書生が出て行った後、大塚さんはその部屋の内を歩いて、そこに箪笥が置いてあった、ここに屏風が立て廻してあった、と思い浮べた。襖一つ隔てて直ぐその次にある納戸へも行って見た。そこはおせんが鏡に向って髪をとかした小部屋だ。彼女の長い着物や肌につけた襦袢なぞがよく掛っていたところだ。 何か残っている物でも出て来るか、こう思って、大塚さんは戸棚の中までも開けて見た。 そうだ、おせんは身に覚えが無いと言って泣いたりしたが、終には観念したと見え、紅く泣腫した顔を揚げて、生家の方へ帰れという夫の言葉に随った。そんな場合ですら、彼女は自分で自分の身のまわりの物をどう仕末して可いかも解らなかった。殆んど途方に暮れていた。夫の手伝いなしには、碌に柳行李一つ纏めることも出来なかった。見るに見兼ねて、大塚さんは彼女の風呂敷包までも包み直して遣った。車に乗るまでも見て遣った。まるで自分の娘でも送り出すように。それほど無邪気な人だった。 納戸から、部屋を通して、庭の方が見える。おせんが出たり入ったりした頃の部屋の光景が眼に浮ぶ。庭には古い躑躅の幹もあって、その細い枝に紫色の花をつける頃には、それが日に映じて、部屋の障子までも明るく薄紫の色に見せる。どうかすると、その暖い色が彼女の仮寝している畳の上まで来ていることも有った。 急に庭の方で、 「マル――来い、来い」 と呼ぶ書生の声が起った。 マルは廊下伝いに駆出して来た。庭へ下りようともせずに、戯けるような声を出して鳴いた。 おせんが子のように愛した狆の鳴声は、余計に彼女のことを想わせた。一人も彼女に子供が無かったことなぞを思わせた。大塚さんは納戸を離れて、部屋にある安楽椅子の後を廻った。廊下へ出て見ると、咲きかけた桜の若葉が眼前にある。麗かな春の光は花に映じている。 マルは呻くような声を出しながら、主人の方へ忍んで来たが、やがて掻き付いて嬉しげに尻尾を振って見せた。この長く飼われた犬は、人の表情を読むことを知っていた。おせんが見えなく成った当座なぞは、家の内を探し歩いて、ツマラナイような顔付をして萎れ返っていたものだ。 大塚さんはマルを膝の上に乗せて、抱締るようにして顔を寄せた。白い、柔な狆の毛は、あだかもおせんの頬に触れる思をさせた。
別れるのは反ってお互の為だ、そんなことをおせんに言い聞かせて、生家の方へ帰してやった。大塚さんはそれも考えて見た。 別れて何か為に成ったろうか。決してそうで無かった。後に成って、反って大塚さんは眼に見えない若い二人の交換す言葉や、手紙や、それから逢曳する光景までもありありと想像した。それを思うと仕事も碌々手に着かないで、ある時は二人の在処を突留めようと思ったり、ある時は自分の年甲斐も無いことを笑ったり、ある時は美しく節操の無い女の心を卑しんだりして、それ見たかと言わないばかりの親戚友人の嘲の中に坐って、淋しい日を送ったことが多かった。彼女が後へ残して行った長い長い悲哀は、唯さえ白く成って来た大塚さんの髪を余計に白くした。 おせんがある医者のところへ嫁いたという噂は、何か重荷でも卸したように、大塚さんの心を離れさせた。曽て彼の妻であった人も、今は最早全く他人のものだ。それを彼は実際に見て来たのだ。 万事大塚さんには惜しく成って来た。女というものの考え方からして変って来るように成った。男性の心情なぞはそう理解されなくとも可い、仕事の手伝いなぞはどうでも可い、と成って来た。働き者だとか、気性勝りだとか言われて、男と戦おうとばかりするような毅然した女よりも、反って涙脆い、柔軟な感じのする人の方が好ましい。快活であれば猶好い。移り気も一概には退けられない。不義する位のものは、何処かに人の心を引く可懐みもある。ああいうおせんのような女をよく面倒見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、年をとるに随って、存外好い主婦と成ったかも知れない。多情も熟すれば美しい。 人間の価値はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀しく思った。何故初めからもっと大切にすることは出来なかったろうと思って見た。 マルの毛を撫でながら、こんな考えに沈んでいるところへ、律義顔な婆さんが勝手の方から廊下を廻ってやって来た。 大塚さんの親戚からと言って、春らしい到来物が着いた。青々とした笹の葉の上には、まだ生きているような鰈が幾尾かあった。それを見せに来た。婆さんは大きな皿を手に持ったまま、大塚さんの顔を眺めて、 「旦那様は御塩焼の方が宜しゅう御座いますか。只今は誠に御魚の少い時ですから、この鰈はめずらしゅう御座いますよ。鰹に鰆なぞはまだ出たばかりで御座いますよ」 こう言って主人の悦ぶ容子を見ようとした。 