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菊模様皿山奇談(きくもようさらやまきだん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-7 10:43:59 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


        十六

 お小姓姿の美しい者が眼に涙をうかめまして、
女「貴方まアわたくしから幾許いくらふみを上げましても一度もお返辞のないのはあんまりだと存じます、貴方はもう亀井戸かめいどの事をお忘れ遊ばしたか、私はそればっかり存じて居りますけれども、掟が厳しいのでお目通りを致すことも出来ませんでしたが、今晩はにお目に懸れました」
春「ひとに知れてはならんが、今夜は雪が降って来たので、廻りの者も自然役目を怠って、余りちょん/\叩いて廻らんようだが、先刻さっきちょいと合図をしたから、ひょっと出て来ようと存じてまいったが、此の事が伯父に知れた日にア実に困るから、ひとに知れんようにしてわしも会いたいと思うから、来年三月宿下やどさがりの折に、又例の亀井戸の巴屋ともえやゆっくり話を致しましょう」
女「宿下やどさがりの時と仰しゃっても、本当に七夕様のようでございますね、一年に一度しきゃアお目通りが出来ないのかと思いますと、此の頃では貴方の夢ばかり見て居りますよ、わたくしは思いの儘なことを書いて置きましたから、これをとっくり見て下されば分りましょう、私の身にかゝる事がございますからお持ち遊ばせ」
 と渡す途端にうしろから突然だしぬけに大声で、
大「火の廻り」
 という。二人はびっくり致しまして、あと退き、女はあわてゝ開き戸を締めて奥へく。の春部という若侍も同じく慌てゝお馬場口の方へげて行く。大藏はそっあとへ廻って、三尺の開戸ひらきどを見ますと、慌てゝ締めずにまいったから、戸がばた/\あおるが、外から締りは附けられませんから石をって置きまして、独言ひとりごとに、
大「困ったな、女が手紙を出したようだが、男の方で取ろうという処を、己が大きな声で呶鳴どなったから、驚いたものか文を落して行った、これはい物が手にった」
 と懐へ入れて詰所へ帰り、是から同役と交代になります。
大「此の手紙をいつぞは用に立てよう」
 と待ちに待って居りました。の春部というものは、お小姓頭を勤め十五石三人扶持を領し、秋月のおいで、梅三郎うめさぶろうという者でございます。お目附の甥だけに羽振が宜しく、おとっさまは平馬へいまという。梅三郎は評判の美男びなんで、婀娜あだな、ひんなりとした、芝居でいたせば家橘かきつのぼりの菊の助でも致しそうな好男いゝおとこで、丁度其の月の二十八日、春部梅三郎は非番のことだから、用達ようた旁々かた/″\というので、根津の下屋敷を出まして、上野の広小路で買物をいたし、今山下の袴腰はかまごしの方へ掛ろうとするうしろから、松蔭大藏が声をかけ
大「もし/\春部さま/\」
梅「あい、これは大藏殿かえ」
大「へえ、今日こんにちいお天気になりました、お非番でげすか」
梅「あゝ幸い非番ゆえ浅草へでもまいろうかと思う」
大「へえわたくし今日こんにちは非番で、ま別に知己しるべもありませんし、だ当地の様子も不慣ふなれでございますから、道を覚えて置かなければなりません、めて小梅のお中屋敷へまいる道だけでも覚えようと存じて、浅草から小梅の方へまいろうと存じまして、実は頼合たのみあわせてまいりました」
梅「うかえ、三作さんさくはお前の相役あいやくだね」
大「へえ左様でござります、えゝ春部さま、貴方少々伺いたい儀がござりますが、決してお手間は取らせませんから、あの無極庵むきょくあん(有名の蕎麦店そばや)まで、えへ貴方少々御馳走に差上げるというははなはだ御無礼な儀でござりますが、一寸ちょっと伺いたい儀がござりますから、お急ぎでなければ無極の二階までおいでを願います」
梅「別に急ぎも致さんが、何か馳走をされては困ります、お前は大分だいぶ下役の者へ馳走をして振舞うという噂があるが余り新役中に華美はでな事をせんがいと伯父も心配しています」
大「へえ、毎度秋月さま渡邊さまのお引立にりまして、不肖のわたくしが身に余る重役を仰付けられ、誠に有難いことで決してお手間は取らせませんから」
梅「いや又にいたそう」
大「どうか甚だ御無礼ごむれいでございますが何卒どうぞ願います、少々お屋敷の御家風の事について伺いたい儀がございます」
梅「左様か」
 ともとより温厚の人でございますから、ってと云うので、是から無極の二階へ通りました。追々誂物あつらえものの肴が出てまいりましたから、
大「女中今少しお話し申す事があるから、誰も此処こゝへ参らんようにしてくれ、用があれば手をって呼ぶから」
女中「はい、左様なれば此処を閉めましょうか」
大「いや、それは宜しい……えゝお急ぎの処をお引留め申して何とも恐入りました」
梅「あい何だえ、わしに聞きたい事というのは」
大「えゝ、外でもござりませんが、お屋敷の御家風に就て伺いたい儀がござる、それと申すも拙者は何事も御家風を心得ません不慣ふなれの身の上にて、斯様な役向やくむきを仰付けられ、身に余りてかたじけない事と存じながら、慾には限りのないもので、の様にも拙者身体の続くだけは御奉公致します了簡なれども、上役のお引立が無ければとて新参者しんざんものなどは出世が出来ません、渡邊殿は別段御贔屓を下さいますが、貴方の伯父御さまの秋月さまは未だ染々しみ/″\お言葉を戴きました事もないゆえ、大藏とうより心懸けて居りますが、手蔓はなし、よんどころなく今日こんにち迄打過ぎましたが、春部様からお声がゝりを願い、秋月様へお目通りを願いまして、おかみへ宜しくお執成とりなしを願いますれば拙者も慾ばかりではござらん、先祖へ対して此の上ない孝道かと存じますで、どうぞ伯父上へ貴方様から宜しく御推挙を願いたい」
