十六
お小姓姿の美しい者が眼に涙を浮めまして、 女「貴方まア私から幾許お文を上げましても一度もお返辞のないのはあんまりだと存じます、貴方はもう亀井戸の事をお忘れ遊ばしたか、私はそればっかり存じて居りますけれども、掟が厳しいのでお目通りを致すことも出来ませんでしたが、今晩は宜い間にお目に懸れました」 春「他に知れてはならんが、今夜は雪が降って来たので、廻りの者も自然役目を怠って、余りちょん/\叩いて廻らんようだが、先刻ちょいと合図をしたから、ひょっと出て来ようと存じてまいったが、此の事が伯父に知れた日にア実に困るから、他に知れんようにして私も会いたいと思うから、来年三月宿下りの折に、又例の亀井戸の巴屋で緩くり話を致しましょう」 女「宿下の時と仰しゃっても、本当に七夕様のようでございますね、一年に一度しきゃアお目通りが出来ないのかと思いますと、此の頃では貴方の夢ばかり見て居りますよ、私は思いの儘なことを書いて置きましたから、これを篤くり見て下されば分りましょう、私の身にかゝる事がございますからお持ち遊ばせ」 と渡す途端に後から突然に大声で、 大「火の廻り」 という。二人は恟り致しまして、後へ退き、女は慌てゝ開き戸を締めて奥へ行く。彼の春部という若侍も同じく慌てゝお馬場口の方へ遁げて行く。大藏は密と後へ廻って、三尺の開戸を見ますと、慌てゝ締めずにまいったから、戸がばた/\煽るが、外から締りは附けられませんから石を支って置きまして、独言に、 大「困ったな、女が手紙を出したようだが、男の方で取ろうという処を、己が大きな声で呶鳴ったから、驚いたものか文を落して行った、これは宜い物が手に入った」 と懐へ入れて詰所へ帰り、是から同役と交代になります。 大「此の手紙をいつぞは用に立てよう」 と待ちに待って居りました。彼の春部というものは、お小姓頭を勤め十五石三人扶持を領し、秋月の甥で、梅三郎という者でございます。お目附の甥だけに羽振が宜しく、お父さまは平馬という。梅三郎は評判の美男で、婀娜な、ひんなりとした、芝居でいたせば家橘か上りの菊の助でも致しそうな好男で、丁度其の月の二十八日、春部梅三郎は非番のことだから、用達し旁々というので、根津の下屋敷を出まして、上野の広小路で買物をいたし、今山下の袴腰の方へ掛ろうとする後から、松蔭大藏が声をかけ 大「もし/\春部さま/\」 梅「あい、これは大藏殿かえ」 大「へえ、今日は好いお天気になりました、お非番でげすか」 梅「あゝ幸い非番ゆえ浅草へでもまいろうかと思う」 大「へえ私も今日は非番で、ま別に知己もありませんし、未だ当地の様子も不慣でございますから、道を覚えて置かなければなりません、切めて小梅のお中屋敷へまいる道だけでも覚えようと存じて、浅草から小梅の方へまいろうと存じまして、実は頼合せてまいりました」 梅「然うかえ、三作はお前の相役だね」 大「へえ左様でござります、えゝ春部さま、貴方少々伺いたい儀がござりますが、決してお手間は取らせませんから、あの無極庵(有名の蕎麦店)まで、えへ貴方少々御馳走に差上げるというは甚だ御無礼な儀でござりますが、一寸伺いたい儀がござりますから、お急ぎでなければ無極の二階までおいでを願います」 梅「別に急ぎも致さんが、何か馳走をされては困ります、お前は大分下役の者へ馳走をして振舞うという噂があるが余り新役中に華美な事をせんが宜いと伯父も心配しています」 大「へえ、毎度秋月さま渡邊さまのお引立に因りまして、不肖の私が身に余る重役を仰付けられ、誠に有難いことで決してお手間は取らせませんから」 梅「いや又にいたそう」 大「どうか甚だ御無礼でございますが何卒願います、少々お屋敷の御家風の事に就て伺いたい儀がございます」 梅「左様か」 と素より温厚の人でございますから、強ってと云うので、是から無極の二階へ通りました。追々誂物の肴が出てまいりましたから、 大「女中今少しお話し申す事があるから、誰も此処へ参らんようにしてくれ、用があれば手を拍って呼ぶから」 女中「はい、左様なれば此処を閉めましょうか」 大「いや、それは宜しい……えゝお急ぎの処をお引留め申して何とも恐入りました」 梅「あい何だえ、私に聞きたい事というのは」 大「えゝ、外でもござりませんが、お屋敷の御家風に就て伺いたい儀がござる、それと申すも拙者は何事も御家風を心得ません不慣の身の上にて、斯様な役向を仰付けられ、身に余りて辱けない事と存じながら、慾には限りのないもので、何の様にも拙者身体の続くだけは御奉公致します了簡なれども、上役のお引立が無ければ迚も新参者などは出世が出来ません、渡邊殿は別段御贔屓を下さいますが、貴方の伯父御さまの秋月さまは未だ染々お言葉を戴きました事もないゆえ、大藏疾より心懸けて居りますが、手蔓はなし、拠なく今日迄打過ぎましたが、春部様からお声がゝりを願い、秋月様へお目通りを願いまして、お上へ宜しくお執成を願いますれば拙者も慾ばかりではござらん、先祖へ対して此の上ない孝道かと存じますで、どうぞ伯父上へ貴方様から宜しく御推挙を願いたい」 