紫琴全集 全一巻 |
草土文化 |
1983(昭和58)年5月10日 |
1983(昭和58)年5月10日第1刷 |
氷の塊かとも見ゆる冬の月は、キラキラとした凄しい顔を大空に見せてはをれど、人は皆夜寒に怖ぢてや、各家戸を閉ぢたれば、まだ宵ながら四辺寂として音もなし。さなきだに陰気なる家の、物淋しさはいや増しぬ。二分じんのランプ影暗く、障子の塵、畳の破れも、眼に立ちては見えねど、病みたる父の、肉落ち骨立ちてさながら、現世の人とも思はれぬが、薄き蒲団に包まれて、壁に向ひ臥したる後姿のみは、ありありとして少女の胸を打ちぬ。父は病苦と夜寒とに、寐ても寐つかれずや、コホンコホンと咳く声の、骨身に徹へてセツナそうなるにぞ、そのつど少女は、慌てて父が枕上なる洗ひ洒しの布片を取りて父に与へ、赤きものの交りたる啖を拭はせて、またしよんぼりと坐りいぬ。 少女といふは年の頃十四五、勝れたる容姿といふにはあらねど、優形にて色白く、黒色がちなる眼元愛らしければ、これに美しき服着せたらんには、天晴れ一個の、可憐嬢とも見ゆるならむが、身装のあまりに見苦しきと、水仕の業を執ればにや、手の指赤く膨らみて、硬太りに太りたる二つ、小奇麗なる顔に似合はしからぬやうにて、何となく憐れ気なり。淋しさと心細さは、四辺よりこの少女を襲へばや、少女は何をか思ひ出して、しくしくと泣きゐたり。 お袖お袖と力なき呼声は、覚束なくもこの寂寞を破りて、蒲団の内より漏れ出ぬ。お袖はハツと父の方を見遣れば、父はかなたを向きたるまま「おッ母さんはどこかへ行つたかい」「ハイ先刻差配のおばさんの許まで行つて来るといふて」「フムまた出歩行か、ああ困つたもんだ。己れが床てゐることも、お前がそうして苦労するのも、気にならないのかネー、モーかれこれ九時にもなるだらふ、ちよつと行つて呼んでお出で」お袖はハイと応答しが、母が近所へ出歩行くは、今日に始まりたる事にもあらず。昨日も隣へ行きたるまま、久しく帰り来さりしかば、父の吩咐にて呼びに行きたるに、母はその時眼に角立てて「何か用かい、用でなければおッ母さんが帰るまで来なくツても宜しい。朝から晩まで病人の顔ばかり見てゐては、気がクサクサしておッ母さんまで病気が出そうだ、それにお父さんも、昨日や今日の病人ではなし、久しい間の事だから、そう後生大事に、二人が附添てゐなくつても、ちつとは我慢をしたがよい。何だねこの子は、何をグヅグヅしてるんだ。サツサツと帰つてお父さんにさうおいひ。帰る時分が来たら、呼びによこさなくツても帰るッと」大変に叱られたれば、今日もまたその通り、呼びに行つたとて帰らるる事にてはなかるべし。なまじい呼びに行つてまた叱られ、帰つてから昨日のやうに、お父さんにあたられてはそれも苦労と、思ひ返して父に向ひ「ナニネお父さん、おッ母さんは今に帰つて来るだらふよ。何ぞ用ならその間、私が」「イヤ別に用事ではないが、お前は昼中働いて、労れてもゐる事だから、せめて夜だけでも、おッ母さんに代はらせやうと思つてよ」「それなればなほの事、私はちつとも睡くはないから。お父さん気を揉まないでおくれ。それよりはおッ母さんの帰るまで、背など摩擦つて上げやう」と、小さき手にて身一ツに父の看護を引受けつ。別段辛い顔もせぬ、娘の心の優しさに、父の心も和らぎけむ、摩擦られながら、うとうとと寝みかかりぬ。 お袖今帰つたよ、表の戸鎖りをしておくれ。何だネー霄の内からこの暗さは、「オヤおッ母さんお帰り、何ネおッ母さんはをらぬし、お父さんも寐たから、それで贅費だと思つてランプの芯を引込めて置いたんだアネ。ハア巨燵――巨燵はとうに拵へて、今しがたおッ母さんの寝衣も掛けて置いたよ。アノネおッ母さん、晩方買つて来た炭団は大変に損だよ。小さくつて柔らかで、今巨燵を明けて見たらもうちやんと、半分から灰になつてるんだもの、同じ一銭に八つんなら、先の方がよつぽど得だよ。