梅「いや、それはお前無理だ、よく考えて見なさいお前は何か腕前がいとか文道ぶんどうにも達してるとか、又品格といい応対といい、立派な侍のたねだけあって流石さすがだと家中の評も宜しいが、何ぞ功がなければ出世は出来ん、其の功と云うはひとすぐれた事があるとか、あるいは屋敷に狼藉でも忍入しのびいった時に取押えたとか何かなければとてもいかんが、如何に伯父甥の間柄でも、伯父に頼んで無理にあゝしてくれ、斯うしてくれと云っては依怙えこの沙汰になって、それでは伯父も済まん訳だから、ういう事でわし此処これへ呼び寄せて、お前が馳走をして引立ひきたてを願うと云って、酒などを飲ましてくれちゃ誠に困る、斯様な事が伯父に知れると叱られますから御免……」
 と云い棄てゝ立上る袖を押えて、
大「暫くお待ちを……此の身の出世ばかりでなく、く申す大藏もいさゝかお屋敷へ対して功がござる、それゆえいて願いますわけで」
梅「功が有れば宜しい、何ういう功だ」
大「愚昧ぐまいの者にて何事も分りませんが、お屋敷の御家風は何ういう事でござろうか、罪の軽重けいじゅうを心得ませんが、先ず御家中内に罪あるものがござります時に、重き罪を軽く計らう方が宜しいか、罪は罪だから其の悪事だけの罪に罰するが宜しいか、わたくし心得のために承知をして置きとうござる」
梅「それは罪を犯したる者の次第にもりましょうけれども、かみたる者はしたの者の罪は減じ得られるだけ軽くして、命を助けんければならん」
大「それはうあるべき事で、し貴方の御家来が貴方に対して不忠な事を致しまして、手討に致すべき奴を手討にせんければならん時、手討に致した方が宜しいか、但しお助けなすって門前払いにいたし、ながのおいとまを出された方がお宜しいか」
梅「其様そんな事は云わんでも知れて居る、斬る程の罪を犯し、斬るべきところを助け、永の暇と云っていさゝか手当をいたして暇をつかわす、是が主従しゅうじゅうの情というもので、云うに云われん処が有るのじゃ」

        十七

 大藏は感心したふうをして聞きおわり、
大「成程甚だ恐入りますが、殿様も誠に御仁慈ごじんじ厚く、また御重役方も皆しん智仁ちじんのお方々だという事を承わって居りますが、拙者はな、お屋敷ないに罪あるもので、既にお手討にもなるべき者を助けました事が一廉ひとかどございます、此の廉を以てお執成とりなしを願います」
梅「むゝ、何ういう理由わけで、人は誰だね」
大「えゝとうより此の密書が拙者の手に入って居りますが、余人よじんに見せては相成らんと、貴方の御心中を看破みやぶって申し上げます、どうか罪に陥らんようにお取計いを願いとうござる」
梅「何だ、密書と云えば容易ならん事だ」
 と手に取って見て驚きましたも道理で、いつぞや若江から自分へ贈った艶書であるから、かっと赤面致しましたが、色の白い人があかくなったので、そりアどうも牡丹ぼたんへ電灯をけたように、どうも美しいい男で、暫く下を向いて何も云えません。大藏少し膝を進ませまして、
大「是はわたくしの功かと存じます、此の功によってお引立を願いとう存じます、只出世を致したいばかりではないが、拙者ぜんに津山において親父は二百四十石りました、松蔭大之進の家に生れた侍のたね、唯今ではお目見得已上いじょうと申しても、お通り掛けお目見えで、拙者かたでは尊顔を見上ぐる事も出来ませんから、折々お側へ罷出まかりいでお目通りをし尊顔を見覚えるように相成りたいで」
梅「いや伯父にう云いましょう、秋月に宜く云えば心配有りません、屹度きっと伯父に話をします、貴公の心掛けを誠に感心したから」
大「それは千万かたじけない、其のお言葉は決して反故ほごには相成りますまい」
梅「武士に二言はありません」
大「へえ辱けない」
 春部梅三郎は真っ赤に成って、の文を懐に入れ其の儘表へ駈出すを送り出し、広小路の方へ後姿うしろすがたを見送って、にやりと苦笑いをしたは、松蔭大藏という奴、余程横着者でございます。さて其の歳の暮に春部梅三郎が何ういう執成とりなしを致しましたか、伯父秋月へ話し込むと、秋月が渡邊織江の処へまいりまして相談致すと、もとより推挙致したのは渡邊でございますが、自分は飛鳥山で大藏に恩になって居りますから、片贔屓かたびいきになるようでかえって当人のためにならんからと云って、ひかえ目にして居りますと、秋月の引立で御前体ごぜんてい執成とりなしを致しましたから、急に其の暮松蔭大藏は五十石取になり、御近習ごきんじゅう小納戸こなんど兼勤を仰付けられました。御部屋住おへやずみの前次様のお附き元締兼勤を仰付けられました。此の前次様はぜん申し述べました通り、武張ったお方で武芸に達した者を手許に置きたいというので、御当主へお願いたてでお貰い受けになりましたので、お上邸かみやしきと違ってお長家ながやも広いのを頂戴致す事になり、重役の気受けも宜しく、男がよくって程がいから老女や中老までもめそやし、
○「本当にえらいお人で、手もく書く、力も強く、ひといやへつらうなどと申すが、うでない、真実愛敬のある人で、わたくしが此の間会った時にこれ/\云って、彼は誠の侍でどうも忠義一途いちずの人であります」