梅「いや、それはお前無理だ、よく考えて見なさいお前は何か腕前が善いとか文道にも達して居るとか、又品格といい応対といい、立派な侍の胤だけあって流石だと家中の評も宜しいが、何ぞ功がなければ出世は出来ん、其の功と云うは他に勝れた事があるとか、或は屋敷に狼藉でも忍入った時に取押えたとか何かなければ迚もいかんが、如何に伯父甥の間柄でも、伯父に頼んで無理にあゝしてくれ、斯うしてくれと云っては依怙の沙汰になって、それでは伯父も済まん訳だから、然ういう事で私を此処へ呼び寄せて、お前が馳走をして引立を願うと云って、酒などを飲ましてくれちゃ誠に困る、斯様な事が伯父に知れると叱られますから御免……」 と云い棄てゝ立上る袖を押えて、 大「暫くお待ちを……此の身の出世ばかりでなく、斯く申す大藏も聊かお屋敷へ対して功がござる、それゆえ強いて願いますわけで」 梅「功が有れば宜しい、何ういう功だ」 大「愚昧の者にて何事も分りませんが、お屋敷の御家風は何ういう事でござろうか、罪の軽重を心得ませんが、先ず御家中内に罪あるものがござります時に、重き罪を軽く計らう方が宜しいか、罪は罪だから其の悪事だけの罪に罰するが宜しいか、私心得のために承知をして置きとうござる」 梅「それは罪を犯したる者の次第にも因りましょうけれども、上たる者は下の者の罪は減じ得られるだけ軽くして、命を助けんければならん」 大「それは然うあるべき事で、若し貴方の御家来が貴方に対して不忠な事を致しまして、手討に致すべき奴を手討にせんければならん時、手討に致した方が宜しいか、但しお助けなすって門前払いにいたし、永のお暇を出された方がお宜しいか」 梅「其様な事は云わんでも知れて居る、斬る程の罪を犯し、斬るべきところを助け、永の暇と云って聊か手当をいたして暇を遣わす、是が主従の情というもので、云うに云われん処が有るのじゃ」
十七
大藏は感心した風をして聞き了り、 大「成程甚だ恐入りますが、殿様も誠に御仁慈厚く、また御重役方も皆真に智仁のお方々だという事を承わって居りますが、拙者はな、お屋敷内に罪あるもので、既にお手討にもなるべき者を助けました事が一廉ございます、此の廉を以てお執成を願います」 梅「むゝ、何ういう理由で、人は誰だね」 大「えゝ疾より此の密書が拙者の手に入って居りますが、余人に見せては相成らんと、貴方の御心中を看破って申し上げます、どうか罪に陥らんようにお取計いを願いとうござる」 梅「何だ、密書と云えば容易ならん事だ」 と手に取って見て驚きましたも道理で、いつぞや若江から自分へ贈った艶書であるから、かっと赤面致しましたが、色の白い人が赧くなったので、そりアどうも牡丹へ電灯を映けたように、どうも美しい好い男で、暫く下を向いて何も云えません。大藏少し膝を進ませまして、 大「是は私の功かと存じます、此の功によってお引立を願いとう存じます、只出世を致したいばかりではないが、拙者前に津山に於て親父は二百四十石領りました、松蔭大之進の家に生れた侍の胤、唯今ではお目見得已上と申しても、お通り掛けお目見えで、拙者方では尊顔を見上ぐる事も出来ませんから、折々お側へ罷出でお目通りをし尊顔を見覚えるように相成りたいで」 梅「いや伯父に宜く然う云いましょう、秋月に宜く云えば心配有りません、屹度伯父に話をします、貴公の心掛けを誠に感心したから」 大「それは千万辱けない、其のお言葉は決して反故には相成りますまい」 梅「武士に二言はありません」 大「へえ辱けない」 春部梅三郎は真っ赤に成って、彼の文を懐に入れ其の儘表へ駈出すを送り出し、広小路の方へ行く後姿を見送って、にやりと苦笑いをしたは、松蔭大藏という奴、余程横着者でございます。扨其の歳の暮に春部梅三郎が何ういう執成しを致しましたか、伯父秋月へ話し込むと、秋月が渡邊織江の処へまいりまして相談致すと、素より推挙致したのは渡邊でございますが、自分は飛鳥山で大藏に恩になって居りますから、片贔屓になるようで却って当人のためにならんからと云って、扣え目にして居りますと、秋月の引立で御前体へ執成しを致しましたから、急に其の暮松蔭大藏は五十石取になり、御近習お小納戸兼勤を仰付けられました。御部屋住の前次様のお附き元締兼勤を仰付けられました。此の前次様は前申し述べました通り、武張ったお方で武芸に達した者を手許に置きたいというので、御当主へお願い立でお貰い受けになりましたので、お上邸と違ってお長家も広いのを頂戴致す事になり、重役の気受けも宜しく、男が好って程が善いから老女や中老までも誉めそやし、 ○「本当にえらいお人で、手も能く書く、力も強く、他は否に諂うなどと申すが、然うでない、真実愛敬のある人で、私が此の間会った時にこれ/\云って、彼は誠の侍でどうも忠義一途の人であります」 と勤務が堅いから忽ち評判が高くなりました。乃で有助という、根岸にいた時分に使った者を下男に致しまして、新規に林藏という男を置きました。これは屋敷奉公に慣れた者を若党に致しましたので、また男ばかりでは不自由だから、何ぞ手許使や勝手許を働く者がなければなりませんから、方々へ周旋を頼んで置きますと、渡邊織江の家来船上忠助という者の妹お菊というて、もと駒込片町に居り、当時本郷春木町にいる木具屋岩吉の娘がありました。今年十八で器量はよし柔和ではあり、恩人織江の口入でありますから、早速其の者を召抱えて使いました。