素木しづ作品集 |
札幌・北書房 |
1970(昭和45)年6月15日 |
小さなモーパッサンの短篇集を袂に入れて英語の先生からの帰り、くれてゆく春の石垣のほとりを歩きながら辰子はおかしくってならなかった。 今日ならって来た所の、フランチェスカといふわけのわからない女が、“What does in[#「in」はママ] matter to me ?”と、“Not at all”以外に、なに事もいはず、常に怒ってゐるのか、真面目になってゐるのか、わからないやうな態度と表情をしてゐるのが、をかしくってならなかった。 そして彼女が嫂の態度に対する不満と自分をあはれむかなしさとが、すっかりそのおかしさのなかに入ってしまった。 彼女は、まだかつて嫂を思ふ心におかしさを思ったことが一度もなかった。 「フランチェスカは、家の嫂さんとおんなじだわ、『結構です』と、『どういたしまして』、以外になんにも云はないんだもの。そしていつも、おかしいことも、かなしいことも、面白いこともないやうに、むっすりと黙ってゐるんだから。」彼女は、そう考へて、おかしくってならなかった。そして、辰子は、顔にまでそのおかしさを見せながら、何の気がゝりも心配もなく、家の玄関まで来てしまった。 彼女は、手をかけて玄関をガラッと開けた。そして、その音と同時に彼女はすっかり真面目になってしまった。敷石を静かに歩いて草履を、片すみにそろへてぬいだ。 嫂の部屋は、玄関の側にあった。辰子は、その部屋の襖の前に行って『只今』と手をついた。 『おかへりなさい。』 といつものやうに、部屋のなかゝら声がした。その声は、何等人の情にはかゝはりのない、木を折ったやうな、殺風景な音であった。辰子の心はすぐ淡い恐怖と不安とを抱いた。そして廊下をつたはって自分の部屋に行った。 辰子は自分の心が嫂のことに対して、かなしむ時、必ず学校時代のことを思ひ出した。 辰子が、まだ女学校に居たころ、嫂はまだ彼女の家に来てなかった。そして新学期のはじまるころ、嫂のことをひそかに知り、またその嫂が、彼女の学校の先生になることを聞いたのであった。辰子はそれを聞いた翌日友だちと廊下で顔を合はせた刹那、ふと思ひがけない嬉しいことを、自分が知ってるやうな気がした。それで、彼女は驚いたやうに、瞳を輝かして微笑した。 『あのね。』辰子は、思はずよりそって云った、けれども、ついなんでもないことを云ってしまった。 『音楽室の方に行かなくなって。』 友だちは、なんの気もなしに素直に、彼女によりそったまゝ、すぐ音楽室の方に歩き出したのであった。それで、彼女は一所に歩き出したが、彼女の頭のなかには、夕聞いたうれしいことが、不安に踊り初めてゐたのだ。 そして、彼女はいつか草履を引づりながら音楽室の前を、通りこした。朝早いので人もない廊下に、低いオルガンの音が、閉された扉のなかゝら流れて来てた。彼女は、いつものやうに爪先を見つめて歩いてゐた。 こうして、友だちと廊下から廊下へ黙って歩くのは、彼女たちの長い間のくせであったので、彼女はそのくせによって、いつのまにか歩いてた。そして運動場の窓際の椅子まで来て、腰を降ろした。 辰子は、もはやうれしいことでもなんでも[#「なんでも」は底本では「なんで」]なくなった。話さなければゐられなくなった。 『あのね』彼女は、もう一度注意を引いた。 『山口さん、二三日うちに若い国語の先生が入らっしゃるんですって。』 彼女は、まだ/\云ひたいことがあるのをひかへて、それだけ云った。そしてもはや、自分の身家のものに対するやうに、人の心持を気づかってたのだ。 『あら、そう、いゝ先生が入らっしゃるといゝけれども。』 友だちは、すぐあとをつゞけて云ったけれども、それ丈けしか云はなかった。辰子は、夕、母親の云った言葉をすぐ、思出してゐた。「お花も、お茶もお琴も、そして職業学校では、造花と裁縫をやったし、女子大学の方では国文科だったんだから――」その先生は、なんにも出来ない事はない、どうしてそれが悪い先生だらう。辰子は、すっかり信じてゐた。そして、その先生が自分の嫂さんになるのだ。辰子のうれしいことは、そのことであった。 『えゝ、それは』彼女は息ごんで云ひかけたが、友だちがそれに対して、あまり興味を持ってないのを見て、辰子の内心の力はちゞまってしまった。 で何げなく、『きっといゝ先生に違ひないわ』と云った。 