 と勤務が堅いからたちまち評判が高くなりました。そこで有助という、根岸にいた時分に使った者を下男に致しまして、新規に林藏りんぞうという男を置きました。これは屋敷奉公に慣れた者を若党に致しましたので、また男ばかりでは不自由だから、何ぞ手許使てもとづかい勝手許かってもとを働く者がなければなりませんから、方々へ周旋を頼んで置きますと、渡邊織江の家来船上忠助ふながみちゅうすけという者の妹おきくというて、もと駒込こまごめ片町かたまちに居り、当時本郷ほんごう春木町はるきちょうにいる木具屋岩吉きぐやいわきちの娘がありました。今年十八で器量はよし柔和ではあり、恩人織江の口入くちいれでありますから、早速其の者を召抱えて使いました。大藏は物事が行届ゆきとゞき、優しくって言葉の内に愛敬があって、家来の麁相そそうなどは知ってもとがめませんから、家来になった者は誠に幸いで、屋敷中の評判が段々高くなって来ました。折しも殿様が御病気で、次第に重くなりました。只今で申しますと心臓病とでも申しますか、どうも宜しくない事がございます。只今ならば空気のい処とか、樹木の沢山あります処を御覧なすったら宜かろうというので、大磯とか箱根とかへおでが出来ますが、其の頃ではうはまいりません。しかるに奥様は松平和泉守まつだいらいずみのかみさまからお輿入こしいれになりましたが、四五年ぜんにお逝去かくれになり、其のまえから居りましたのはおあきという側室めかけで、これは駒込白山はくさんに住む山路宗庵やまじそうあんと申す町医の娘を奥方から勧めて進ぜられたので、其の頃諸侯の側室めかけは奥様から進ぜらるゝ事でございますが、今はういう事はないことで、旦那様が妾を抱えようと仰しゃると、少しつんと遊ばしまして、わたくしは箱根へ湯治にきますとか何とか仰しゃいますが其の頃は固いもので、奥様の方から無理に勧めて置いたお秋様がもうけました若様が、お三歳みっつという時に奥様がお逝去かくれになりましたから、お秋様はお上通かみどおりと成り、お秋の方という。側室めかけが出世をいたしますと、お上通りと成り、方名かたなが附きます。よく殿方が腹は借物かりものだ良いたねおろす、只胤を取るためだと軍鶏しゃもじゃア有るまいし、胤を取るという事はありません造化機論ぞうかきろんを拝見しても解って居りますが、お秋の方は羽振が宜しいから、御家来のうち二派ふたはに分れ、若様の方を贔屓ひいきいたすものと、御舎弟前次様を贔屓いたす者とが出来て、お屋敷に騒動の起ることは本にもあれば義太夫にも作って有ります。前次様は通称を紋之丞さまと仰せられ、武張った方で、少しも色気などは無く、疳癖かんぺきが起るとつか/\/\と物を仰しゃいます。お秋の方も時としてはひどく何か云われる事があり、御家来衆もひどく云われるところから、
甲「紋之丞様を御相続としては御勇気に過ぎて実に困る、あの疳癖ではとても治らん、勇ばかりで治まるわけのものではない、殿様は御病身なれば、万一お逝去かくれになったらお秋殿のお胤の若様を御相続とすればお屋敷は安泰な事である」
 とこそ/\若様附の御家来は相談をいたすとは悪いことでございますが、紋之丞様を無い者に仕ようという、ない者というのは殺してしまうと云うので、昔はよく毒薬を盛るという事がありました。随分お大名にありました話で、只今なればモルヒネなどという劇剤もありますが、其の時分には何か鴆毒ちんどくとか、あるいは舶来の※(「譽」の「言」に代えて「石」、第3水準1-89-15)よせきぐらいのところが、毒のはげしいところです。の松蔭大藏は智慧が有って、一家中の羽振が宜くって、物の決断はよいし、彼を抱込めばいと寺島兵庫と申す重役が、松蔭大藏を抱込むと、松蔭は得たりと請合って、
大「十分事を仕遂しおおせました時には、どうか拙者にこれ/\ののぞみがございますが、おかなえ下さいますか」
寺「委細承知致した、しからば血判を」
大「宜しい」
 と是から血を出し、わが姓名の下へすとはひどい事をしたもので、ちょいと切って、えゝとるので、いやな事であります。只今は血を見る事をお嫌いなさるが、其の頃はやゝともすれば血判だの、とて立行たちゆきが出来んから切腹致すの、武士道が相立たん自殺致すなどと申したもので、寺島松蔭の反逆も悉皆すっぱり下組したぐみの相談が出来て、明和の四年に相成りました。其の年の秋までに謀策たくみ仕遂しおおせるのに一番むずかしいものは、浮舟うきふねという老女で年は五十四で、男優おとこまさりの尋常ひとゝおりならんものがいて居ります。此者これを手に入れんければなりません。此者と物堅い渡邊織江の両人を何うかして手に入れんけりゃアならんが、これ/\と渡邊に打明けていう訳にはいかずと、云えばすぐに殺されるか、刺違えて死兼しにかねぬ忠義無類むるいごく頑固かたくな老爺おやじでございますから、これをいものにせんけりアなりません。

        十八

 老女も中々の才物ではございますが、女だけに遂に大藏の弁舌に説附ときつけられました。此の説附けました事は猥褻わいせつわたりますから、唯説附けたと致しておきましょう。て此の一味の者がいよ/\毒殺という事に決しまして、毒薬調合の工夫は有るまいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、何処どことなく湿気ますので、季候が不順のところから、流行感冐はやりかぜインフルエンザと申すような悪い病が流行はやって、人が大層死にましたところが、おひかえの前次様も矢張流行感冐にかゝられました処、段々重くなるので、お医者方が種々いろ/\心配して居りますが、勇気のお方ゆえ我慢をなすって押しておいでので[#「おいでなので」の誤記か]いけません、風邪を押損おしそこなったら仕方がない、九段坂を昇ろうとする荷車見たようにあとへもさきへもけません。とうとう藤本の寄席へ材木を押込むような事が出来ます。こゝで大藏がお秋の方の実父山路宗庵は町医でこそあれ、古方家こほうかの上手でありますから、手に手を尽して山路をお抱えになすったら如何いかゞと申す評議になりますと、秋月は忠義な人でございますから、それはしからん事、他から医を入れる事は容易ならん事にて、お薬を一々毒味をして差上げる故に、医は従来のお医者かも無くばさじでも願うが宜いと申して承知致しませんから、如何いかゞ致したら宜かろうと思っていました。すると九月十日に、駒込白山前に小金屋源兵衞こがねやげんべえという飴屋があります、若様のおちいさい時分お咳が出ますと水飴を上げ、又はお風邪でこん/\お咳が出ると水飴を上ります。こゝで神原五郎治かんばらごろうじ神原四郎治かんばらしろうじ兄弟の者と大藏と三人打寄り、ひたえを集め鼎足みつがなわはなしを致しました時に、人を遠ざけ、立聞きを致さんように襖障子を開広あけひろげて、向うから来る人の見えるようにして、飴屋の亭主を呼出しました。