大藏は物事が行届き、優しくって言葉の内に愛敬があって、家来の麁相などは知っても咎めませんから、家来になった者は誠に幸いで、屋敷中の評判が段々高くなって来ました。折しも殿様が御病気で、次第に重くなりました。只今で申しますと心臓病とでも申しますか、どうも宜しくない事がございます。只今ならば空気の好い処とか、樹木の沢山あります処を御覧なすったら宜かろうというので、大磯とか箱根とかへお出でが出来ますが、其の頃では然うはまいりません。然るに奥様は松平和泉守さまからお輿入れになりましたが、四五年前にお逝去になり、其の前から居りましたのはお秋という側室で、これは駒込白山に住む山路宗庵と申す町医の娘を奥方から勧めて進ぜられたので、其の頃諸侯の側室は奥様から進ぜらるゝ事でございますが、今は然ういう事はないことで、旦那様が妾を抱えようと仰しゃると、少しつんと遊ばしまして、私は箱根へ湯治に往きますとか何とか仰しゃいますが其の頃は固いもので、奥様の方から無理に勧めて置いたお秋様が挙けました若様が、お三歳という時に奥様がお逝去れになりましたから、お秋様はお上通りと成り、お秋の方という。側室が出世をいたしますと、お上通りと成り、方名が附きます。よく殿方が腹は借物だ良い胤を下す、只胤を取るためだと軍鶏じゃア有るまいし、胤を取るという事はありません造化機論を拝見しても解って居りますが、お秋の方は羽振が宜しいから、御家来の内二派に分れ、若様の方を贔屓いたすものと、御舎弟前次様を贔屓いたす者とが出来て、お屋敷に騒動の起ることは本にもあれば義太夫にも作って有ります。前次様は通称を紋之丞さまと仰せられ、武張った方で、少しも色気などは無く、疳癖が起るとつか/\/\と物を仰しゃいます。お秋の方も時としては甚く何か云われる事があり、御家来衆も苛く云われるところから、 甲「紋之丞様を御相続としては御勇気に過ぎて実に困る、あの疳癖では迚も治らん、勇ばかりで治まるわけのものではない、殿様は御病身なれば、万一お逝去になったらお秋殿のお胤の若様を御相続とすればお屋敷は安泰な事である」 とこそ/\若様附の御家来は相談をいたすとは悪いことでございますが、紋之丞様を無い者に仕ようという、ない者というのは殺してしまうと云うので、昔はよく毒薬を盛るという事がありました。随分お大名にありました話で、只今なればモルヒネなどという劇剤もありますが、其の時分には何か鴆毒とか、或は舶来の 石ぐらいのところが、毒の劇しいところです。彼の松蔭大藏は智慧が有って、一家中の羽振が宜くって、物の決断は良し、彼を抱込めば宜いと寺島兵庫と申す重役が、松蔭大藏を抱込むと、松蔭は得たりと請合って、 大「十分事を仕遂せました時には、どうか拙者にこれ/\の望がございますが、お叶え下さいますか」 寺「委細承知致した、然らば血判を」 大「宜しい」 と是から血を出し、我姓名の下へ捺すとは痛い事をしたもので、ちょいと切って、えゝと捺るので、忌な事であります。只今は血を見る事をお嫌いなさるが、其の頃は動ともすれば血判だの、迚も立行が出来んから切腹致すの、武士道が相立たん自殺致すなどと申したもので、寺島松蔭等の反逆も悉皆下組の相談が出来て、明和の四年に相成りました。其の年の秋までに謀策を仕遂せるのに一番むずかしいものは、浮舟という老女で年は五十四で、男優りの尋常ならんものが属いて居ります。此者を手に入れんければなりません。此者と物堅い渡邊織江の両人を何うかして手に入れんけりゃアならんが、これ/\と渡邊に打明けていう訳にはいかずと、云えば直に殺されるか、刺違えて死兼ぬ忠義無類の極頑固な老爺でございますから、これを亡いものにせんけりアなりません。
十八
老女も中々の才物ではございますが、女だけに遂に大藏の弁舌に説附けられました。此の説附けました事は猥褻に渉りますから、唯説附けたと致して置ましょう。扨て此の一味の者がいよ/\毒殺という事に決しまして、毒薬調合の工夫は有るまいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、何処となく湿気ますので、季候が不順のところから、流行感冐インフルエンザと申すような悪い病が流行って、人が大層死にましたところが、お扣の前次様も矢張流行感冐に罹られました処、段々重くなるので、お医者方が種々心配して居りますが、勇気のお方ゆえ我慢をなすって押しておいでので[#「おいでなので」の誤記か]いけません、風邪を押損なったら仕方がない、九段坂を昇ろうとする荷車見たように後へも前へも往けません。とうとう藤本の寄席へ材木を押込むような事が出来ます。こゝで大藏がお秋の方の実父山路宗庵は町医でこそあれ、古方家の上手でありますから、手に手を尽して山路をお抱えになすったら如何と申す評議になりますと、秋月は忠義な人でございますから、それは怪しからん事、他から医を入れる事は容易ならん事にて、お薬を一々毒味をして差上げる故に、医は従来のお医者か然も無くば匙でも願うが宜いと申して承知致しませんから、如何致したら宜かろうと思っていました。すると九月十日に、駒込白山前に小金屋源兵衞という飴屋があります、若様のお少さい時分お咳が出ますと水飴を上げ、又はお風邪でこん/\お咳が出ると水飴を上ります。