圓朝全集 巻の三 |
近代文芸資料複刻叢書、世界文庫 |
1963(昭和38)年8月10日 |
引続きまして、梅若七兵衞と申す古いお話を一席申上げます。えゝ此の梅若七兵衞という人は、能役者の内狂言師でございまして、芝新銭座に居りました。能の方は稽古のむずかしいもので、尤も狂言の方でも釣狐などと申すと、三日も前から腰をかゞめている稽古をして居ませんければ、その当日に狂言が出来んという。それでも勤めますと後二三日は身体が利かんくらいだという、余程稽古のむずかしいものと見えます。許し物と云って、其の中に口伝物が数々ございます。以前は名人が多かったものでございます。觀世善九郎という人が鼓を打ちますと、台所の銅壺の蓋がかたりと持上り、或は屋根の瓦がばら/\/\と落ちたという、それが為瓦胴という銘が下りたという事を申しますが、この七兵衞という人は至って無慾な人でございます。只宅にばかり居まして伎の事のみを考えて居りますから貯えとてもありません。お大名から呼びに来ても往きません。贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるりと廻って、戸棚の前へぴたりと坐ったり何か変なことをいたし、まるで狂人じみて居ります。ちょうど歳暮のことで、 内儀「旦那え/\」 七「えゝ」 内儀「貴方には困りますね」 七「何ぞというとお前は困るとお云いだが何が困ります」 内儀「何が困るたって、あなた此様に貧乏になりきりまして、実に世間体も恥かしい事で、斯様な裏長屋へ入って、あなたは平気でいらっしゃるけれども、明日食べますお米を買って炊くことが出来ませんよ」 七「出来ないって、何うも仕方がない、お米が天から授からないので」 内儀「そんな事を云っていらしっては困ります、何処へでも忠実にお歩きあそばせば、御贔屓のお方もいかいこと有りまして来い/\と仰しゃるのにお出でにもならず、実に困ります、殊に日外中度々お手紙をよこして下すった番町の石川様にもお気の毒様で、食べるお米が無くっても、あなたは心柄で宜しゅうございましょうが、私は実に困ります」 七「困ったって、私は人の家へ往ってお辞儀をするのは嫌いだもの、高貴の人の前で口をきくのが厭だ、気が詰って厭な事だ、お大名方の御前へ出ると盃を下すったり、我儘な変なことを云うから其れが厭で、私は宅に引込んでゝ何処へも往かない、それで悪ければ仕様がない」 内儀「仕様がないたって、あなた何へいらっしゃいましよ、あの石川様へお歳暮だって入らっしゃると、いつでも貴方に千疋ぐらい御祝儀を下さるじゃアありませんか」 七「他人のものを当にしちゃアいかん、他人のものを当にして物を貰うという心が一体賤しいじゃアないか」 内儀「賤しいたって貴方、お米を買うことが出来ませんよ、今日も米櫃を払って、お粥にして上げましたので」 七「それは/\苦々しいことで」 内儀「そんな事を仰しゃらずに往って入らっしゃいまし」 七「じゃア往こう、だが当にしなさんな」 内儀「あなた、そのお服装じゃアいけません、これを召していらっしゃい」 七「なに、これで沢山だ、悪いと云えば帰って来る」 と無慾の人だから少しも構いませんで、番町の石川という御旗下の邸へ往くと、お客来で、七兵衞は常々御贔屓だから、 殿「直にこれへ……金田氏貴公も予て此の七兵衞は御存じだろう、不断はまるで馬鹿だね、始終心の中で何か考えて居って、何を問い掛けてもあい/\と答をする、それが来たので、妙な男で、あゝ来た来た、妙な物を着て来たなア、何だハヽヽ袖無しの羽織見たような物を着て来たな、七兵衞構わずこれへ」 七「へえ」 殿「誠に久しく会わんのう」 七「へえ」 殿「再度書面を遣ったに出て来んのは何ういうわけか」 七「へえ」 殿「他へでも往ったか」 七「へえ」 殿「煩いでもしたか」 七「へえ」 殿「然うでもないようだな」 七「へえ」 殿「何だかそれじゃア分らん、迎いをやっても来てくれんから恨んでいた。今日は宜く出て来たの」 七「へえ」 殿「続いて寒いから雪催しで有るの」 七「へえ」 殿「何だえ……御覧なさい、あの通りで……これ誰か七兵衞に浪々酌をしてやれ、膳を早く……まア/\これへ……えゝ此の御方は下谷の金田様だ、存じているか、これから御贔屓になってお屋敷へ出んければ成らん」 金田「予て噂には聞いていたが未だしみ/″\会わん、下谷辺へ来るような事があったら、身が屋敷へも寄っておくれ」 七「へえ……彼方へは往きません、面倒だから何処も往きません」 殿「何かぐず/″\口の内で言っているな、浪々酌をしてやれ、もう一杯やれ」 七「へえ、お酒なら否とは云いません」 殿「其の方が久しく参らん内に私は役替を仰せ付けられて、上より黄金を二枚拝領した、何うだ床間にある、悦んでくれ」 七「へえ」 と張合のない男で、お役替だと云えば御恐悦でございますとか、お目出度いぐらいの事は我々でも陳べますが、七兵衞は面倒だというので、只へえへえという、誠に張合抜がいたします。 殿「何うだ見せようか」 七「見たって仕様が有りません」 殿「なれども上から拝領するは容易ならんことだよ」 七「へえ……大きなもんですな、これは幾許ぐらいのものですな」 殿「それは何んだの相場によって違うが、大抵二十五両ぐらいの通用のものである」 七「へえ一枚二十五両ッ……これが一枚あれば家内にぐず/″\いわれる訳はないが、二枚並んでゝも他人の宝を見たって仕方がないな」 殿「何をぐず/″\いって居る、別に欲しくはないか、一枚やろうかな」 七「へゝゝゝ嘘ばっかり」 殿「なに嘘をいうものか、一枚やろう」 と御酒機嫌とは云いながら余程御贔屓と見えまして、黄金を一枚出された時に、七兵衞は正直な人ゆえ、これを貰えば嘸家内が悦ぶだろうと思い、押戴いて懐へ突っ込んで玄関へ飛出しました。 殿「あれ/\七兵衞が何処かへ往くぞ、誰か見てやれ」 七兵衞は委細構わずどッとゝ駈けてまいると、ちら/\雪が降り出してまいりました。どッとゝ番町今井谷を下りまして、虎ノ門を出にかゝるとお刺身にお吸物を三杯食ったので胸がむかついて耐りませんから、堀浚[#「浚」は底本では「凌」]いの泥に積っている雪の上へ吐しました。十分嘔いて胸が癒ったからせっせと新銭座の宅へ帰ってまいりましたので、女房は恟りいたしました。
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