源「えゝ今日こんにちお召によって取敢とりあえまかり出ました、御殿へ出ます心得でありましたが、御当家さまへ出ました」
大「いや/\御殿ではかえって話が出来ん、其の方いつもの係り役人にっても、必らず当家へ来たことを云わんように」
源「へえかしこまりました、此のたびは悪いやまい流行はやり、殿様には続いてお加減がお悪いとか申すことを承わりましたが、如何いかゞで」
大「うん、どうもお咳が出てならん」
源「へえ、へい/\、それははや何とも御心配な儀で……今日召しましたのは何ういう事ですか、何うか飴の御用向でも仰付けられますのでございますか[#「ございますか」は底本では「こざいますか」]
大「神原うじ貴公から発言はつごんされたら宜しゅうござろう」
神「いや拙者は斯ういう事を云い出すははなはだいかん、どうか貴公から願いたい、斯う云う事は松蔭氏に限るね」
大「拙者は誠に困る、えゝ源兵衞、其の方は御当家へ長らく出入でいりをするが、御当家さまを大切に心得ますかえ」
源「へえ決して粗略には心得ません、大切に心得て居ります」
大「ムヽウ、御当家のためを深く其の方が思うなら、江戸表の御家老さま、又此の神原五郎治さま、渡邊さま、此の四郎治さま、拙者は新役の事ではあるが此の事についてはお家のためじゃからと云うので、種々いろ/\御相談があった、始めは拙者にも分りません所があったが、だん/\重役衆の意見を承わって成程と合点がってんがゆき、是はお家のためという事を承知いたしたのだ」
源「へえ、どうもういう事は町人などは何もわきまえのありません事でございまして、へえ何ういう事が御当家さまのお為になりますので」
大「他でもないがかみが長らく御不例でな、お医者も種々いろ/\手を尽されたが、遠からずと云う程の御重症である」
源「へえ何でげすか、余程お悪くいらっしゃいますんで」
大「大きな声をしては云えんが、来月中旬なかばまでは保つまいと医者が申すのじゃ」
源「へえ、どうもそれはおいとしい事で、お目通りは致しませんが、誠に手前も長らく親の代からお出入りを致しまして居りますから、誠に残念な事で」
大「うむ、ついてはかみがお逝去かくれになれば、貴様も知っての通り奥方もお逝去で、御順ごじゅんにまいれば若様をというのだが、まだ御幼年、取ってお四歳よっつである、余りおちいさ過ぎる、しかしおたねだから御家督御相続も仔細はないが、此の事に就て其の方に頼む事があるのだ、お家のためかつ容易ならん事であるから、必ず他言をせん、の様な事でもお家のためには御意ぎょいそむきますまい、という決心を承知せんうちは話も出来ん、此の事に就いては御家老を始め、こゝにござる神原氏我々に至るまで皆血判がしてある、其の方も何ういう事があっても他言はせん、御意に背くまいというしかとした証拠に、是へ血判をいたせ」
源「へえ血判と申しますは何ういたしますので」
大「血で判をするから血判だ」
源「えゝ、それは御免をこうむります、中々町人に腹などが切れるものではございません」
大「いや、腹を切ってくれろというのではない」
源「でもわたくしは見た事がございます、早野勘平はやのかんぺいが血判をいたす時、臓腑を引出しましたが、あれは中々町人には」
大「いや/\腹を切る血判ではない、爪の間をちょいと切って、血がにじんだのを手前の姓名なまえの下へすだけで、痛くもかゆくもない」
源「へえ何うかしてさゝくれや何かをくと血が染みますことが……ちょいと捺せば宜しいので、わたくしは驚きました、勘平の血判かと思いまして、ういう事がお家のおために成ればの様な事でもいたします」
大「手前は小金屋と申すが、苗字は何と申す」
源「へえ、矢張小金と申します」
 と云うを神原四郎治が筆を執りて、料紙へ小金源兵衞と記し、
大「さア、これへ血判をするのだ、血判をした以上は御家老さま始め此のほうと其の方とは親類の間柄じゃのう」
源「へえ恐入ります、誠に有難いことで」
大「のう、何事も打解けた話でなければならん、其の代り事成就なせば向後こうご御出入頭おでいりがしらに取立てお扶持も下さる、ついてはあゝいう処へ置きたくないから、広小路あたりへ五間々口ごけんまぐちぐらいの立派な店を出し、奉公人を多人数たにんず使って、立派な飴屋になるよう、御家老職に願って、金子きんすは多分にりよう、千両までは受合って宜しい」
源「へえ……有難いことで、夢のようでございますな、お家のためと申しても、わたくし風情がなんのお役にも立ちませんが、それでは恐入ります、いえ何様どんな事でも致します、へえ手や指ぐらいは幾許いくら切っても薬さえ附ければじきなおりますから宜しゅうございます、なんの指ぐらいを切りますのは」
 とちょいと其の頃千両からの金子かねを貰って、立派な飴屋になるというので嬉しいから、指の先を切って血判をいたし、
源「何ういう御用で」
大「さ、こゝに薬がある」
源「へえ/\/\」
大「貴様は、水飴を煮るのは余程手間のかゝったものかのう」
源「いえ、それは商売ですからじきに出来ますことで」
大「どうか職人の手に掛けず、貴様一人でかみの召上るものだかられようか」