こゝで神原五郎治と神原四郎治兄弟の者と大藏と三人打寄り、額を集め鼎足で談を致しました時に、人を遠ざけ、立聞きを致さんように襖障子を開広げて、向うから来る人の見えるようにして、飴屋の亭主を呼出しました。 源「えゝ今日お召によって取敢ず罷り出ました、御殿へ出ます心得でありましたが、御当家さまへ出ました」 大「いや/\御殿では却って話が出来ん、其の方例の係り役人に遇っても、必らず当家へ来たことを云わんように」 源「へえ畏まりました、此の度は悪い疫が流行り、殿様には続いてお加減がお悪いとか申すことを承わりましたが、如何で」 大「うん、どうもお咳が出てならん」 源「へえ、へい/\、それははや何とも御心配な儀で……今日召しましたのは何ういう事ですか、何うか飴の御用向でも仰付けられますのでございますか[#「ございますか」は底本では「こざいますか」]」 大「神原氏貴公から発言されたら宜しゅうござろう」 神「いや拙者は斯ういう事を云い出すは甚だいかん、どうか貴公から願いたい、斯う云う事は松蔭氏に限るね」 大「拙者は誠に困る、えゝ源兵衞、其の方は御当家へ長らく出入をするが、御当家さまを大切に心得ますかえ」 源「へえ決して粗略には心得ません、大切に心得て居ります」 大「ムヽウ、御当家のためを深く其の方が思うなら、江戸表の御家老さま、又此の神原五郎治さま、渡邊さま、此の四郎治さま、拙者は新役の事ではあるが此の事に就てはお家のためじゃからと云うので、種々御相談があった、始めは拙者にも分りません所があったが、だん/\重役衆の意見を承わって成程と合点がゆき、是はお家のためという事を承知いたしたのだ」 源「へえ、どうも然ういう事は町人などは何も弁えのありません事でございまして、へえ何ういう事が御当家さまのお為になりますので」 大「他でもないが上が長らく御不例でな、お医者も種々手を尽されたが、遠からずと云う程の御重症である」 源「へえ何でげすか、余程お悪く在っしゃいますんで」 大「大きな声をしては云えんが、来月中旬までは保つまいと医者が申すのじゃ」 源「へえ、どうもそれはおいとしい事で、お目通りは致しませんが、誠に手前も長らく親の代からお出入りを致しまして居りますから、誠に残念な事で」 大「うむ、就ては上がお逝去になれば、貴様も知っての通り奥方もお逝去で、御順にまいれば若様をというのだが、まだ御幼年、取ってお四歳である、余りお稚さ過ぎる、併しお胤だから御家督御相続も仔細はないが、此の事に就て其の方に頼む事があるのだ、お家のため且容易ならん事であるから、必ず他言をせん、何の様な事でもお家のためには御意を背きますまい、という決心を承知せん中は話も出来ん、此の事に就いては御家老を始め、こゝにござる神原氏我々に至るまで皆血判がしてある、其の方も何ういう事があっても他言はせん、御意に背くまいという確とした証拠に、是へ血判をいたせ」 源「へえ血判と申しますは何ういたしますので」 大「血で判をするから血判だ」 源「えゝ、それは御免を蒙ります、中々町人に腹などが切れるものではございません」 大「いや、腹を切ってくれろというのではない」 源「でも私は見た事がございます、早野勘平が血判をいたす時、臓腑を引出しましたが、あれは中々町人には」 大「いや/\腹を切る血判ではない、爪の間をちょいと切って、血が染んだのを手前の姓名の下へ捺すだけで、痛くも痒くもない」 源「へえ何うかしてさゝくれや何かを剥くと血が染みますことが……ちょいと捺せば宜しいので、私は驚きました、勘平の血判かと思いまして、然ういう事がお家のおために成れば何の様な事でもいたします」 大「手前は小金屋と申すが、苗字は何と申す」 源「へえ、矢張小金と申します」 と云うを神原四郎治が筆を執りて、料紙へ小金源兵衞と記し、 大「さア、これへ血判をするのだ、血判をした以上は御家老さま始め此の方等と其の方とは親類の間柄じゃのう」 源「へえ恐入ります、誠に有難いことで」 大「のう、何事も打解けた話でなければならん、其の代り事成就なせば向後御出入頭に取立てお扶持も下さる、就てはあゝいう処へ置きたくないから、広小路あたりへ五間々口ぐらいの立派な店を出し、奉公人を多人数使って、立派な飴屋になるよう、御家老職に願って、金子は多分に下りよう、千両までは受合って宜しい」 源「へえ……有難いことで、夢のようでございますな、お家のためと申しても、私風情が何のお役にも立ちませんが、それでは恐入ります、いえ何様な事でも致します、へえ手や指ぐらいは幾許切っても薬さえ附ければ直に癒りますから宜しゅうございます、なんの指ぐらいを切りますのは」 とちょいと其の頃千両からの金子を貰って、立派な飴屋になるというので嬉しいから、指の先を切って血判をいたし、 源「何ういう御用で」 大「さ、こゝに薬がある」 源「へえ/\/\」 大「貴様は、水飴を煮るのは余程手間のかゝったものかのう」 源「いえ、それは商売ですから直に出来ますことで」 大「どうか職人の手に掛けず、貴様一人で上の召上るものだから練れようか」 源「いえ何ういたしまして、年を老った職人などは攪廻しながら水涕を垂すこともありますから、決して左様なことは致させません、私が如何ようにも工夫をいたします」 大「それでは此の薬を練込むことは出来るか」 源「へえ是は何のお薬で」 大「最早血判致したから、何も遠慮をいたすには及ばんが、一大事で、お控えの前次様は御疳癖が強く、動もすれば御家来をお手討になさるような事が度々ある、斯様な方がお世取に成れば、お家の大害を惹出すであろう、然る処幸い前次様は御病気、殊にお咳が出るから、水飴の中へ此の毒薬を入れて毒殺をするので」 源「え……それは御免を蒙ります」 大「何だ、御免を蒙るとは……」 源「何だって、お忍びで王子へ入らっしゃる時にお立寄がありまして、お十三の頃からお目通りを致しました前次様を、何かは存じませんが、私の手からお毒を差上げますことは迚も出来ません」 というと、神原四郎治がキリヽと眦を吊し上げて膝を進めました。
