一月の後になつて、それは勞働者の脛のやうに代赭色のつやつやした皮で張られて來た、足は白い消しゴムのやうに軟く五本の指が動くのであつた。お葉はその義足をつけた時、衣の中に何といふ恥しさを感じたことだろう。肩についた皮や、胸や腰のバンドがお葉の動く度に鳴つた。柔らかな初毛のはえた肉色の一脚にならんで、それはつやつやと手垢にみがかれた骨董品のやうな一脚であつたのだ。またそれはくけだいのやうにピンと折れては、カチンと延びる無意味な器械であつた。その足はなに物に強くふまれても、棒のやうにいつ迄もながく立つてゐた。 お葉がすべてのバンドを解いて、義足を露骨に投げ出した時、すべての罪、責任から逃れたやうな安堵の息のなかに、そのまま昏睡しようとした。 お葉は新しい家の二階に上つて見たのである。夕ぐれの藍色の空に高い高い浴場の煙突が聳え、白いほのかな煙りがゆるやかに流れてゐた。そして何物もない靜かな空は象眼細工のやうに細い月がかかつてゐたのである。お葉の心はいづことなく天地のなかから響くどよめきのなかに淋しく沈んだ。新しい浴場はいま青い瓦斯のいろに美しく浮き出て、そこに花のやうな香が立ち舞ふのである。お葉の瞳はいつか物珍らしげに向ひの家を見下ろして、その格子窓から洩れる三味の音を聞いてゐるのであつた。それはなんの歌とも解らない。しかしその調子のままに動いてゐた心が、やがてばたりと切りはなされて、お葉は茫然した。三味はやんで、やがて格子ががらりと開いたと思つたら、繻子の細帶を結んで唐人髷に結つた娘が、そのまま駈け出して湯屋のなかに吸はれるやうに入つたのである。 「自分の世界とはすつかり違つてゐる。」 お葉はなんとなくそんな事が考へられた。 自分の身が實際であるならば、いま自分が見てゐる世界は繪のやうな氣がする。繪の世界が現實ならば、自分はいま夢を見てるんだ。彼女は強ひられたやうに、そんな考が心のなかに起るのを感じながら、幾多の美しい肉體が亂れ合つてゐる浴場の霞のやうに立ち登る湯氣のなかを想像したのである。 その後、お葉は母親と二人靜かな朝の冷たい湖のやうな浴場の姿見の前に立つて、丈長い帶と赤いしごきを解いたのである。 三越の廣告の女は壁の上から黒い瞳を投げて居た。着かへたしぼりの浴衣のいろが美しく鏡のなかに浮き出た時、お葉は物かなしい瞳で、ぢつと鏡のなかを見守つたのである。 一脚の足は運ぶことを知らぬ。兩手の指が強く硝子窓の棧にふれながら、漸く湯つぼのへりにたどりついた時、母親のくんで流すお湯は、彼女の足の裏をおびえるやうに、そして快く流れたのであつた。ぬれようとする浴衣の裾を、母親が容赦なくまくり上げた時、反抗する手段のないお葉は、強いそして物かなしい樣な瞳に母親を見返つたが、何うしても浴衣はそこでぬがねばならないのだつた。すべてを奪はれたお葉は慘忍な健康者の態度を見入りつつ、海底に棲むといふ人魚の樣に、似るべくもない四肢の醜さをなげき悲しんだのである。みなぎつた朝の日光が、高い玻璃戸から側の窓硝子から輝かに清く靜寂の浴場のなかに漲つて、湯つぼは碧色に深く濃く湖のやうに平かであつた。お葉は初めてわが肉體の美しさと、なつかしさと、あまりに廣やかな周圍から何物かの迫つて來る恐れを感じたのである。 彼女は絶えず肩から桶のお湯を流し、あまりに露骨にこの明るさのうちに解放されたる肉體を見て戰慄いた。 「まあ、お前は肥えたねえ。」 母親はながく見ないお葉の身體に驚きの聲を放つたのである。胸の肋骨はゆたかな肉にかくされた。衿元に筋のいるくぼみは盛り上げられて、肩はまるく兩腕はながながとのびてゐた。