源「いえ何ういたしまして、年をった職人などは攪廻かきまわしながら水涕みずッぱなたらすこともありますから、決して左様なことは致させません、わたくし如何いかようにも工夫をいたします」
大「それでは此の薬を練込むことは出来るか」
源「へえ是はなんのお薬で」
大「最早血判致したから、何も遠慮をいたすには及ばんが、一大事で、お控えの前次様は御疳癖が強く、やゝもすれば御家来をお手討になさるような事が度々たび/\ある、斯様な方がお世取よとりに成れば、お家の大害だいがい惹出ひきいだすであろう、しかる処幸い前次様は御病気、ことにお咳が出るから、水飴の中へ此の毒薬を入れて毒殺をするので」
源「え……それは御免をこうむります」
大「なんだ、御免を蒙るとは……」
源「何だって、お忍びで王子へ入らっしゃる時にお立寄がありまして、お十三の頃からお目通りを致しました前次様を、何かは存じませんが、わたくしの手からお毒を差上げますことはとても出来ません」
 というと、神原四郎治がキリヽとまなじりつるし上げて膝を進めました。

        十九

神原「これ源兵衞、手前は何のために血判をいたした、容易ならんことだぞ、お家のためで、紋之丞[#「紋之丞」は底本では「紋之亟」]様が御家督に成れば必らずお家の害になることを存じているから、一家中の者が心配して、此の通り役柄をいたす侍が頼むのに、今となっていやだなどと申しても、一大事を聞かせた上は手討にいたすから覚悟いたせ」
源「ど、何卒どうぞ御免を……お手討だけは御勘弁を……」
大「勘弁まかりならん、神原殿がお頼みによって、其の方に申聞もうしきけた、だが今になって違背いはいされては此の儘に差置さしおけんから、只今手討に致す」
源「へえ大変な事で、わたくしは斯様な事とは存じませんでしたが、大変な事になりましたな、一体水飴は私の処では致しませんへえ不得手なんで」
大「其様そんな事を申してもいかん」
源「へえ宜しゅうございます」
 と斬られるくらいならと思って、不承/\に承知致しました。
大「一時遁いっときのがれに請合うけあって、し此の事を御舎弟附の方々かた/\へ内通でもいたすと、貴様のたくへ踏込んで必ず打斬うちきるぞ」
源「へえ/\御念のった事で、是がお薬でございますか、へえ宜しゅうございます」
 とうちへ帰っての毒薬を水飴の中へ入れてって見たが、思うようにいけません、どうしても粉が浮きます、綺麗な処へ※(「譽」の「言」に代えて「石」、第3水準1-89-15)よせきの粉が浮いて居りますので、
源「幾らねってもいけません」
 と此の事を松蔭大藏に申しますから、大藏もどうしたら宜かろうと云うので、大藏のうちへ山路という医者を呼び飴屋と三人打寄って相談をいたしますと、山路の申すには、是は斑猫はんみょうという毒を煮込んだら知れない、しかし是はわしのような町医の手にははいりません、なにより効験きゝめの強いのは和蘭陀おらんだでカンタリスという脊中せなかに縞のある虫で、是は豆の葉に得て居るが、田舎でエゾ虫と申し、斑猫のことで、効験が強いのは煎じ詰めるのがよかろうと申しましたので、なる程それが宜かろうと相談が一決いたし、飴屋の源兵衞と医者の山路を玄関まで送り出そうとする時衝立ついたての蔭に立っていましたのは召使の菊という女中で、これは松蔭が平生へいぜい目を掛けて、行々ゆく/\は貴様の力になってつかわし、親父も年をっているから、何時いつまでも箱屋(芸妓げいしゃの箱屋じゃアありません、木具屋と申して指物さしものを致します)をさせて置きたくない、貴様にはこれ/\手当をしてろうという真実にほだされて、表向ではないが、内々ない/\大藏に身を任して居ります。是は本当に惚れた訳でもなし、金ずくでもなし、変な義理になったので、大藏も好男子いゝおとこでありますが、此の菊は至って堅い性質ゆえ、常々神原や山路が来ては何か大藏と話をしては帰るのを、案じられたものだと苦にしていたのが顔に出ます。今大藏が衝立の蔭に菊のいたのを認めてびっくり致したが、さあらぬていにて、
大「源兵衞、少し待ちな」
 と連戻って、庭口から飴屋を送り出そうとすると、林藏という若党が同じく立って聞いていましたので、再び驚いたが、仕方がないと思い、飴屋を帰してしまったが、大藏は腹のうちで菊は船上忠助のいもとだから、此の事を渡邊に内通をされてはならん、船上は古く渡邊に仕えた家来で、彼奴あいつの妹だから、こりゃア油断がならん、なれども林藏は愚者おろかものだから、林藏から先へ当って調べてみよう。と是から支度を仕替えて、羽織大小での林藏という若党を連れ、買物に出ると云って屋敷を立出たちいで、根津の或る料理茶屋へあがりましたが、其の頃はしゅう家来のけじめが正しく、中々若党が旦那さまの側などへはまいられませんのを、大藏はおれの側へ来いと呼び附けました。
大「林藏、大きに御苦労/\」
林「へえ、何か御用で」
大「いや独酌ひとりで飲んでもうまくないから、貴様と打解けて話をしようと思って」
林「恐入りましてございます、何ともはや御同席では……」
大「いや、席をへだてゝは酒が旨くない」
林「こゝではかえって気が詰りますから、階下したで戴きとう存じます」
大「いや、酒を飲んだり遊ぶ時にはしゅうも家来も共々にせんければいかん、己の苦労する時には手前にも共々に苦労して貰う、これを主従苦楽をともにするというのだ」
林「へえ、恐入ります、手前などは誠に仕合せで、御当家さまへあがりまして、旦那さまは誠に何から何までお慈悲深く、何様どんな不調法が有りましても、お小言もおっしゃらず、斯ういう旦那さまは又とは有りません、手前が仕合しあわせで、此の間も吉村さまの仁介ねすけもおうらやましがっていましたが、わたくしのような不行届ほよきとゞきの者をえ懸けて下さり何ともはや恐入りやす」
