紫琴全集 全一巻 |
草土文化 |
1983(昭和58)年5月10日 |
1983(昭和58)年5月10日第1刷 |
上
身は錦繍に包まれて、玉殿の奥深くといふ際にこそあらね。名宣らばさてはと、おほかたの人もうなづく、良人に侍り。朝夕爨が炊ぐ米、よしや一年を流し元に捨てたればとて、それ眼立つべき内証にもあらず。人は呼ばぬに来りて諂らひ、我は好まぬ夫人交際、それにも上坐を譲られて、今尾の奥様とぞ、囃し立てらるる。これがそも人生の不幸かや。 春の花にも、秋の月にも、良人は我を棄てたまはず。上野に隅田に二人の影、相伴はむことこそは、世事に繁き御身の上の、御心にのみも任せたまはね。庭の桜の一片をも、我とならでは愛でたまはず。窓の月のさやけきにも、我在らずは背きたまふ。涙は我得てこれを拭はむ、笑みはそなたに頒かたむと、世に優しくも待遇させたまふ、これがそも人生の不幸かや。まして我が良人は、学識卓絶、経綸雄大、侠骨稜々の傑士にして、しかも温雅の君子なりと、名にのみ聞きて、よそにだも、敬慕せし君なりしを、ゆくりなき知遇により、迎えられて、妹よ背と、呼び呼ばれ参らする中とはなりし身なるをや。もしこれをしも不幸といはば、はた何をかは、人生の幸とはせむ。 さあれ絶対無限てふものは、かの唯一の御神とぞいふなる、大精霊大動力を除きての外になき限り、いかでか不幸の伴はぬ幸福の幸の伴はぬ不幸てふものあるべきや。もし満足を、開悟の外に求めなば、人は天地を我が有とするも、未だもつて絶対の幸福とするには足らじ。一心ここに頓悟せば、身は三界に家なきも、またもつて幸とするには足る。悟れば幸も不幸もなき世に、悟らぬ内が人生の、おもしろ、うたての人の身や。 我も数には漏れぬ身の、差別の外には出で難く、嬉し悲しは切なるを。なまじひなる幸福に、身を包めばぞ人知れぬ涙の淵には、沈むなる。羨ましきは世の中の、人の栄華を羨むほどの、無邪気なる人々よ。繿縷の袖に置く露の、そればかりが悲しき涙か。錦繍の上に散る玉は、よしや生命の水なるも、飾れるものにあやまたれ、何ぞと人の問はぬにも、心は千々に砕くるなる。砕けて墜ちて、末遂に、もとの雫の身とならば、憐れを人の訪ひもせめ、珠の輿にも乗れるよと、見ゆらむほどの今の身の、歎きをそもや誰にか語らむ。天は永久に高く、地は永久に低し、しかも天の誇りを聞かず、地の小言をしも聞かざるに。人ばかりは、束の間の、いふにも足らぬ差別を争ひ、何とて喧々囂々たる。浅ましとは知る身にも、さて断ち難き、恩愛恋慕の覊絆にぞ、かくても世には繋がるなると、朝な夕なの御歎きを、知らぬ世間の口々に。さりとては、御気随意なる奥様や、世に成上りものは、これでいやでござんする。嬉しさうな顔しては、お里が知れやうと思ふてか、どこまで行つても不足な顔、ああか、かうかと機嫌を取る、旦那も旦那、奥様が、憎らしいではござんせぬか。ほんにその事、私などは、年中世帯の魂胆ばかり、晴衣一枚着るではなし、芝居も桟敷で、人らしう見せられた、覚えはさらさらござんせぬ。それでもやつぱり脹れ物に、触るやうにしてゐてさへ、またしても小言の八百。よしんば去ねといはれたところで、帰る里には父母もあり。兄はかなりな商法家、奉公人の三四人は、召使ふてもゐますれば、不自由は、良人の方にこそ。里へ帰れば母親が、甘いといふではござんせぬが。出戻りとても家のもの、他家から這入つた嫂なぞにひけとらす気遣ひは、さらさらもつてござんせぬ。それでもこれが女子の役目と、辛抱すれば、よい気になり。