そして花のやうな乳房の上にお葉は睫毛をながく伏せたのである。 「いいお湯、なんといふ氣持のいいお湯だらうね。お前一寸お入りよ。おさへてて上げようか。」 衰へた母親の兩腕はお葉の前にのびたのである。しかしお葉は湯ぶねのへりに腕をなげかけて、靜かなお湯の面に指を觸れながら、底にうつるわが黒髮のさまを見つめたのであつた。そして祕かにこの表面に再び浮き上ることの出來ない底があつたならば、いまに自分は入ることがあらうと思ふのである。いま朝日は玻璃の窓を通してお葉の肩から胸に斜に影を投げた。黒髮が綾に光つて、青い簪の玉は、そこに陰鬱な影を投げてゐた。 お葉はいまあまりに緊張きつた一脚の足の肉にふれて驚ろいたのである。足は常に精一ぱいの力に張りきつて、そこに少しのゆるみもなく延びてゐるのだつた。この脚が私の全身を支へるのだ。支へるといふことを知つたこの足の醜さよ。しかし彼女の右の手は柔かに白い、丁度日蔭の草のやうに、育たない短き肉塊の右足を押へてゐるのだつた。それは本當に赤子のやうに、いぢらしく慄へてゐた。そして温い血しほが、ゆるやかに流れてゐたのである。お葉は生きんとする人間の醜さを考へた。殊にだんだん畸形にかはる自分の肉體を、いま目の前に見せられて淺ましく思つた。 ある人がお葉に言つた。 「だんだん畸形に育つんだね。」 その時彼女は松葉杖をつく爲めに、柔かな掌が足の裏のやうに變つてゆくのを感じて、膝の上の手をまさぐつてゐたのだつた。 お葉は夕暮その家を辭して、石垣の上に靜かなオルガンの音を耳にしながら、細道を一人かなしく家に歸つたのである。どんなに醜くなつても、生きてゆかなけりやならないのだらうか? いま自分の生と自分の肉體を最美しく終らせたいと思ふは唯一つそこに死があるばかりである。お葉は矢張り死ぬのであつた。 また畸形の肉體に盛られた心は、矢張り畸形にしか育たない。彼女は精神の畸形なる天才や狂人のことを考へたのであつた。けれども天才は現世に幸福でなかつた。狂人は如何に幸福であらうとも、肉身のものの苦痛をどれだけ増さねばならぬかと云ふことが解らない。そして醜い肉體は、世の中に存在してゐるのだ。お葉は醜いことを見たくも知りたくもない。死は清く美しい、そして永遠に尊い。お葉は靜かに三十三の死を思つて、微笑んだのであつた。 水に梳けづられた髮が青空の下に輝いてゐた時、彼女は杖によつて道を歩みつつ、その杖が新らしく黒く艶やかに塗られてあることを見て、安心したのであつた。自分のすべてを習慣と經驗とによつてよごしたくない。古くしたくない。 お葉は松葉杖の古きによつて、わが癈疾のいにしへをしのぶことを悲しむ。彼女が、いま五年後にその災を思ふ時、痛みは古く思出の淡いことを恐れた。自分の災は新らしい、自分の痛みは新らしい。 お葉はいつか青山の墓地などを車で通つた時、よごれた繃帶を卷きつけた白木の松葉杖に身を持たせて來た癈兵を見たことを思ひ出したのである。 彼女は縁に出て手の爪を切つた。そして足の爪を切つた時に、いづこにか一脚の足の爪が櫻いろに美しく切られて、花のやうに置かれてあることを考へた。それは空の美しい日であつた。開かれた窓に木の葉が散つてゐた。お葉はベッドの上に起きなほつて、その前日痛める身體を清める爲めに、紫いろの湯に浸されたことを考へた。お葉はその時清らかに終るべき身の靜けさに、剪刀を取つてすべての不潔を切り取つたのである。手の爪は美しく取られた。やがて彼女は繃帶に卷かれて、わづかに五本の指先のみ出てゐる右足の白い爪を、靜かに切り取つたのである。