何かおせんの着物で残っているものはないか。こう大塚さんは何気なく婆さんに尋ねた。 婆さんは不思議そうに、 「奥様の御召物で御座いますか。何一つ御残し遊ばした物は御座いません。何から何まで御生家の方へ御送りしたんですもの……何物も置かない方が好いなんと仰って……そりゃ、旦那様、御寝衣まで後で私が御洗濯しまして、御蒲団やなんかと一緒に御送りいたしました」 と答えたが、やがて独語でも言うように、 「旦那様は今日はどう遊ばしたんですか……奥様の御召物が残っていないかなんて、ついぞそんなことを御尋ねに成ったことも無いのに……」 こう言って見て、手に持った魚の皿を勝手の方へ運んで行った。 庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回って来た春を私語いた。あらゆる記憶が若草のように蘇生る時だ。楽しい身体の熱は、妙に別れた妻を恋しく思わせた。 夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦も帰って行った。書生は電話口でしきりとガチャガチャ音をさせていた。電燈の点いた食堂で、大塚さんは例の食卓に対って、おせんと一緒に食った時のことを思出した。燈火に映った彼女の頬を思い出した。殊に湯上りの時なぞはその頬を紅くして笑って見せたことを思出した。 「御塩焼は奈何で御座いますか。もし何でしたら、海胆でも御着け遊ばしたら――」 と言って婆さんは勝手の方から来た。婆さんの孫娘がかしこまって給仕する側には、マルも居て、主人の食う方を眺めたが、時々物欲しそうな声を出したり、拝むような真似をしたりした。 音沙汰の無い、どうしているか解らないような子息のことも、大塚さんの胸に浮んだ。大塚さんは全く子が無いでは無い。一人ある。しかも今では音信不通な人に成っている。その人は大塚さんがずっと若い時に出来た子息で、体格は父に似て大きい方だった。背なぞは父ほどあった。大塚さんがこの子息におせんを紹介した時は、若い母の方が反って年少だった。 湯島の家の方で親子揃って食った時のことが浮んで来た。この同じ食卓があの以前の住居に置いてある。青蓋の洋燈が照している。そこには嫁いて来たばかりのおせんが居る。彼女のことを「おせんさん、おせんさん」と親しげには呼んでも、決して「母親さん」とは言わなかった彼の子息が居る……尤も、その頃から次第に子息は家へ寄付かなく成って行ったかとも思われる。
食事の済む頃に、婆さんは香ばしく入れた茶と、干葡萄を小皿に盛って持って来て、食卓の上に置いた。それを主人に勧めながら、お針に来ている婦の置いて行ったという話をした。 「あの人がそう申しますんですよ。是方の旦那様も奥様を探して被入しゃる御様子ですが、丁度好さそうな人が御座いますとかッて。聞き込んだ筋が好いそうでして……なんでも御家は御寺様だそうで御座いますよ……その方はあんまり御家の格が好いものですから、それで反って御嫁に行き損って御了いなすったとか。学問は御有んなさるし、立派な御方なんだそうで御座います。御年は四十位だとか申しました。まだ御独身で。よく華族様方の御嬢様なぞにも、そういう風で、年をとって御了いなさる方が御有んなさいますそうですよ……それからあの人が、丁度あの位の奥様が御為にも宜しかろうかッて、そう申してますよ……尤も、こればかりは御縁で御座いますから」 こういう話を聞く度に、大塚さんは耳を塞ぎたかった。 おせんのような妻と一緒に住むような日は、最早二度と無かろうか。それを思うと、銀座で逢った人が余計に大塚さんの眼前に彷彿いた。黄ばんだ柳の花を通して見た彼女――仮令一目でもそれが精しく細かく見たよりは、何となく彼女の沈着いて来たことや、自然に身体の出来て来たことや、それから全体としての女らしい姿勢を、反ってよく思い浮べることが出来た。 その晩、大塚さんは自分の臥たり起きたりする部屋に籠って、そこに彼女を探して見た。戸棚から、用箪笥から、古い手紙の中までも探した。彼女が夫に宛てて書いたということは極く稀だった。それすら何処かへ散じて了った。 刺繍が出て来た。彼女の手縫にしたものだ。好い記念だ。紅い薔薇の花弁が彼女の口唇を思わせるように出来ている。大塚さんはそれを自分の顔に押宛て押宛てして見た。 温暖い晩だ。この陽気では庭の花ざかりも近い。復た夜が明けてからの日光も思いやられる。光と熱――それはすべての生物の願いだ。とは言いながら、婆さんでも、マルでも、事実それを楽むことは薄らいで来た。周囲のものは皆な老い行く。そういう中で、大塚さん独りはますます若くなって行った……
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