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山陰土産(さんいんみやげ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-8 11:13:36 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


    三 大乘寺を訪ふ

 香住かすみの大乘寺は俗に應擧寺といつて、山陰方面では圓山應擧の畫で知られてゐる。
 私が鷄二を伴つてこの寺を訪ねようとしたのは、瀬戸の日和山に登つて海を望んだ日の午後であつた。晝飯後に、私達は城崎を辭し、土地の人達に別れを告げようとした。とうやの若主人は、香住まで案内しようといつてくれるので、この暑さに氣の毒とは思つたが、その言葉に從つた。そこで、三人して香住に向つた。城崎から香住までは里數にしても僅かしかない。汽車で四十分ばかりも海岸を乘つてゆけば、それで足りた。
 香住の停車場に着いて見ると、村の自動車が二臺までもそこに客を待つてゐた。訪ねる人もかなりあると見えて、乘合の客の多くは大乘寺行の人達だ。思ひがけなく私達はその村で伊藤君といふ好い案内者を得たが、ちやうど私達が香住に着いたのは午後の二時頃の暑いさかりで、あいさつするにも、自動車を頼まうにも、自分等の手から扇子をはなせないくらゐであつた。そこにも、こゝにも、立ちながら使ふ扇子の白く動くのが見えた。
 自動車は容易に出なかつた。そこには、一人でも多く客を拾つて行かうとするやうな運轉手があり、無理にもまた乘せろといつて割り込まうとする客もあつた。のん氣で、ゆつたりとしたところは、どこの田舍の停車場前もさう變りがない。何となく私達まで氣ものび/\として來た。急ぐ旅でもない、さう思ふやうになつた。その日のうちに岩井あたりまで行つて泊ることが出來さへすればそれでよかつた。私達は乘合馬車にでも乘るやうに、その自動車に乘つた。油とうやの若主人が乘り、伊藤君が乘り、伊藤君の連れが乘り、鷄二が乘り、そこへ私まで割り込んだ時は、狹い車の中は身動きも出來ないほどの暑苦しさだ。こんなにこぼれるばかり客を詰め込んだ車の上も、動き出して行つた時はさすがに風があつた。竹林などのある田舍道を車の上から見て行く感じも好かつた。それほど奧まつたところに寺のあるといふことも、これから見に行く應擧の畫にふさはしく思はれた。大乘寺は香住のうちの森といふ村にある。果樹や野菜の畠を前にして、山門のところに小高い石垣をめぐらしたやうな、見つきからして誰にでも親しめさうな寺だ。山門を入つたところには、幾百年の風雨を凌いできた椎の大樹などが根を張つてゐて、寺を訪ねるものはまづその樹蔭に立ち寄りたくなる。伊藤君の案内で、やがて私達は寺のなかの應接間のやうな部屋に通された。長火鉢を置いた廣い部屋がまだ先にあつて、そこから料理の間の方へ續いてゐる。この古い、しかも堅牢な感じのする寺院を再興したのは、應擧の恩人であり、保護者であり、また友達でもあつたやうな密英上人みつえいしやうにんで、現に見る建物の内部も多くはその意匠になつたものであるといふ。あいにく今の住職の留守の時であつた。部屋の片隅に机を置いて繪葉書などを賣る若僧が私達に茶をすゝめてくれた。私達は應擧の畫を見て囘るよりも、庭から好い風の通つてくるところで涼む方が先だつた。