今度から先の家へ行つて買つて来ようネー」といかに貧しく暮せばとて、十四や十五の小娘の、口から出やう詞とも、思はれぬほど気のつくは、これも平素からとやかくと、母に代はりて世帯の苦労を、させらるる故と知られたり。 母は巨燵へあたりながら、ランプの火にて一二服煙草を吸ひじれつたそうにポンポンと灰吹を叩き「お袖ちよいとここへおいで、お前に聞きたい事がある。何かいお前は隣の花ちやんか誰かに、おッ母さんの事を悪く言つて聞かせた覚へがあるだらふ」「何をつて、おッ母さんがお前をひどくするツてサ」思ひ掛けなき問にお袖は眼を見張りて母の顔を打守り、「イイエおッ母さん、誰がそんな事をいふもんかね。私は何もおッ母さんの事を」「ソリやァあるとはいはれまい。けれど今夜差配の女房さんに聞きやァ、何でも私が大変に継子イヂメでもするやうに、近所で噂をしてゐるとサ。大方お前が花ちやんか誰かに云ひ告けたのだらふ」「イイエ何もいやアしない」「でも差配の女房さんが、こういふ事をいつたよ。お前さんは真実にお仕合せだ、お袖さんが何もかもおしだからといふから。ナゼそんな事をと聞ひて見ると、隣の花ちやんがいつてたそうだ。お隣では、おッ母さんは何もしないで、お袖さんばかりが家の事や、お父さんの介抱をしてゐて、ほんとにお袖さんはかわいそふだとよ。何かいおッ母さんはそんなに何もしないかい。そりやもうお前も十五だし、女の子の事でもあるから、何でも仕習つておかないと、先へよつてからお前が困ると思つて、お飯も洗濯も、私がする方が早いのだけれど、めんどうを見てお前にさせてやるのは、みんなお前の為を思ふから※[#小書き片仮名ン、30-15]だ。お父さんの看病だつてもその通り、とてもお父さんはよくならない事は極まつてるし、もう長い事はあるまいと思ふから、亡くなつた後にお前が残念がらないやうにと思つて、一つでもお前にさすやうにしてやるんだアネ。それをそうとも思はないで、いかに生さぬ中の継子根性とはいへ、私ばかしひどく遣ふなんて、近所へ触れ廻すといふ事があるものかネ。ほんとにお前は太い子だよ。おッ母さんの前てばかし、ホイホイいつて、お父さんの事でも何でも私がするから。おッ母さんは搆わないでおいでなんて、お上手を遣つてサ、蔭へ廻つて讒訴するなんッてほんとうに呆れたものだよ。これがおッ母さんだつて、自分が悪くいはれないやうにと思つて、お前の為を思はないなら、お前には何もさせずに、それこそチヤンと遊ばせておいて、おッ母さんが何もかもするわネ。そうすると人にかれこれいはれる事もなし、お父さんにイヤに気を廻させる事もないんだけれど、それでは今もいふ通り、お前の為にならナイからだ。それやこれやのおッ母さんの気苦労は思はないで、おッ母さんを悪くいふとは、ほんとうに親の心子知らずとはこの事だよ。何だとへ、私は何もいはないと。言はないものがナゼ人が知つてます。お前が何もいはないに、誰がそんな事にまで、世話を焼くものがあるもんかネ。ヘン、いくらおッ母さんがお心善しだつて、あんまり馬鹿におしでないよ。言つたら言つたでいいから、おッ母さんもこれからそのつもりにするばかりの事だ。エ、何だとへ、怒られちやア困るとへ、困るならナゼ怒られるやうな蔭口をきくんだネー」と並べ立てたる百千言、詞は巧みに飾れども、飾りきられぬ行ひは、近所の人の眼に触れて、お袖は何も言はずとも、噂さるるは我と我が、身の行ひにありぞとも、心付かでや一筋に、お袖が継子根性から人に告げ口せしものと、思ひ僻めて胸安からず、なほも詞を継がむとす。 いつの程にか目覚めけむ、父は何をか言ひ出でむとして、コホンコホンと咳き入りぬ。継母はジロリそなたを見遣りたるまま、わづかに口を噤みぬ。お袖は口虎を逃れし心地、これを機会に父の辺りへ走り行けり。病父はお袖の介抱にやうやく動悸治まりけむ、しばらくありて口を開き「お霜、己れも先刻から聞ひてゐたが、子供を捉へて、あんまり喧しう云ひなさんな。