十九
神原「これ源兵衞、手前は何のために血判をいたした、容易ならんことだぞ、お家のためで、紋之丞[#「紋之丞」は底本では「紋之亟」]様が御家督に成れば必らずお家の害になることを存じているから、一家中の者が心配して、此の通り役柄をいたす侍が頼むのに、今となって否だなどと申しても、一大事を聞かせた上は手討にいたすから覚悟いたせ」 源「ど、何卒御免を……お手討だけは御勘弁を……」 大「勘弁罷りならん、神原殿がお頼みによって、其の方に申聞けた、だが今になって違背されては此の儘に差置けんから、只今手討に致す」 源「へえ大変な事で、私は斯様な事とは存じませんでしたが、大変な事になりましたな、一体水飴は私の処では致しませんへえ不得手なんで」 大「其様な事を申してもいかん」 源「へえ宜しゅうございます」 と斬られるくらいならと思って、不承/\に承知致しました。 大「一時遁れに請合って、若し此の事を御舎弟附の方々へ内通でもいたすと、貴様の宅へ踏込んで必ず打斬るぞ」 源「へえ/\御念の入った事で、是がお薬でございますか、へえ宜しゅうございます」 と宅へ帰って彼の毒薬を水飴の中へ入れて煉って見たが、思うようにいけません、どうしても粉が浮きます、綺麗な処へ 石の粉が浮いて居りますので、 源「幾ら煉てもいけません」 と此の事を松蔭大藏に申しますから、大藏もどうしたら宜かろうと云うので、大藏の家へ山路という医者を呼び飴屋と三人打寄って相談をいたしますと、山路の申すには、是は斑猫という毒を煮込んだら知れない、併し是は私のような町医の手には入りません、なにより効験の強いのは和蘭陀でカンタリスという脊中に縞のある虫で、是は豆の葉に得て居るが、田舎でエゾ虫と申し、斑猫のことで、効験が強いのは煎じ詰めるのがよかろうと申しましたので、なる程それが宜かろうと相談が一決いたし、飴屋の源兵衞と医者の山路を玄関まで送り出そうとする時衝立の蔭に立っていましたのは召使の菊という女中で、これは松蔭が平生目を掛けて、行々は貴様の力になって遣わし、親父も年を老っているから、何時までも箱屋(芸妓の箱屋じゃアありません、木具屋と申して指物を致します)をさせて置きたくない、貴様にはこれ/\手当をして遣ろうという真実に絆されて、表向ではないが、内々大藏に身を任して居ります。是は本当に惚れた訳でもなし、金ずくでもなし、変な義理になったので、大藏も好男子でありますが、此の菊は至って堅い性質ゆえ、常々神原や山路が来ては何か大藏と話をしては帰るのを、案じられたものだと苦にしていたのが顔に出ます。今大藏が衝立の蔭に菊のいたのを認めて恟り致したが、さあらぬ体にて、 大「源兵衞、少し待ちな」 と連戻って、庭口から飴屋を送り出そうとすると、林藏という若党が同じく立って聞いていましたので、再び驚いたが、仕方がないと思い、飴屋を帰してしまったが、大藏は腹の中で菊は船上忠助の妹だから、此の事を渡邊に内通をされてはならん、船上は古く渡邊に仕えた家来で、彼奴の妹だから、こりゃア油断がならん、なれども林藏は愚者だから、林藏から先へ当って調べてみよう。と是から支度を仕替えて、羽織大小で彼の林藏という若党を連れ、買物に出ると云って屋敷を立出で、根津の或る料理茶屋へ昇りましたが、其の頃は主家来のけじめが正しく、中々若党が旦那さまの側などへはまいられませんのを、大藏は己の側へ来いと呼び附けました。 大「林藏、大きに御苦労/\」 林「へえ、何か御用で」 大「いや独酌で飲んでもうまくないから、貴様と打解けて話をしようと思って」 林「恐入りましてございます、何ともはや御同席では……」 大「いや、席を隔てゝは酒が旨くない」 林「こゝでは却って気が詰りますから、階下で戴きとう存じます」 大「いや、酒を飲んだり遊ぶ時には主も家来も共々にせんければいかん、己の苦労する時には手前にも共々に苦労して貰う、これを主従苦楽を倶にするというのだ」 林「へえ、恐入ります、手前などは誠に仕合せで、御当家さまへ上りまして、旦那さまは誠に何から何までお慈悲深く、何様な不調法が有りましても、お小言も仰ゃらず、斯ういう旦那さまは又とは有りません、手前が仕合で、此の間も吉村さまの仁介もお羨ましがっていましたが、私のような不行届の者を目え懸けて下さり何ともはや恐入りやす」 大「いや、然うでない、貴様ア感心な事には正直律義なり、誠に主思いだのう」 林「いえ、旦那様が目え懸けて下せえますから、お互に思えば思わろゝで、そりゃア尊公当然の事て」 大「いや/\然うでない、一体貴様の気象を感服している、これ女中、下物を此処へ、又後で酌をして貰うが、早く家来共の膳を持って来んければならん」 と林藏の前へも同じような御馳走が出ました。 