あなたの前ではござんすが、大事にしたは、その当座、ほんの二月ばかりの事。やれ気が利かぬ、おかめじやと、初手から知れた私の鼻が、急に低いか何ぞのやうに、高い声での悪口も、頭脳の上を超せばこそ。すめばすむ、家請けまでも兄の判、母がくれます小遣金が、帯側にもなる事か。帯は帯でも、世帯の方へ、廻したは、三上山を七巻、はんぱものでもそれ位の金高にはなりまする。それを恩にも着る事か、よその乙姫探してばかり。ほほほ戯談ではござんせぬ。真実女子に生まれたほど、割の合はぬが定ならば、あきらめやうもござんすが。今尾様の奥様の御噂聞きては、なぜかうも、同じ女子の運不運違ふものかと、不美貌に生まれた身躰の親をまで、つくづくと怨みまする。それは私も同じ事、したがお聞きあそばせや。満つれば欠くる鼻位、低いところで不具ではなし。人をのろはぬ証拠の穴、二ツ揃ふてゐるからは、それでも鼻を、よも人が穴とばかりは申すまい。それがむつくり小高うて、栄耀に凝つた細工もの、手で拵らえたか何ぞのやうに、器用に出来たその尖頭には、得てして、天狗が引掛り、果ては世上の笑柄、美貌が仇でござんする。近い例は今尾の奥様、押出しはよし、容貌はよし、御教育もあるとやら。やらやら尽くしで殿達は、近来の大騒ぎ。何でもあんな細君をと、独身ものはなほの事。私といふものある前で、主人までが品評め。お前なんぞはそちらの隅にと、いはぬばかりの誉め方を、致した事もござんすが。誉れは、結句譏りの基因。気になるからの詮索を、どなたがなさつたものじややら。今は知らぬものもない、お里方の根を洗へば、梢に咲いた花ばかり、美麗しう見えたとて、これもひよんなものじやのと。手に取れぬだけ、皆様が、思ひ切つての悪口を、主人の口から聞いた時、それ見た事かと、可笑さを、わざとこちから誉め返し、誉めた口からいはせたは、浮気男によい懲らしめでござんする。ほほほまお人の悪い、してその悪口と仰しやるは。さ、その事でござんする。あの奥様のお里といふは、秋田様とは表向き、世間を繕らふ仮の親、真実は高利も、わづかな資本の金貸業。それも父御は独りもの、偏屈か、ただしまた廻らぬ世帯の窮屈か。婢も置かぬ男手に、御飯も炊けば、金も貸す。かすかすの利息をば、あの人に入れ揚げて、何とやらいふ女学校へ、稚い時から預け切り、廿歳の時に卒業を、そのまま其校に、教師三昧せられたも、思へば硝子の窓入娘、透き徹るほど美麗しい、容貌の置き場が置き場ゆゑ。くるくる巻の束髪には、惜しい姿と、今尾様、どこを廻つた手蔓やら。秋田様の嬢様とて、御婚礼のその時は、なるほど立派でござんした。おほかたそれも拵え取りの、金に飽かした衣裳なり、人形もさすが、あれほどの、御人品ゆゑその当座は、あつと人眼を眩ませた、それまではよかつたが。実父は間もなくどこへやら、引越しといふ噂も、底を探れば、逃水の、捉まえどころもない行衛。何でも高利の貸仆れに、我も仆れて、逃げたが定か。それともにも、今尾様から、こつそりどこぞに、貢いででも居らるる事か。噂はさまざま、先こそ知れね、隠居所が確かにあると、申す事でござんする。でも区役所は、失踪と相場も極まつて、表向き、通路の出来ぬ、親持つほどの御身分を、お忘れなされた僣上沙汰。栄耀の餅の皮は、あのくつきりと美麗しいお顔に粘り付いたやら。千枚張の鉄面しい、お鬱ぎ顔が分らぬと、女中達まで、とりとりの噂は聞いてゐましたが。主人の口から申させれば、まさかさうでもあるまいがと、今に未練の冒頭を、残してゐるだけ、憎らしうござんする。