大「いや、うでない、貴様ア感心な事には正直律義なり、誠にしゅう思いだのう」
林「いえ、旦那様がえ懸けて下せえますから、お互に思えば思わろゝで、そりゃア尊公あんた当然あたりめえこって」
大「いや/\然うでない、一体貴様の気象を感服している、これ女中、下物さかな此処これへ、又あとで酌をして貰うが、早く家来共の膳を持って来んければならん」
 と林藏の前へも同じような御馳走が出ました。
大「のう林藏、是迄しみ/″\話も出来んであったが、今日きょうは差向いでゆっくり飲もう、まア一盃いっぱいいでやろう」
林「へえ恐入りました、誠ね有難い事で、旦那さまのおさく恐入おそれえります」
大「今日は遠慮せずにやれよ」
林「へえ恐入おそれえりました、ヒエ/\こぼれます/\……有難い事で、お左様なれば頂戴いたします、折角しっかくの事だアから誠にはや有難い事で」
大「今日はいよ、打解けて飲んでくれ、何かの事に遠慮はあっちゃアいかん、心の儘に飲めよ」
林「ヒエ/\有難い事で」
大「さ己が一盃ひとつあいをする」
 とグーと一盃いっぱい飲み、又向うへ差し、林藏を酔わせないと話が出来ません。もっとおろかだからだますには造作もない、お菊は船上忠助の妹ゆえ、渡邊織江へ内通を致しはせんかと、松蔭大藏も実に心配な事でございますから、林藏から先へあざむく趣向でござります。林藏は段々い心持に酔って来ましたので仮名違いの言語ことばで喋ります。
大「遠慮なしに沢山れ」
林「ヒエ有難い事で、大層酩酊めんてい致しやした」
大「いや/\まだ酩酊めいていという程飲みやアせん、貴様は国にも余り親戚みより頼りのないという事を聞いたが、全く左様かえ」
林「ヒエ一人従弟えとこがありやすが、是は死んでしまエたか、生きているかきやたゝんので、今迄何とも音ずれのない処を見ると、死んでしもうたかと思いやす、ぜつにはやから落ちた何とか同様で、心細い身の上でがす」
大「左様か、何うだ別に国に帰りたくもないかえ、御府内へすまって生涯果てたいという志なら、また其の様に目を懸けてやるがのう」
林「ヒエじつこにというたところで、えまになって帰りましたところが、親戚めよりもなし、びつに何う仕ようという目途みあてもないものですから願わくば此の繁盛さかる御府内でまア生涯朽果こちはてれば、おまえ物をべ、面白おもしろえ物を見て暮しますだけ人間ねんげんの徳だと思えやす、ぜつに旦那さまア御当地こちら朽果こちはてたい心は充分えっぱいあります」
大「それは宜しい、それじゃア何うだえ己は親戚みより頼り兄弟も何も無い、誠に心細い身の上だが、まア幸い重役の引立を以て、不相応な大禄を取るようになって、誠にかたじけないが、人は出世をして歓楽のきわまる時は憂いの端緒いとぐちで、何か間違いのあった時には、それ/″\力になる者がなければならない、己が増長をして何か心得違いのあった時には異見を云ってくれる者が無ければならん、そこで中々家来という者は主従の隔てがあって、どうも主人のこゝろに背いて意見をする勇気のないものだが、貴様は何でもずか/\云ってくれる所の気象を看抜みぬいているから、己は貴様と親類になりたいと思うが、何うだ」
林「ヒエ/\恐入おそれえります、勿体至極も……」
大「いや、うでない、只しゅう家来で居ちゃアいかん、己は百石頂戴致す身の上だから、己が生家さとになって貴様を一人前の侍に取立ってやろう、仮令たとえ当家の内でなくとも、の藩中でもあるいは御家人旗下はたもとのような処へでも養子にって、一廉ひとかどの武士に成れば、貴様も己に向って前々まえ/\御高恩を得たから申上ぐるが、それはお宜しくない、斯うなすったら宜かろうと云えるような武士に取立って、多分の持参は附けられんが、相当の支度をしてやるが、何うだ侍になる気はないか」
林「いや、是はどうも勿体ない事でござえます、是はどうもはや、わしの様な者はとてもはや武士ぼしには成れません」
大「そりゃア何ういう訳か」
林「第一でいいち剣術きんじつを知りませんから武士ぼしにはなれましねえ」
大「剣術けんじゅつを知らんでも、文字を心得んでも立派な身分に成れば、それだけの家来を使って、それだけの者に手紙を書かせなどしたら、何も仔細はなかろう」
林「でござえますが、武士ぼしは窮屈ではありませんか、ぜつわしは町人になって商いをして見たいので」
大「町人になりたい、それは造作もない、二三百両もかければ立派に店が出せるだろう」
林「なに、其様そんなにはりませんよ、三拾両一資本ひともとでで、三拾両も有れば立派に店が出せますからな」
大「それは造作ない事じゃ、手前が一軒の主人になって、己が時々往って、林藏一盃いっぱい飲ませろよ、雨が降って来たから傘ア貸せよと我儘を云いたい訳ではないが、年来使った家来が出世をして、其の者から僅かな物でも馳走になるは嬉しいものだ、うまべられるものだ」
林「誠に有難い事で」
大「ま、もう一盃飲め/\」
林「ヒエ大層嬉しいお話で、大分だいぶいました、へえ頂戴いたします、これははや有難いことで……」
大「そこでな、どうも手前と己は主家来の間柄だから別に遠慮はないが、心懸けの悪い女房でも持たれて、いやな顔でもされると己もきにくゝなる、うするとついには主従しゅうじゅうの隔てが出来、不和ふなかになるから、女房の良いのを貴様に持たせたいのう」
林「へえ、女房の良いのは少ねえものでござえます、あの通り立派なお方様でござえますが、森山様でも秋月様でも、お品格といい御器量といい、悪い事はねえが、わし目下めしたの者がめえりますとつんとして馬鹿にする訳もありやしねえが、届かねえ、お茶も下さらんで」
大「それだから云うのだ、此の間から打明けて云おうと思っていたが、うちにいる菊な」