大「のう林藏、是迄しみ/″\話も出来んであったが、今日は差向いで緩くり飲もう、まア一盃酌いでやろう」 林「へえ恐入りました、誠ね有難い事で、旦那さまのお酌で恐入ります」 大「今日は遠慮せずにやれよ」 林「へえ恐入りました、ヒエ/\溢れます/\……有難い事で、お左様なれば頂戴いたします、折角の事だアから誠にはや有難い事で」 大「今日は宜いよ、打解けて飲んでくれ、何かの事に遠慮はあっちゃアいかん、心の儘に飲めよ」 林「ヒエ/\有難い事で」 大「さ己が一盃合をする」 とグーと一盃飲み、又向うへ差し、林藏を酔わせないと話が出来ません。尤も愚だから欺すには造作もない、お菊は船上忠助の妹ゆえ、渡邊織江へ内通を致しはせんかと、松蔭大藏も実に心配な事でございますから、林藏から先へ欺く趣向でござります。林藏は段々宜い心持に酔って来ましたので仮名違いの言語で喋ります。 大「遠慮なしに沢山飲れ」 林「ヒエ有難い事で、大層酩酊致しやした」 大「いや/\まだ酩酊という程飲みやアせん、貴様は国にも余り親戚頼りのないという事を聞いたが、全く左様かえ」 林「ヒエ一人従弟がありやすが、是は死んでしまエたか、生きているか分きやたゝんので、今迄何とも音ずれのない処を見ると、死んでしもうたかと思いやす、実にはや樹から落ちた何とか同様で、心細い身の上でがす」 大「左様か、何うだ別に国に帰りたくもないかえ、御府内へ住って生涯果てたいという志なら、また其の様に目を懸けてやるがのう」 林「ヒエ実に国というたところで、今になって帰りましたところが、親戚もなし、別に何う仕ようという目途もないものですから願わくば此の繁盛る御府内でまア生涯朽果れば、甘え物を喰べ、面白え物を見て暮しますだけ人間の徳だと思えやす、実に旦那さまア御当地で朽果てたい心は充分あります」 大「それは宜しい、それじゃア何うだえ己は親戚頼り兄弟も何も無い、誠に心細い身の上だが、まア幸い重役の引立を以て、不相応な大禄を取るようになって、誠に辱けないが、人は出世をして歓楽の極まる時は憂いの端緒で、何か間違いのあった時には、それ/″\力になる者がなければならない、己が増長をして何か心得違いのあった時には異見を云ってくれる者が無ければならん、乃で中々家来という者は主従の隔てがあって、どうも主人の意に背いて意見をする勇気のないものだが、貴様は何でもずか/\云ってくれる所の気象を看抜いているから、己は貴様と親類になりたいと思うが、何うだ」 林「ヒエ/\恐入ります、勿体至極も……」 大「いや、然うでない、只主家来で居ちゃアいかん、己は百石頂戴致す身の上だから、己が生家になって貴様を一人前の侍に取立ってやろう、仮令当家の内でなくとも、他の藩中でも或は御家人旗下のような処へでも養子に遣って、一廉の武士に成れば、貴様も己に向って前々御高恩を得たから申上ぐるが、それはお宜しくない、斯うなすったら宜かろうと云えるような武士に取立って、多分の持参は附けられんが、相当の支度をしてやるが、何うだ侍になる気はないか」 林「いや、是はどうも勿体ない事でござえます、是はどうもはや、私の様な者は迚もはや武士には成れません」 大「そりゃア何ういう訳か」 林「第一剣術を知りませんから武士にはなれましねえ」 大「剣術を知らんでも、文字を心得んでも立派な身分に成れば、それだけの家来を使って、それだけの者に手紙を書かせなどしたら、何も仔細はなかろう」 林「でござえますが、武士は窮屈ではありませんか、実は私は町人になって商いをして見たいので」 大「町人になりたい、それは造作もない、二三百両もかければ立派に店が出せるだろう」 林「なに、其様には要りませんよ、三拾両一資本で、三拾両も有れば立派に店が出せますからな」 大「それは造作ない事じゃ、手前が一軒の主人になって、己が時々往って、林藏一盃飲ませろよ、雨が降って来たから傘ア貸せよと我儘を云いたい訳ではないが、年来使った家来が出世をして、其の者から僅かな物でも馳走になるは嬉しいものだ、甘く喰べられるものだ」 林「誠に有難い事で」 大「ま、もう一盃飲め/\」 林「ヒエ大層嬉しいお話で、大分酔いました、へえ頂戴いたします、これははや有難いことで……」 大「そこでな、どうも手前と己は主家来の間柄だから別に遠慮はないが、心懸けの悪い女房でも持たれて、忌な顔でもされると己も往きにくゝなる、然うすると遂には主従の隔てが出来、不和になるから、女房の良いのを貴様に持たせたいのう」 林「へえ、女房の良いのは少ねえものでござえます、あの通り立派なお方様でござえますが、森山様でも秋月様でも、お品格といい御器量といい、悪い事はねえが、私ら目下の者がめえりますとつんとして馬鹿にする訳もありやしねえが、届かねえ、お茶も下さらんで」 大「それだから云うのだ、此の間から打明けて云おうと思っていたが、家にいる菊な」 林「ヒエ」 大「彼は手前も知っているだろうが、内々己が手を附けて、妾同様にして置く者だ」 