ほほほま際どいところで、やきやきとあそばすだけ、あなたはまだもお畳の新しいと申すもの。私なぞは、土足のままに踏み暴さるる板場の扱ひ、嫉妬なとはさておいて、うつかりすれば、今の間も、この身躰が焚きものに、つぶされでもせぬ事かと、腹が立つそのたび毎、羨ましい種子にもしました、あの奥様の御身分も、今の委しいお話では、あんまりどつといたしませぬ。それではやつぱり御見込通り、どれ程旦那が出世をしても、まだまだといふ顔を、世間へ見せて、内実の喜びは隠しておく、これが上品高尚と思ひ違えた成上がりの、根性でござんせう。そこを思へば、叱られても、不自由な世帯に縮んでゐる、女子はまだも世間から、目指されぬのを徳にして、じつと忍耐致しませう。ほほ、御忍耐がどんなものやら、あてにはならぬあなた様のも、旦那の方からお勤めを、羨んでゐるものが、ちつとは世間にござんする。あらまお人の悪い、それならさうと致しましよう。でも私は主人にばかし、勤めさせは致しませぬ。私からも二倍だけ。はいはいそれでたくさんでござりまする。ただし旦那の御歳費が、二千円の翌日から格別の御待遇ではござんせぬか。ゑゑもさう内輪から、火を出すものではござんせぬ。それもこれもお互いに、岡目ならば知らぬ事。その身になれば、よしこれが殖えたところで、家内の手へ、落ちるものではござんせぬ。新橋や柳橋へ安心して流すだけ、山の神の祠は破損と申すもの。川上へ潤ひが廻るほどなら、八百でも世帯は立派に固めまする。そこを思へばいよいよもつて、お気の毒なは今尾様、歳費をあてになされぬほどの、御財産もある上に、浮気一ツなさるでなく、奥様ばかりを蝶花の、離れぬ番ひとあそばすに。一人はどこを飛んでゐる、脳味噌は天辺に、上るほど香に誇る、奥様を追ひ掛けての御機嫌とりは。今度いよいよ二度目の政党内閣に大臣の御顔触れ程でもない、おむづかしい事でござんしよと、姫御前のあられもない、口も叩けば調子も、合はす。ばちはてきめん、我が事も、人の背後に笑ふぞと、知らぬが花の模様もの、着た夫人の集会も、あながち長屋の女房達に、譲らぬが世の習ひなるべし。
中
さりとては草臥し。党務だけも忙しいこの身体を、内閣へひつぱり出されしその后は、夜ともいはぬ来客に、ろくろく休む隙はない。それもさるべき要事なれば格別なれど。名さへ覚えぬ地方の党員までが、続々人材の登録望みには恐れるから。やうやく不在と切上げても来たなれば、今宵は久し振り、寛ろげるでもあらうかと、奥まりたる書斎へ、今しも遷坐の身をゆつたりと、縁側近く端居して、しづかに髯を撫で上げたるは、かの今尾春衛なり。年齢は四十歳を、迫らぬほどの眉根濃く、眼光の烱々たるものあるにも、それとは著き風采の、温雅にもまた気高し。これを迎えてさぞやさぞ、お疲れあそばしたでござんしよにと、三尺去つて、良人の傍、先づ何よりと、団扇の風、慰め顔に侍るは、これぞ噂のその人ならむ。今日結ひたての大丸髷も、うつむきめの艶やかに、縞絽の浴衣は、すらりと肩を流れし恰好、何としてこれが女教師上がりの夫人と思はるべき。笑みも溢るる、青葉の雫、あれ御覧あそばしませ。人工の夕立ほど、水打ちました三蔵が大働き。螢が飛んでゐるやうで、築山のあたりが、いつそう奇麗でござんする。官邸の月と御題をあそばすも、御一興でござんせう。花やお湯をと取寄せて、煎茶手前もしとやかに、滴らす玉露のそれよりも、香り床しきこの人をそもやそも誰がすまぬお顔と名づけけむ。