そこに嘆きもなく再び見ることなき瞳を、茫然と開いてゐたのである。 その時白いお茶の花を瓶にさして呉れた看護婦が、銀いろの剪刀を持つて來て、ドアを押した。そしてお葉の爪を見たのである。看護婦は驚いたやうにやや誇張して、 「まあ、綺麗、おとりになつたの。」 「えゝ。」お葉は淋しく肯いたのである。 「おとなしく待つてて下さいね、いまに迎ひに來ますから。」 看護婦は裳をひるがへして走つた。 やがて一時といふ時に輸送車は彼女を遠い遠い細い廊下の奧に引き去つた。それからお葉はいま迄切り取つた白い爪を見ることが出來ないのである。あの爪はのびたであらうか。あの爪はいまどこか靜かな所で、花いろに匂つてゐるやうに思へる。 お葉はやがて、新らしい浴場の若い無智なおかみさんと親しくなつたのである。そして彼女が人ない朝の湯ぶねのなかに浸つて、新たに來る人を追手のやうに恐れてゐるのを慰めた。そしてお葉の爲めに泣いたのである。けれどもまたお葉が浴衣をぬいで友禪の長襦袢に身を包んだ時、無智な女は番臺によつてその幸福を羨んだのである。 お葉はひそかに浴場を出るのだつた。もし人が彼女の浴場から出て來たのを見てその肉體の缺陷を知り、如何にして入浴するかと怪しみ想像することを恐れたのである。そしてお葉が狹い路次にさしかかる時に、折々跛の年老いた俥夫に會ふのであつた。 彼女はその時あまりに哀れな世の中だと思つた。そしてその老いた跛が次第に彼女を見て、同じ不具者の哀みを乞ふやうな同情を強ひるやうに、笑顏を見せるやうになつた時、お葉は悲しかつた。世の中の人が類を持つて集まるやうに、自分は不具者の中にのみいたはられて、睦ましく暮さなけりやならないといふのは堪へられないことだ。そしてそれが什に慘めで悲しいことだらう。お葉はすべて自分と等しく肉體の缺陷ある人を目に寫さないことを祈つたのである。 鏡を見ずに暮される人は幸福である。人は自分の姿を知る時、初めて世の中の悲しさを知る。お葉は出來るならば、この宇宙に癈疾者の自分一人であることを考へた。自分の姿を見するものなかれ。またお葉の姿によつて、自分と等しい悲しみを覺えるもののないことを祈つたのである。 やがてお葉の家はまた移らねばならなかつた。そして三年の間別れてゐた兄や嫂と逢ふのであつた。 「いろいろお世話樣になりまして――。」 お葉は親しんだ湯屋の若いおかみさんに別れをつげて、奧まつた平屋の靜かな家に行つたのである。久し振り顏を合せた兄や嫂の間には、幼兒をなくした嘆のみが繰り返されてゐた。そして臺所に煮物してゐるお葉の災については、忘られたやうに口にするものがなかつた。折々疊をすつて往來するお葉の姿を、母親はかなしく見送りながら氣を兼ねるやうに、 「お葉もまたこまつたもんだと思つたけれども、今ぢやなんでも出來ないことはないのだから――、けれどもお前が來たなら、さぞ驚くことだらうと思つて――」 と眼をしぼしぼさせた。兄は何も言はずに肯いてゐた。嫂は荷物の散らかつたなかに鍵がないと探してゐた。お葉はそれを障子の影に聞いてゐたのである。そして靜かにマッチをすつて瓦斯七厘に火をつけた、青い火が燐のやうに淋しく靜かな音をたてて燃え出し、ニュームの鍋が清らかな色を投げたのである。 お葉は兄と嫂が結婚して遠く旅立つ時、ステーションに送りに出た十七の自分を思ひ出したのであつた。その時髮には水色のリボンがついてゐた。そしてステーション通りの瓦斯燈の灯かげに、白いアカシヤの花が、ほのかに匂つてゐるのだつた。 