林「えへゝゝゝ、それは旦那さまア、私も知らん振でいやすけれども、実は心得てます」 大「そうだろう、彼はそれ渡邊の家に勤めている船上の妹で、己とは年も違っているから、とても己の御新造にする訳にはいかん、不器量でも同役の娘を貰わなければならん、就ては彼の菊を手前の女房に遣ろうと思うが、気に入りませんかえ、随分器量も好く、心立も至極宜しく、髪も結い、裁縫も能くするよ」 林「ヒエ……冗談ばっかり仰しゃいますな、旦那さまアおからかいなすっちゃア困ります、お菊さんなら好いの好くないのって、から理窟は有りましねえ、彼様な優しげなこっぽりとした方は少ねえもんでごぜえますな」 大「あはゝゝ、何だえ、こっぽりと云うのは」 林「頬の処や手や何かの処がこっぽりとして、尻なぞはちま/\としてなあ」 大「ちま/\というのは小さいのか」 林「ヒエ誠にいらいお方さまでごぜえますよ」 大「手前が嫌いなれば仕方がない、気に入ったら手前の女房に遣りたいのう」 林「ひへゝゝゝ御冗談ばかし」 大「冗談ではない、菊が手前を誉めているよ」 林「尤も旦那様のお声がゝりで、林藏に世帯を持たせるが、女房がなくって不自由だから往ってやれと仰しゃって下さればなア……」 大「己が云やア否というのに極っている何故ならば衾を倶にする妾だから、義理にも彼様な人は厭でございますと云わなければならん、是は当然だ、手前の処へ幾ら往きたいと思っても然ういうに極って居るわ」
二十
林藏はにこ/\いたしまして、 林「成程むゝう」 大「だから、手前さえ宜いと極れば、直接に掛合って見ろい、菊に」 林「是は云えません、間が悪うてとてもはや冗談は云えませんな然うして中々ちま/\としてえて、堅え気性でござえますから、冗談は云えましねえよ、旦那様がお留主の時などは、とっともう苦え顔をして居なせえまして、うっかり冗談も云えませんよ」 大「云えない事があるものか、じゃア云える工夫をしてやろう、こゝで余った肴を折へ詰めて先へ帰れ、己は神原の小屋に用があるから、手前先へ帰って、旦那さまは神原さまのお小屋で御酒が始まって、私だけ先へ帰りました、これはお土産でございますと云って、折を出して、菊と二人で一盃飲めと旦那さまが仰しゃったから、一盃頂戴と斯う云え」 林「成程どうも…併しお菊さんは私二人で差向いでは酒を飲まねえと思いやすよ」 大「それは飲むまい、私は酒を飲まんからお部屋へ往って飲めというだろうから、もし然う云ったら、旦那様が此処で飲めと仰しゃったのを戴きませんでは、折角のお志を無にするようなものだから、私は頂戴いたしますと云って、茶の間の菊がいる側の戸棚の下の方を開けると、酒の道具が入っているから、出して小さな徳利へ酒を入れて燗を附け、戸棚に種々な食物がある、 又は雲丹のようなものもあるから、悉皆出してずん/\と飲んで、菊が止めても肯くな、然うして無理に菊に合をしてくれろと云えば、仮令否でも一盃ぐらいは合をするだろう、飲んだら手前酔った紛れに、私は身を固める事がある、私は近日の内商人に成るが、独身では不自由だから、女房になってくれるかと手か何か押えて見ろ」 林「ひえへゝゝ是はどうも面白え、やりたいようだが、何分間が悪うて側へ寄附かれません」 大「寄附けようが寄附けまいが、菊が何と云うとも構ったことはない、己は四つの廻りを合図に、庭口から窃と忍び込んで、裏手に待っているから、四つの廻りの拍子木を聞いたら、構わず菊の首玉へかじり附け、己が突然にがらりと障子を開けて、不義者見附けた、不義をいたした者は手討に致さねばならぬのが御家法だ、さ両人とも手討にいたす」 林「いや、それは御免を……」 大「いやさ本当に斬るのじゃアない、斬るべき奴だが、今迄真実に事えてくれたから、内聞にして遣わし、表向にすれば面倒だによって、永の暇を遣わす、また菊もそれ程までに思っているなら、町人になれ、侍になることはならんと三十両の他に二十両菊に手当をして、頭の飾身の廻り残らず遣る」 林「成程、有難い、どうも是ははや……併しそれでもいけませんよ、お菊さんが貴方飛んでもない事を仰しゃる、何うしても林藏と私と不義をした覚えはありません、神かけてありません、夫婦に成れと仰しゃっても私は否でござえます、斯んな忌な人の女房にはなりませんと云切ったら何う致します」 大「然うは云わせん、深夜に及んで男女差向いで居れば、不義でないと云わせん強って強情を張れば表向にいたすが何うだ、それとも内聞に致せば命は助けて遣るといえば、命が欲しいから女房になりますと云うだろう」 林「成程、これは恐入りましたな、成程承知しなければ斬ってしまうか、命が惜しいから、そんなればか、どうも是は面白い」 大「これ/\浮れて手を叩くな、下から下婢が来る」 林「ヒエ有難い事で、成程やります」 大「宜いか、其の積りでいろ」 林「ヒエ、そろ/\帰りましょうか」 大「そんなに急なくっても宜い」 林「ヒエ有難い事で」 と是からそこ/\に致して、余った下物を折に入れて、松蔭大藏は神原の小屋へ参り、此方は宜い心持に折を吊さげて自分の部屋へ帰ってまいりまして、にこ/\しながら、 林「えゝい、人間は何処で何う運が来るか分らねえもんだな、畜生彼方へ往け、己が折を下げてるもんだから跡を尾いて来やアがる、もこ彼方へ往け、もこ/\あはゝゝゝ尻尾を振って来やアがる」 