独り居てこそもの思へ、思へる事のありぞとは、良人に知られじ、知らさじと、思ひかねては、墜ちも来る、涙を受けて、掌は白粉も溶く薄化粧。紅も良人へ勤めぞと、物憂さ隠す身嗜み。瞼ばかりは、ほんのりと、霞に匂ふ遠山の、桜色をばそのままの、腥燕脂には代用して、粧ひ凝らす月と日も、積もれば人の追々に、忘るるものと思ひきや。良人の出世を見るにつけ、我が身の里の謡はるる、それもよけれど、今頃は、どこにどうしてゐたまふとも、知らぬ父上なつかしや。たとへばどこの果てとても、ここにかくての一言を、我一人には夢になり、御沙汰したまふものならば、よしや来るなのお詞を守るにしても、朝夕を、少しは慰む方あらむ。子細のあれば、身を隠す、我は現世になきものと、ひとへに良人に冊けよ。我は元来強情ものの、人交はりは好かぬ身を、心にもなき大都の風に、顔曝せしは、誰が為ぞ。日本一の花聟に、添わせむまでの父なりし。今尾春衛の妻はあれ、この親爺の娘とてはなき、身の上の気散じは、今より后の我世界を、破れ庇の月に嘯き、菜の花に、笑ふて暮さむ可笑さよ。忘れても世の中に、血属は一人の父にさへ、離れたる身の、宿業を謹みて、春衛殿に、愛想竭かさるるな。我をいづこと、求めむ心の出でなむには、それだけ多くを、良人に尽くせ。尽くして尽きし百年の、寿命は今尾の土となれ。土となりて、魂のかの世に逢はむその時にぞ、今日の子細は語るべし。それまでは、一ツの秘密を持てる身の、よしや天地に耻なきも、世に辱あらむそれよりは、身の秘密をば、社会の裡面に葬りて、悠々の天命をしも楽しむべきを。なまじひなる孝念に、我が所在を探らむは。我が志を傷つけて、我が耻辱を世人の前に、曝露するの所為たるなり。我への不孝、良人への、不貞この上あるべからず。謹んで秘密の匣たる我が行衛に、生涯手を触るまじきものなりと。世にも不思議の御教訓を、寄せたまひつるその后は、御音信も、幾月を、絶入りてこそ歎けども、これに濡れたる袖ぞとは、良人の御眼に掛けられぬ、御手紙は、生きての記念、死ぬまでは、何とも知らぬ御秘密のありと思へばなほ更に、御身の上の気遣はしく。ふり残されし身一ツに、雨をも、雪をも、御案じ申し上げれども。かくと明かせぬ切なさは、世に隔てなく待遇したまふ、良人へ我から心の関。父の為には隠すをば、孝と思へば、貞ならぬ、身はさながらに大罪を、冒せるものの心地して。優しきお詞聞く毎に、身を切らるるより、なほ辛きを、じつと我慢の忍耐強く。我一人して御行衛を、探りてもみるそれだけは、よしお詞に背いてもと。思ふ甲斐なき手がかりも、慰めかねし胸に泣き、口に笑ふが常なれど。いづくいかなる隙間より、涙の漏れて、世の人の譏りの種子とはなりにけむ。王者貴人も、恩愛の涙見せずに居らるる国の、あらばそこにて譏らるべし。何を不足の我が涙、浅い世間の推量は、まだもましかや、術なやと。世の蔭口にも謹しみの笑窪加へて侍れば。ただおほように行衛知れずといふ事の、気には掛かれる春衛さへ、その当坐こそ慰めたれ。忙しき身の事々に、取紛れては、如才なき、妻に任せし家事心。忘れがちなるこの頃を、その事としも思はねど。やうやく見えし頬の瘠せ、思ふ事でもある事かと、春衛は妻が繊き手の、団扇いぢりをじつと見て。何とせし清子。この節は顔色も善からぬを、病気とは思はぬか。夏は格別、身体を大事に、早速医師に見せてはと、いはれて、はつと元気を見せ。ほほほこの痩せでござりまするか、これは私の生まれ性、夏はいつでも、今年なぞ、まだも肥えておりまする。