「それからお葉、あとで手紙がついたならば纏めて兄さんの所によこすやうに――。」 そんな聲が列車の窓からした時、お葉は解もなしに泣けて泣けて仕方がなかつた。その時は何が悲しいか解がわからないのだ。けれども涙が快よく出たのだつた。いまお葉は胸が痛い程苦しい悲しい時でも、容易に涙の出て來ないことを考へたのである。お葉の心は常に淋しく冷たく、涙のやうな暖かいものの湧き出る所のないことを思つた。 その時お葉の周圍には、人が息づまる程ゐて、鋭い汽笛が響いた時、いつの間にか汽車は走り去つて、泣きぬれたお葉は、一人取り殘されてゐたのである。お葉は物をも言はず、妹を連れ立つて家に歸つた。門には母親が一人わびしく立つてゐたのであつた。 彼女はまた、婚禮の日を思ひ浮べた。 母や姉や妹は美しく着かざつて兄や嫂と共に車を列ねて、夕暮の街を華やかな洋館に向つて走つたのである。夕闇のなかに近所の人の顏が白く浮んでゐた。お葉は門にぴたりと身をよせて、そこに蚊柱のたつのを、ぢつと眺めてゐたのであつた。 やがて彼女は、お酒や折づめや口取りなどの散らばつた茶の間の窓ぶちに、直角より曲らない右足を投げ出して、横坐りになつたのである。灯もつけない部屋のうちに、お葉のネルの單衣が只白く淋しかつた。襖を開け放した彼女の座敷に、ほの白く新らしい箪笥が見えて、鏡臺の鏡が遠い湖の表のやうに光つてゐるのであつた。お葉はその時かすかによせて來る蚊のうなりを耳にしながら、現ともなく行末のことに思ひふけつたのである。 その時彼女は夢のやうな死を考へた。空のやうに美しい死がお葉の現に見る行末だつたのだ。お葉の心は清かつた。しかし清いものは淋しい。彼女の膝の關節の水のしみ入るやうな痛みは、その時丁度快い刺戟のやうに、茫然と開いてた瞳の中に、涙をみなぎらしてゐたのである。 お葉はなほ臺所に腰をかけたまま、その當時のことを考へて見た。そして靜かに瓦斯の火を見つめてゐたが、いまにも誘はれ易さうな涙は容易に瞳をうるほさなかつた。 「眼のよい子だつたねえ、そして髮の毛の莫迦に黒い――。」 お葉の兄は失つた子のあとを追ふやうに、時々茫然とそんな事を言つた。 「本當に私などもお前たちよりは孫の方をどんなに待つたかしれないのだけれども――定めて孫が來たならば、かうだらう、ああだらうと毎日言つてたんだが、またお葉がかうして坐つてゐたならば、きつと後にまはつて、おんぶおんぶつてせめやしないかと、思つたりして――。」次いで母親は獨言のやうに兄の頭と火鉢の側のお葉の姿とを見くらべて眼を赤くしたのであつた。お葉は、その時そつと次の間に行つて雜誌の頁を繰つたのである。併しそれについて兄は矢張り感慨深いやうに言つたのであつた。 「本當に利口な子だつたがなあ。」 「あんまり利口すぎたから死んだんでせうよ。」 嫂の聲は歩く足音と共に、無雜作に言つたのであつた。 お葉の兄はやがて旅に出た。 そしてとつぷりと暮れた冬の靜かな夜、家の人は連れそつて、近所のお湯に出かけたのである。お葉は一人炬燵に入りながら、夕方外を歩いて來たことを考へた。彼女がとある角を曲る時だつた。 「割にいい風姿をしてるわね。」といふ聲が耳に入つたので、鋭くお葉は杖をとめて見返つたのであつた。角には黒いポストがあつて、その後の人影はさだかでなかつた。 彼女は夕闇の間に少時立停つて、普通着の儘で出掛けて來た自分の汚れた銘仙の着物を見つめたのであつた。そして其儘歩き出し乍ら、まだまだいい風姿をして歩かなければならないと云ふ樣なことを思つたのである。