辰子は、その先生が自分の兄と婚約のある人だといふ事を、人に云ってはならないと、家の人から云はれてゐた。それで彼女は、それ以上云ふことが出来ないで、疲れたやうに黙った。「なんにも、あなたには解らないのね。私のうれしいことなんか、一つもわからないのね。その人がいまに私の嫂さんに、なる人なんですって。そして、私は二三度その人を見たことがあるんだわ。名前は森本つた子、森本つた子」辰子は、そんな事を、口の中で繰りかへしてゐた。そして彼女の心のなかでは、どうしても、その人について、自分の知ってる、小さな、さま/″\の断片を誰れかに話したくてならなかった。 二日ののち森本先生は、彼女だち生徒に紹介された。そして、うす黒い筒袖の着物を着て、引つめた束髪を結って三十すぎた片意地そうな、先生だちにのみ教へられた、彼女だちには、その若い先生がどんなに、物珍らしかったか知れなかった。前髪もゆるく、大きく出してゐた。着物も紫の袂の長いのを着てゐた。若い彼女だちは、みな憧憬の瞳を輝かして、新らしい先生を見た。そして、自分だちの若い心がのびのびとその先生の心にとゞき、生長することが出来るだらうと期待した。彼女もまた、そう思った。しかしひそかに、森本先生が生徒だちに讃美されなかったら、どうしやうと、辰子は気づかった。そして、それから常に、その気づかいを持って、彼女は登校するやうになった。 森本先生は、彼女の方の国語も、作文も受持った。そして、辰子は、その時間を、重苦しい、気遣はしさと、圧迫と、気恥かしさに暮らさねばならなかった。 森本先生は、教へ方が下手だった。そしてまた他の先生だちに比して、知識も浅いやうに見えた。それで、一時間の授業は、混雑した。生徒だちは、わづかのうち、森本先生を軽蔑してしまった。そして、彼等の期待に反した反動として、時間毎に非難の声が高くなって行った。 辰子は、耳をふさいでゐた。学校は、彼女に不安なかなしい所になった。彼女は、なるべく、友だちと学校の話しをするのでさへさけやうと思った。 そのうちに、誰れからともなく、森本先生は、辰子の嫂さんになるといふ評判が、学校中に開がった。そして今まで辰子の前で森本先生の悪口を云った友だちも、驚いたやうにそれをさけた。辰子はそれからひそかに、只一人教室の出入りをした。そして、辰子がなにげなく、友だちの方に歩いて行く時、必ずそれ等の友だちの話しは中止されてゐた。 辰子は、そういふ時、かなしみに堪へないで黙って引かへした。そして、誰れを恨んでいゝかわからなかった。勿論、森本先生を自分のかなしみに対して恨む気には、なれなかった。森本先生は[#「森本先生は」は底本では「森田先生は」]、けっして悪い人ではないと思ったからだ。 けれども、彼女は森本先生が自分の方の、学校につとめた事を悲しんで、自分の方の学校にさへつとめなければ、うれしい時が過されたらうし、お友だちとも気がゝりなしに、親しんでゐられたに相違ない。 彼女は、よく一人でかなしみながら、静かに廊下を歩いた。誰れかゞ言葉をかけたならその人にすっかり、すがってしまひたいやうな心で歩いた。そんな時、思ひがけなく森本先生に逢って、辰子は思はず赤い顔をした。そして微笑する間もなく、森本先生は黙ってゆき過ぎてしまふので、彼女は堪えがたく自分を哀れに思っては、そっと涙をふいたりした。 けれども、彼女が一日学校に見えなかったりした時に、森本先生は、辰子の後から声をかけた。 『病気だったの、お家の人によろしくね。』 彼女は、黙ってうつむいてお辞儀をした。そして自分を侮辱した。この頃時々「あまりいゝ人ぢゃない」。といふやうな、考へに捕へられたことを思出すからであった。 けれども、彼女は非常にうれしかった。森本先生が一言彼女に向って、言葉をかけたことによって、彼女は安心して、森本先生の優しさと善い人であるといふことを、信ずることが出来たからであった。彼女は、その時誰れかにその嬉しさを話したくってならなかった。けれどもその嬉しさを共有することの出来るものは、恐らく誰れもなかったであらう。 辰子は、一年近い月日を、只一人心のなかに森本先生のことについて、気づかひ悲しみひそかによろこんで暮した。「早く早く、学校をよして、私の家に来て下されゝばいゝ。」それが、彼女の希望であった。
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