夏痩せは、医師よりも、牛乳を、精出しておりますれば。秋にはたんと肥えますて、女子のあまり不恰好など、お笑はせ申しましよう。それよりもあなたこそ、この頃はお忙しい上のお忙しさを、お案じ申しておりまする。ははは乃公か、乃公はそんな脆弱い身体でない。いはばこれも道楽の、好きでする仕事に、疲れなんぞ出るものなら、とうに死んでゐる筈なり。まだまだ前途悠遠の、序開きといふ段で、がつくりとなる程なら、最初から政治なんぞに、嘴は出せないさ。やうやく政党内閣といつたところで幼稚なもの、まだ二回目の最初一度は竜頭蛇尾、藩閥に回収された跡引受け。誰も初役の、勝手は分らず、議論は多し。まだなかなか国利民福を増進するの機関として、遺憾なき活動を見るまでに至らぬは、知れ切つた事なれど。一旦挫折の運命に陥つた、政党内閣の信用を、回復するが刻下の急と、気の進まぬ舞台へ上がつても見たなれど。そなたは乃公が進退の軽々しきを遺憾とし、鬱ぎ出したといふ訳かなと。意外の辺より疑問を下すも。妻の心を一転せしめて、たちまちに憂鬱の原因を、看破らむものと思へるなり。清子は夫の心は知らねど、力めての語調はいつもの爽やかに。ほほほまおむつかしい、飛んだ事でござりまする。そんな事が分りまする私なら、あなた様の御苦労を、少しは分けて戴きましふに。政党内閣がどんなものやら、分らぬこの身の気楽さは、お忙しさをよそに見て、一人寝て待つ果報の数々。別してもこの節は、いづかたからも、あなた様のお寿、私までの面目は、勿体ない程でござりまする。でも不似合なこの身体を、どうしたものといひかけて、はつと口籠るその様子に、さてはと春衛は空とぼけ。はての、奇体な事を聞くものだの。不似合とは、何が不似合といふのかの。年齢は、乃公に十歳劣りが、今始まつたといふではなし。この髯面に、美人を配した不釣合、それを今更いふでもなからう。あ、分つた、さては乃公の入閣を、官位望みと、思ひ違えた心から、人爵には感心せぬ、妻に似合はぬ夫よと、歎いてくれるか。あさても、今尾春衛は妻にまで、疑はるる身となつたかと。わざと額に手を加え、ひそかに清子を見遣れるも、なほ奥深き一物を、探らむものと思へるなり。清子は夫の詞のはしはし、いはで砕ける心をも、角々しき生利きぞと、思召されむそれよりは、思ふ心のいくばくを、ほのめかしても見むものと。またしてもその様に、思ひもせぬ事、お調戯ひあそばすゆゑ、真実の事を申しまする。釣合はぬと申したは、御名誉のあなた様に、私如き不束もの。それも紳商の娘とか、申すならば格別と、人も沈黙つておりますれど。殿方よりは夫人の、身分貴いが流行りまする、当節柄の人気には、秋田様が真実の里方でない事を、人も知つて、とやかくの噂を致してゐるとやら。うるさい事と思ふにつけ、身の不束が数えられ、これより後のお名折になるまいものかと、何とやら、すまぬ心が致しますると、幽かにいふを打消して。ははは馬鹿な、そなたの事なら今少し、理屈立つた心配かと、思ひの外の拍子抜け。そなたはいつの間、どうした事で、さうまで主義が替はりしぞ。譬喩に引くも異なものなれど、いはゆる明治の元老が、どの様な夫人を持つて、それがいかに社会から、好遇されてゐるかを知らぬ、田舎ものの、寐言ならば、いざ知らず。都会に育つて、見聞も狭からず。その上天爵人爵の、差別も知つたそなたとしては、あまりなる、激語ではあるまいか。ましてこの乃公は、不肖ながらも、富貴利達を、目的とする、鄙劣漢ではないつもり。