世間の人は松葉杖などをついて歩くやうなのは乞食かなにかでなければないのだらうと思つてゐるのだらう。「見すぼらしい風姿をしてはならない。」とお葉はその時思ひながら、少しも悲しいことはなかつたのであつた。今お葉はその事を考へて見たが、いい着物を着て歩かうと思つたことが、さ程淋しい心強い反抗でもなんでもなかつた。折角着かへた着物も、すぐ杖のために脇の下が切れて、膝がぬけるのが目に見えてゐた。時々薄くなつてゆく脇の下の着物の地を默つて見てゐるのは、お葉にとつては淋しい言ひ樣のないかすかな絶望であつた。「私には第一歩くといふ事が不可ないことなのだ。そして一番悲しいことなのだ。」 もう歩かないがいい、最う決して外に出るなとお葉の良心は命じた。しかし良心の命ずることは常に淋しい。そして何の反抗もない悲しみが迫つて來るのだ。 お葉の心は今ふと悲しくなつて來て、見知らぬ浴場に集まつて、露骨に身體をみがき合ふ男女のことを思ひながら、いつ暗い湯殿の中に、自分のかなしい肉體をなつかしく見ることが出來るであらうかと思つた。そしてまた前の浴場の若いおかみさんの細い眼のいろなどが、物なつかしく浮んで來たのである。四五日たつても新らしい家に風呂は買はれなかつた。お葉の肌には赤黒く垢が浮いて來た。それで彼女は寒い朝早く、母親と二人近所の浴場に行つたのである。 「いらつしやいませ、どうぞ最う三十分許りお待ちなすつて下さいませ。」 奧から出て來た若い男が丁寧に言つて、眞鍮の火鉢を持つて來て呉れた。 「お寒う御座います。どうぞお暖り下さいませ。」母子は靜かに水のたれる音を耳にしながら火鉢によつた。壁にかけてある芝居のビラなどを、お葉は靜かに見上げながら、母親の顏をぢつと見たのである。彼女はささいの事にでも、生きて行く悲しみを思ふ、生きるといふ事は悲しむといふ事であつたのだ。 お葉は寒い朝々を、母親と共に家が新らしくなると共に、見しらぬ浴場をめぐつて歩かねばならないのだらうかと、ふと感傷的な事を考へて、母親の顏を見ながら、この年老いた母親が、必ず自分より先に死ぬであらうといふことを思つて、胸が迫つたのである。そして自分のすべての強さも、生きてゆく醜くさも、この目の前にゐる母親の爲めであると思つた。母が居ればこそ、生きてゐられるのだし生きてゐるのだ。お葉はいま不意に心弱くもふさがつて來た胸を壓へて、火鉢の灰をかき上げた時、母の聲が靜かに言つたのである。 「初めて解つたらう。他人が入るとつらいといふ事はそこなのです。お母さんだつてお前が丈夫だつたら何の氣兼ねもなかつたかも知れない。そして死んでしまつてもよいのだつた――。」 お葉の涙はうつむいたままあふれ出たのである。そして母の爲めに生き、子の爲めに生きるといふ、便りない淋しさを考へたのであつた。私は三十三に死ぬ。しかし母親はいつ奪略されるか解らないのだ。お葉は涙の絶えないのを感じた。火鉢の前に頸をおとして、母親のやがて帶とき着物をぬぐのを知つてゐたのである。 「朝のうちは人がまゐりませんから、御ゆつくりお入り下さいませ。」 頭の上に女の聲が聞えて、素足の女がひたひたと前を通つた。お葉は漸く頭を上げて壁によつた。冷たい姿見のなかに、銀杏返しの根を落した涙のあとの白い女が、底深く沈んだやうに、少しも動かなかつたのである。
(大正三年五月「新小説」)
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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