 大乘寺には、私達より先に自動車で着いた一組の老夫婦があつた。二人とももう好い年配で、どこか遠方からでもこの山陰見物に出かけて來たらしい。しばらく私達と同じ廣間に居て、若僧がすゝめる茶を飮みながら休んでゐた。こんなに年をとつてから夫婦してこの世を歩いてゐる人達もある。同棲後十年、今また同行二人の巡禮者の姿であるともいひたい。思ひ出の深い旅かと見えて、互ひにいたはるさまも眼をとめて見る氣になつた。案内するものもその人達の側についてゐて、寺の繪葉書などを取りよせて見てゐる樣子だ。旅で旅人に逢ふ。私としてはその心が深い。私は旅人が旅人を眺めるやうにその老夫婦を眺めて、話好きな伊藤君達を相手に自分等の汗の沈まるまで待つた。やがて老夫婦は私達にちよつと會釋した後で、一歩ひとあしさきに寺のなかを見て囘つてゐた。
 この大乘寺に來て、私も心ひかれたことがいろ/\ある。この寺の内部が、應擧の畫で飾られるまでには、かなりの長い時がかゝつたらうといふことは、その一つである。昔の大名や金持の保護からでなしに、密英上人のやうな藝術を愛した坊さんがあつて、その人の心からこの寺に保存されてあるやうな應擧の作品の生れて來たといふことは、その一つである。こゝには應擧の作品ばかりでなく、彼の友達の畫もあり、彼の弟子達の繪もあつて、圓山派一門の美術家の親しみがいかにもよく感じられるといふことも、その一つである。應擧はその若く貧しかつた時代に密英上人から寄せられた厚意と友情とを忘れないで、呉春、蘆雪、源埼、その他の弟子達を伴ひ、京都から但馬までの山坂を越えて、二度までもこの寺の壁、襖、屏風などを描きに來たといふ。おそらく、この大乘寺の位置が京都か奈良の附近にでもあるとしたら、もつと廣くも世に知られてゐたらう。さういふ私なども半生の旅の多くは關東方面に限られてゐて、この年になるまで大乘寺の名さへも聞かなかつた。かういふ寺を山陰道の田舍に置いて考へることも、しかし樂しい。應擧の作品についても、私は今日まで僅かしか知る機會を持たなかつたが、來て見て動かされた。
 この寺の内部は、佛殿を中心にした十一の部屋と、それに附屬した二つの部屋と、別に二階にある二つの部屋とから成り立つ。そのうちの十三の部屋が圓山派一門の畫で滿たされてゐる。寺としての設計も、簡素ではあるが、かなり大きい。私達は佛殿を前にして孔雀の間に行つて、應擧の畫の前に立つて見た。そこは二十五疊からの大廣間で、十六枚の襖が一つの大きな構圖のもとにまとめてある。黒と金との強い調和だ。寺の一隅にあたる芭蕉の間へも行つて立つて見た。十二疊半の部屋で、八枚の襖に郭子儀くわくしぎのやうな支那風の人物と、芭蕉のもとに嬉戲する子供等のさまとが描いてある。そこには緑と金との柔かな調和が見られるばかりでなく、何となくひろ/″\とした藝術家の心までが感じられる。その隣にはまた二十五疊半といふ一番廣い部屋があつて、應擧の山水の圖の前へも行つて立つて見た。その部屋の片隅によせて、ふくろだなが造りつけてあつて、枇杷、葡萄などの靜物を描いた四枚の小襖も私達の心をひいた。昔の藝術家はいかによく自然を見たことか、あの鯉の圖などで應擧の寫生といふものを單純に想像してゐた私は、その日頃の考へ方を改めなければならないやうに思つた。
 好いものを見た。その樂しい旅の心持で大乘寺を辭した頃は、約束しておいた自動車が容易にやつて來なかつた。私達は寺の前にあつた煙草屋の縁臺をかりて、自分等のくゞつて來た山門、降りて來た石段、それから石垣の前の果樹や野菜の畑の見えるところで、やゝしばらく自動車のくるのを待つた。そこいらには村の子供達が集まつて來て、私達の周圍で遊び戲れてゐた。
「御覽。あの應擧の描いた子供は、何となくこの邊の子供に似てるぢやないか。」
 といつて私は鷄二を笑はせた。濃い眉、廣い眉間みけん、やゝあがり氣味の眼尻、それから豐かな頬――私がそこいらに近く見つける小娘などの面ざしは、やがてあの芭蕉の間で、應擧の畫に見つけたと似通ふもののやうでもある。これは藝術が私達の上に働きかける力か。私は應擧の眼を通して、いつの間にかその邊に遊んでゐる村の子供までも見ようとするやうになつたのか。あのイタリーを旅するものには、ゆく先にラフアエルのマドンナを見つけるといふやうに、ちやうど私はそれに似たものであつたかも知れない。いづれにしても、私は應擧の作品と、彼に縁故の深かつたといふこの邊りの環境とを結びつけて、何となくその關係を讀み得たやうに思つた。同行の伊藤君は、この邊の海岸に多い岩や松が應擧の筆そのまゝであることを私に話しきかせてくれたが、この人の眼もまた、應擧が見たやうにしかこのあたりの自然を見ることが出來なくなつたのかも知れない。話し好きな伊藤君に比べると、同君の連れはまた正反對な沈默家だつた。その人は私達と一緒に香住の停車場を乘つてくる時から、自動車で別れるまで、ほとんど默りつゞけてゐた。

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