良し経綸を施す上から、一時止むなく、入閣はしたところで。それは世俗のいはゆる出世で、乃公が出世といふものか。無位無官でも春衛は、春衛。生涯を平民主義に献身せる、一書生としての、栄誉は更に大なる日に、そなたと結婚したならば、よし大臣が総理でも、そなたと乃公の関係に、何の変はりを見る事ぞ。そなたも春衛の妻として、世に立つからは、ぐつと気を大きくして、自ら許すところを守り、あくまで世俗に反抗して。かの閨閥に依頼する無腸男子、持参にする横着婦人、この二ツをば、社会から駆逐する、大決心は持てない事か。あはは、やはり柳は柳のそなたに、無理な重荷は勧めまい。だがせめて自分だけなりと、つまらぬ事を気に掛けぬ、自信は持つて貰ひたいと、噛んで含めし言の葉に、清子は何の答はなくて、熱き涙を夫の膝に、月も雲間を漏れ出でて、二人が中のいつまでも、かかれかしとぞ輝きぬ。春衛は妻が掛念の種子の、解けても見えしを喜びて。分つたらばそれでよい。分らぬ筈のそなたでなけれど、さういふ事が気に掛かるも、つまりは身体の虚弱から、ともかく医師に掛かるがよい。くどくいふではなけれども。全体この乃公は、最初秋田を里にといふ事から、はなはだ不本意であつたのなれど。そなたの父御が是非ともに、誰かの養女分にもせずは、自分からは縁付けぬと、たつての主張に、余儀なくも、その意に任せた一条は、そなたも知つてゐる通り。いや父御といへば、その後の様子をとんと聞かずにゐたが、今だに便りはない事か。これも気に掛からぬではなけれども、内憂外患さうさうは届かぬから、内事はそなたに任せておいたが、これは不思議に気にせぬなと。ついでながらにいひたる詞の、清子が胸にはひつしとばかり。感謝に溶けし塊の、再び込み上げ来るをば、じつと押さえて何気なく。その事なれば、かならずかならず、お案じなされて下さりまするな。かねても申し上げます通り、一体が交際嫌ひの偏屈もの。親一人娘一人の、私でさへ稚いから、傍に置くがうるさいとて、学校へ預けましたその後は、日曜にも帰りますれば不機嫌の叱られるより、まだましかと、懐かしさを堪らえてゐれば、三日にあげぬ慈愛の品、送つてもくれますれば、稀には来てもくれまする、それ程可愛い私さへ、寄せ付けませぬ変はりもの。廿年から東京に住居致しておりながら、交際とて、人間が、互ひに嘘をつきあいの、それが何になる事ぞと。友人一人ないを自慢の気質には、私が身の落着きを、安心の首途にして。浮世の外の隠れ家に、身を避けましたでござんせう。よしそれとても、人間の、思ひ出しては、可愛さを、訪ねてもくれましようと。父の気質を知る身には、安心致しておりまする。ついした愚痴から、お胸を痛め、御疲れの上の、御鬱陶を、麦酒にでも致しましようかと。急にさゑさゑさらさらと、延ばす右手の袖軽く、喚鈴に指頭の、かかりける機もよし。書生の次間に畏りて、奥様にと差出す郵書。見れば名宛の我にはあれど、覚えなき手跡にて出処は、実父の名のありありと記されたり。あまりの意外に顫ふ手を紛らはさむとや、身を起こし。あのね、あちらへ行つたらば、花に来てといひかけて。あ好いよ、私が行つて吩咐ましよう、貴夫人振るも、可笑なもの、ねえあなた少しお待ちあそばしてと。その場を体よく、夫の視線避けけるも、書中の子細の危まるるを、先づ秘かにと思へるなるべし。
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