お袖の事はマアそれでも善いとして、子供のやうなものに病人を任せ、夜歩行するおぬしもあんまり誉めたものでもあるまい。永うとはいはぬ、せめて己れは寐返りの出来るやうになるまでなりとも、少しはめんどうを見ておくれ。いくらよく気をつけるからツて、お袖はまだ子供だ、一人では手の届かぬ所もある」と寄らず障らぬ云ひ振りをも、継母は何と聞き僻めけむ。今度は病夫に取つてかかり、なほとやかくといひ募る。ああまたこれが隣へ聞こへて、人の噂にならねばよいがと、お袖は小さき胸を痛めぬ。 さてここにてお袖が一家の履歴を説くべし。お袖の父は、もと相応なる商人にて、維新の頃までは、広き江戸の町にても、何町の何屋と少しは人にも知られたるほどの身代にて出入屋敷も数多く有せしかど、維新の瓦解に俄の狼狽、貸付けたる金はその十分一も戻らず、得意先は残り少なに失ひて、これまで通り商業も営みかねるやうになりしかば、いくほどもなく家屋土蔵をも人手に渡してその後は、小さき家に引移り、更に小商法を始めしかど、商人ながら相応の大家に生まれしお袖の父、万事万端応揚にて、さながら士族の商業も同様、損失のみ多ければ、遂に再びその店をも鎖す始末となりしなり。この際お袖の実母といふは、それこれの心労にて、不治の病を惹き起こし、帰らぬ旅へと赴きしかば、父は男の手一ツにお袖を育つることなれば、何かに付けて不自由ならむと、後妻を勧むる人あるを幸いに、お袖がてうど八ツの歳今の継母を迎へしなり。さるにこの継母といふは、お袖が家へ来るまでに、既に三回も他へ嫁きて、いづれも不縁になりしといへば、ほんの出来合いの間に合はせものにてとうてい永持ちのせむやうはなし。さればお袖が家も、その頃既に逼塞せしとはいへ、古河に水絶へずとの譬喩に漏れず、なほいくばくかの資財あるを幸ひに、明日の暮しは覚束なくとも、今日の膳には佳肴を具へて、その日その日を送るをば、元来贅沢に成長せしものの僻とて、お袖の父も別段意には介せず。夫婦顔を突合はしての坐食に、幾年をか送り来りぬ。されどいつまで生活の材料の尽きずしてあるべき。加ふるに父は一二年前より肺病に罹りゐしに、ふとこの秋夥しく咯血して、その後は日毎に見ゆる身躰の疲せ、とても冬中はと医師も眉を顰むる程になりたれば、それこれの費用多く、今はその日の米代にさへ差支ふる身となりしなり。かかる場合に至りても、継母は夫を助け、娘を労る心とてはなく、かへつてその身の衣服まで売却なして今は親子三人が着のみ着のままなる困苦をば、ひとへに夫の意気地なきに帰して、夫を罵り、お袖にあたり、かくは波風を起こせるなり。 お袖はかかる父母の間に人と成りたれば、今の時節に学校へも遣られず。年端もゆかぬその内より、下女代はりに追廻されて、天晴れ文盲には育て上げられたれど、苦労が教へし小賢しさに、なかなか大人も及ばぬふんべつ思慮する事もあり。 されば今宵もお袖の心には、父の言葉は無理ならず、母は道理に背けりと、思はぬにてはなけれども、万一母に怒られて、この家を去らるる事ならば、他事はとにかく、死期遠からぬ父の介抱、心に任せぬ事もあらむ。母の機嫌を直すにしかじと思ひて「おッ母さん私が悪かつたのだから、堪忍しておくれ、お父さんは病気のせいで、何でも腹を立つんだから、モウよい加減に打捨つておおきよ」とはこの少女が思ひ切つて云ひ出せし詞なり。 ああこの無邪気なる少女をして、かかる詞を発せしむるは、継母の罪か、境遇か、はたまたその責め父にあるか、思へば可憐なるこの少女の、行末何となる事ぞ。父はこの世に在りても亡き身、母は何時お袖を捨つるやも知れず。世には流行の三枚重ねの小袖元日の間に合はざりしとて、むづかりたまふ嬢様もあるものを。(『女学雑誌』一八九四年一日六日)
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