林「ヒエ」
大「あれは手前も知っているだろうが、内々ない/\己が手を附けて、妾同様にして置く者だ」
林「えへゝゝゝ、それは旦那さまア、わしも知らん振でいやすけれども、じつは心得てます」
大「そうだろう、あれはそれ渡邊のうちに勤めている船上のいもとで、己とは年も違っているから、とても己の御新造ごしんぞにする訳にはいかん、不器量ふきりょうでも同役の娘を貰わなければならん、ついてはの菊を手前の女房にろうと思うが、気に入りませんかえ、随分器量もく、心立こゝろだても至極宜しく、髪も結い、裁縫しごとくするよ」
林「ヒエ……冗談ばっかり仰しゃいますな、旦那さまアおからかいなすっちゃア困ります、おけくさんならいのくないのって、から理窟は有りましねえ、彼様あんな優しげなこっぽりとした方は少ねえもんでごぜえますな」
大「あはゝゝ、何だえ、こっぽりと云うのは」
林「頬の処や手や何かの処がこっぽりとして、尻なぞはちま/\としてなあ」
大「ちま/\というのは小さいのか」
林「ヒエ誠にいらいお方さまでごぜえますよ」
大「手前が嫌いなれば仕方がない、気に入ったら手前の女房に遣りたいのう」
林「ひへゝゝゝ御冗談ばかし」
大「冗談ではない、菊が手前をめているよ」
林「もっとも旦那様のお声がゝりで、林藏に世帯しょたいを持たせるが、女房がなくって不自由だから往ってやれと仰しゃって下さればなア……」
大「己が云やアいやというのに極っている何故ならばふすまともにする妾だから、義理にも彼様あんな人はいやでございますと云わなければならん、是は当然だ、手前の処へ幾らきたいと思ってもういうに極ってるわ」

        二十

 林藏はにこ/\いたしまして、
林「成程むゝう」
大「だから、手前さえいときまれば、直接じかに掛合って見ろい、菊に」
林「是は云えません、が悪うてとてもはや冗談は云えませんなうして中々ちま/\としてえて、かてえ気性でござえますから、冗談は云えましねえよ、旦那様がお留主るすの時などは、とっともうねがえ顔をして居なせえまして、うっかり冗談も云えませんよ」
大「云えない事があるものか、じゃア云える工夫をしてやろう、こゝで余った肴を折へ詰めて先へ帰れ、己は神原の小屋に用があるから、手前先へ帰って、旦那さまは神原さまのお小屋で御酒ごしゅが始まって、わしだけ先へ帰りました、これはお土産みやげでございますと云って、折を出して、菊と二人で一盃いっぱい飲めと旦那さまが仰しゃったから、一盃頂戴と斯う云え」
林「成程どうも…しかしおけくさんはわし二人ほたり差向さしもかいでは酒を飲まねえと思いやすよ」
大「それは飲むまい、わたしは酒を飲まんからお部屋へ往って飲めというだろうから、もしう云ったら、旦那様が此処こゝで飲めと仰しゃったのを戴きませんでは、折角のお志を無にするようなものだから、わしは頂戴いたしますと云って、茶の間の菊がいる側の戸棚の下の方を開けると、酒の道具が入っているから、出して小さな徳利とくりへ酒を入れて燗を附け、戸棚に種々いろ/\食物たべものがある、※(「魚+獵のつくり」、第4水準2-93-92)からすみ又は雲丹うにのようなものもあるから、悉皆みんな出してずん/\と飲んで、菊が止めてもくな、然うして無理に菊にあいをしてくれろと云えば、仮令たとえいやでも一盃ぐらいは合をするだろう、飲んだら手前酔ったまぎれに、わしは身を固める事がある、わしは近日の内商人あきんどに成るが、独身ひとりみでは不自由だから、女房になってくれるかと手か何か押えて見ろ」
林「ひえへゝゝ是はどうも面白おもしろえ、やりたいようだが、何分間が悪うて側へ寄附よりつかれません」
大「寄附けようが寄附けまいが、菊が何と云うとも構ったことはない、己は四つの廻りを合図に、庭口からそっと忍び込んで、裏手に待っているから、四つの廻りの拍子木を聞いたら、構わず菊の首玉くびッたまへかじり附け、己が突然だしぬけにがらりと障子を開けて、不義者ぶぎもの見附けた、不義ふぎをいたした者は手討に致さねばならぬのが御家法だ、さ両人ふたりとも手討にいたす」
林「いや、それは御免を……」
大「いやさ本当に斬るのじゃアない、斬るべき奴だが、今迄真実につかえてくれたから、内聞ないぶんにしてつかわし、表向にすれば面倒だによって、ながいとまを遣わす、また菊もそれ程までに思っているなら、町人になれ、侍になることはならんと三十両の他に二十両菊に手当をして、頭のかざり身の廻り残らずる」
林「成程、有難い、どうも是ははや……しかしそれでもいけませんよ、おけくさんが貴方飛んでもない事を仰しゃる、何うしても林藏とわたくしと不義をした覚えはありません、神かけてありません、夫婦に成れと仰しゃっても私はえやでござえます、んなえやな人の女房にはなりませんと云切いいきったら何う致します」
大「うは云わせん、深夜に及んで男女なんにょ差向いでれば、不義でないと云わせんって強情を張れば表向にいたすが何うだ、それとも内聞に致せば命は助けて遣るといえば、命が欲しいから女房になりますと云うだろう」
林「成程、これは恐入おそれえりましたな、成程承知しなければ斬ってしまうか、えのちが惜しいから、そんなればか、どうも是は面白い」
大「これ/\うかれて手を叩くな、下から下婢おんなが来る」
林「ヒエ有難い事で、成程やります」
大「いか、其の積りでいろ」
林「ヒエ、そろ/\帰りましょうか」
大「そんなにせかなくってもい」
林「ヒエ有難い事で」
 と是からそこ/\に致して、余った下物さかなを折に入れて、松蔭大藏は神原の小屋へ参り、此方こちらい心持に折をぶらさげて自分の部屋へ帰ってまいりまして、にこ/\しながら、