下男「いや林藏何処へ往く、なに旦那と一緒に、然うかえ、一盃飲ったなア」 林「然うよ」 下男「それははや、左様なら」 林「あはゝゝゝ何だか田舎漢のいう事は些とも解らねえものだなア、えゝお菊さん只今帰りました」 菊「おや、お帰りかえ、大層お遅いからお案じ申したが、旦那さまは」 林「旦那さまは神原様のお小屋で御酒が始まって、手前は先へ帰れと云いましたから、私だけ帰ってめえりました」 菊「大きに御苦労よ」 林「えゝ、此のお折の中のお肴は旦那様が手前に遣る、菊も不断骨を折ってるから、菊と二人で茶の間で一盃飲めよと云うて、此のお肴を下せえました、どうか此処で旦那さまが毎も召上る御酒を戴きてえもんで」 菊「神原さまのお小屋で御酒が始まったら、またお帰りは遅かろうねえ」 林「えゝ、どうもそれは子刻になりますか丑刻になりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ」 菊「其の折のお肴はお前に上げるから、部屋へ持て往って、お酒も適い程出して緩くりおたべ」 林「ヒエ……それが然うでねえ訳なので」 菊「何をえ」 林「旦那さまの云うにア、手前は茶の間で酒を飲んだ事はあるめえ、料理茶屋で飲ませるのは当然の話だが、茶の間で飲ませろのは別段の馳走じゃ、へえ有難い事でござえますと、斯う礼を云ったような理由で」 菊「如何に旦那さまが然う仰しゃっても、お前がそれを真に受けて、お茶の間でお酒を戴いては悪いよ、私は悪いことは云わないからお部屋でお飲べよ」 林「然うでござえますか、お前さん此処で飲まねえと折角の旦那のお心を無にするようなものだ、此の戸棚に何か有りやしょう、お膳や徳利も……」 菊「お前、そんな物を出してはいけないよ」 林「こゝに と雲丹があるだ」 菊「何だよ、其様なものを出してはいけないよ、あらまア困るよ、お鉄瓶へお燗徳利を入れてはいけないよ」 林「心配しねえでも宜え、大丈夫だよ、少し理由があるだ、お菊さん、ま一盃飲めなせえ、お前今日は平日より別段に美しいように思われるだね」 菊「何だよ、詰らんお世辞なんぞを云って、早くお部屋へ往って寝ておくれ、お願いだから、跡を片附けて置かなければならないから」 林「ま一盃飲めなアよ」 菊「私は飲みたくはないよ」 林「じゃア酌だけして下せえ」 菊[#「菊」は底本では「林」]「お酌かえ、私にかえ、困るねえ、それじゃア一盃切りだよ、さ……」 林「へえ有難え是れは……ひえ頂戴致しやす……有難え、まアまるで夢見たような話だという事さ、お菊さん本当にお前さん、私が此処へ奉公に来た時から、真に思って居るよ」 菊「其様なことを云わずに早く彼方へお出でよ」 林「然う邪魔にせなえでも宜えが、是でちゃんと縁附は極っているからね、知らず/\して縁は異な物味な物といって、ちゃんと極っているからね」 菊「何が縁だよ」 林「何でも宜い、本当ね私が此方へ奉公に来た時始めてお前さんのお姿を見て、あゝ美しい女中衆だと思えました、斯ういう美しい人は何家え嫁付いて往くか、何ういう人を亭主に持ちおると思ってる内に、旦那さまのお妾さまだと聞きやしたから、拠ねえと諦らめてるようなものゝ、寐ても覚てもお前さんの事を忘れたことアないよ」 菊「冗談をお云いでない、忌らしい、彼方へ往ってお寝よ」 林「往きアしない、亥刻までは往かないよ」 菊「困るよ、其様なに何時までもいちゃア、後生だからよ、明日又旨い物を上げるから」 林「何うしてお前さんの喰欠けを半分喰うて見てえと思ってゝも、喰欠けを残した事がねえから、密と台所にお膳が洗わずにある時は、洗った振りをして甜めて、拭いてしまって置くだよ」 菊「穢いね、私ア嫌だよ」 林「それからね、何うかしてお前さんの肌を見てえと思っても見る事が出来ねえ、すると先達て前町の風呂屋が休みで、行水を浴った事がありましたろう、此の時ばかり白い肌が見られると思ってると、悉皆戸で囲って覗く事が出来ねえ、何うかしてと思ってると、節穴が有ったから覗くと、意地の悪い穴よ、斜に上の方へ向いて、戸に大きな釘が出ていて頬辺を掻裂きイした」 菊「オホヽヽ忌だよ」 林「其の時使った糠を貯って置きたいと思って糠袋をあけて、ちゃんと天日にかけて、乾かして紙袋に入れて貯っておいて、炊立の飯の上へかけて喰うだ」 菊「忌だよ、穢い」 林「それから浴った湯を飲もうと思ったが、飲切れなくなって、どうも勿体ねえと思ったが、半分程飲めねえ、三日目から腹ア下した」 菊「冗談を云うにも程がある、彼方へお出でよ、忌らしい」 林「お菊さん、もう亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]かな」 菊「もう直に亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]だよ」 林「亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]ならそろ/\始めねえばなんねえ」 とだん/\お菊の側へ摺寄りました。
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