源「いや/\
其様なことを云わないで取ってお置き、事に寄ると
為めになる事もあるから、決して
他人に云っちゃア成りませんよ、
私が頼んだという事を」
婆「それは忰も嫁も
心配打っていますが、他の者じゃアなし、毒な虫をお前様に六百ずつで売って、何ういう事で間違えでも出来やアしねえかと
心配してえます」
源「
其様な事は有りゃアしないよ、此の虫を
沢山捕えて医者様が
壜の中へ入れて製法すると、
烈しい病も
癒るというは、薬の毒と病の毒と
衝突うから癒るというので、ま其様なに心配しないでも宜い」
婆「お金は戴きませんよ、なア忰」
嘉「えゝ、これは戴けません、
此間から一疋で六百ずつの
立前になるんでせえ途方も
無え事だと思ってるくれえで、これが玉虫とか
皀角虫とかを
捕るのなれば大変だが、豆の葉に
集ってゝ誰にでも捕れるものを
大金を出して下さるだもの、
其様なに戴いちゃア済みません」
源「これ/\
其様な大きな声を出しちゃアいけない」
嘉「これは何うしても戴けません」
源「そこに
種々理由があるんだ、
其様なことを云っては困る、これは取って置いてくれ」
嘉「へえ
立前は戴きます、ま
此方へお
上んなすって、なに
其処を締めろぴったり締めて置け、砂が
入っていかねえから……えゝゝ風が
入りますから、ま
此方へ……何もごぜえませんがお
飯でも
喰べてっておくんなせえまし」
源「お飯は
喫べたくないが、礼を受けてくれんと誠に困るがな、受けませんか」
嘉「へえ」
と何う有っても受けない、百姓は堅いから何うしても受けません。源兵衞も困って、
源「そんなら茶代に」
と云って
二分出しますと、
嘉「お構い申しもしませんのに……お茶代と云うだけに戴きましょう、誠にどうも、へえ」
源「今日は帰ります、
婆さん又
彼方へ来たらお寄り、だが、私が
此処へ来たことは家内へ知れると悪いから、店へは寄らん方が
宜い、店には奉公人もいるから」
婆「いえ、お寄り申しませんよ、はい左様なら、気を附けてお帰んなせえましよ」
源「あい」
是から麻裏草履を
穿いて小金屋源兵衞が出にかゝる屏風の中で。
秋月「源兵衞源兵衞」
と呼ばれ、源兵衞は不審な顔をして
振反り、
源「誰だ……
何方でげす、私をお呼びなさるのは何方ですな」
秋「
私じゃ、
一寸上れ、ま
此方へ入っても
宜い、思い掛ない処で会ったな」
源「
何方でげす」
と屏風を開けて入り、其の人を見ると、秋月喜一郎という重役ゆえ、源兵衞は
肝を
潰し、胸にぎっくりと
応えたが、
素知らぬ
体にて。
源「誠に思い掛ない処で、御機嫌宜しゅう」
秋「少し手前に尋ねたい事があって、急ぐか知らんが、同道しても宜しい、
暫く待ってくれ、少し問う事がある、源兵衞其の方は何ういう縁か、飴屋風情でお屋敷の出入町人となっている故、殿様の有難い
辱ないという事を思うなら、又此の
方が貴様を引廻しても
遣わすが、
真以て
上を有難いと心得てお出入をするか、それから先へ聞いて、
後は
緩くり話そう」
源「へえ誠にどうも細い商いでございますが、御用向を仰付けられて誠に有難いことだ、冥加至極と存じまして、へえ結構な菓子屋や其の
他のお出入もある中にて、飴屋風情がお出入とは実に冥加至極と存じて居ります、殿様が有難くないなどゝ誰が
其様なことを申しました」
秋「いや
然うじゃアない、真に有難いと心得て
居るだろう」
源「それは仰しゃるまでもございません、此の
後ともお引廻しを願いとう存じます」
秋「それでは源兵衞、手前が
何の
様に隠しても隠されん処の
此方に確かな証拠がある、隠さずに云え、じゃが手前は何ういう訳で
斑猫という毒虫を
婆に頼んで一疋六百ずつで買うか、それを聞こう」
と源兵衞の顔を見詰めている
中に、
顔色が変ってまいると、秋月喜一郎は
態とにや/\笑いかけました。