林「えゝい、人間ねんげん何処どこで何うおんるか分らねえもんだな、畜生彼方あっちけ、己が折を下げてるもんだから跡をいてやアがる、もこ彼方へけ、もこ/\あはゝゝゝ尻尾しりっぽを振って来やアがる」
下男「いや林藏れんぞう何処へく、なに旦那と一緒えっしょに、うかえ、一盃えっぺいったなア」
林「然うよ」
下男「それははや、左様なら」
林「あはゝゝゝ何だか田舎漢えなかっぺえのいう事はちゃっとも解らねえものだなア、えゝお菊さん只今帰りました」
菊「おや、お帰りかえ、大層お遅いからお案じ申したが、旦那さまは」
林「旦那さまは神原様のお小屋で御酒ごしゅが始まって、手前は先へ帰れと云いましたから、わしだけ帰ってめえりました」
菊「大きに御苦労よ」
林「えゝ、此のお折の中のお肴は旦那様が手前に遣る、けくも不断骨を折ってるから、けくと二人で茶の間で一盃いっぱい飲めよと云うて、此のお肴をこだせえました、どうか此処こゝで旦那さまがいつも召上る御酒をえたゞきてえもんで」
菊「神原さまのお小屋で御酒が始まったら、またお帰りは遅かろうねえ」
林「えゝ、どうもそれは子刻こゝのつになりますか丑刻やつになりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ」
菊「其の折のお肴はお前に上げるから、部屋へて往って、お酒もい程出してゆっくりおたべ」
林「ヒエ……それがうでねえ訳なので」
菊「何をえ」
林「旦那さまの云うにア、手前は茶の間で酒を飲んだ事はあるめえ、料理茶屋で飲ませるのは当然あたりめえの話だが、茶の間で飲ませろのは別段の馳走じゃ、へえ有難い事でござえますと、斯う礼を云ったような理由わけで」
菊「如何いかに旦那さまが然う仰しゃっても、お前がそれをに受けて、お茶の間でお酒を戴いては悪いよ、私は悪いことは云わないからお部屋でおべよ」
林「然うでござえますか、おめえさん此処こゝで飲まねえと折角しっかくの旦那のお心を無にするようなものだ、此の戸棚に何か有りやしょう、お膳や徳利とくりも……」
菊「お前、そんな物を出してはいけないよ」
林「こゝに※(「魚+獵のつくり」、第4水準2-93-92)からすみ雲丹おにがあるだ」
菊「何だよ、其様そんなものを出してはいけないよ、あらまア困るよ、お鉄瓶へお燗徳利を入れてはいけないよ」
林「心配しんぺいしねえでもえ、大丈夫だよ、少し理由わけがあるだ、おけくさん、ま一盃えっぺい飲めなせえ、おまえ今日は平日いつもより別段におつこしいように思われるだね」
菊「何だよ、詰らんお世辞なんぞを云って、早くお部屋へ往って寝ておくれ、お願いだから、跡を片附けて置かなければならないから」
林「ま一盃えっぺい飲めなアよ」
菊「私は飲みたくはないよ」
林「じゃアさくだけして下せえ」
[#「菊」は底本では「林」]「おしゃくかえ、私にかえ、困るねえ、それじゃア一盃切いっぱいぎりだよ、さ……」
林「へえ有難ありがてえ是れは……ひえ頂戴えたしやす……有難え、まアまるで夢見たような話だという事さ、おけくさん本当にお前さん、私が此処こゝへ奉公に来た時から、ほんに思って居るよ」
菊「其様そんなことを云わずに早く彼方あっちへおでよ」
林「う邪魔にせなえでもえが、是でちゃんと縁附えんづくけまっているからね、知らず/\して縁はな物味な物といって、ちゃんときまっているからね」
菊「なんが縁だよ」
林「何でもい、本当ねわし此方こっちゃへ奉公に来た時始めておめえさんのお姿を見て、あゝおつこしい女中しゅだと思えました、斯ういうおつこしい人は何家どけ嫁付かたづいてくか、何ういう人を亭主に持ちおると思ってる内に、旦那さまのお妾さまだと聞きやしたから、よんどころねえと諦らめてるようなものゝ、てもさめてもおまえさんの事を忘れたことアないよ」
菊「冗談をお云いでない、いやらしい、彼方あっちへ往ってお寝よ」
林「きアしない、亥刻よつまではかないよ」
菊「困るよ、其様そんなに何時いつまでもいちゃア、後生だからよ、明日あした又旨い物を上げるから」
林「何うしてお前さんの喰欠こいかけを半分うて見てえと思ってゝも、喰欠こいかけを残した事がねえから、そっ台所だいどこにお膳が洗わずにある時は、洗った振りをしてめて、拭いてしまって置くだよ」
菊「きたないね、私ア嫌だよ」
林「それからね、何うかしてお前さんの肌を見てえと思っても見る事が出来ねえ、すると先達せんだっ前町まえまち風呂屋ほろばが休みで、行水をつかった事がありましたろう、此の時ばかり白い肌が見られると思ってると、悉皆すっかり戸で囲ってのぞく事が出来でけねえ、何うかしてと思ってると、節穴が有ったから覗くと、意地えじの悪い穴よ、はすに上の方へ向いて、戸に大きな釘が出ていて頬辺ほゝぺた掻裂かぎざきイした」
菊「オホヽヽいやだよ」
林「其の時使ったのかって置きたいと思って糠袋のかぶくろをあけて、ちゃんと天日てんぴにかけて、乾かして紙袋かんぶくろに入れて貯っておいて、炊立たきたての飯の上へかけてうだ」
菊「忌だよ、穢い」
林「それからつかった湯を飲もうと思ったが、飲切れなくなって、どうも勿体ねえと思ったが、半分程飲めねえ、三日目から腹アくだした」
菊「冗談を云うにも程がある、彼方あちらへお出でよ、忌らしい」
林「おけくさん、もう亥刻よつ[#「亥刻」は底本では「戌刻」]かな」
菊「もうじきに亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]だよ」
林「亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]ならそろ/\始めねえばなんねえ」
 とだん/\お菊の側へ摺寄すりよりました。

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