二
警囲の従者はたった二人。 しかし、居捕りと小太刀の技に練り鍛えられた二人だった。 ――危険な身であるのを知っているのに、こうした対馬守の微行は雨でない限り毎夜の例なのである。 赤坂御門を抜けると三つの影は、四ツを廻った冬の深夜の闇を縫って、風の冷たい濠ばた沿いを四谷見附の方へ曲っていった。しかも探して歩いているものは、まさしく屋台店なのである。 「やはり今宵も同じところに出ておるぞ。気取られぬように致せよ」 見附前の通りに、夜なきそばと出ているわびしい灯り行灯を見つけると、三人の足は忍びやかに近づいていった。近づいて這入りでもするかと思われたのに、三人はそこの小蔭に佇むと、遠くから客の在否を窺った。 しかし居ない。 刻限も丁度頃なら、場所も目抜の場所であるのに、客の姿はひとりも見えないのである。暫く佇んで見守っていたが、屋台のあるじが夜寒の不景気を歎くように、悲しく細ぼそと夜啼きそばの叫び声を呼びつづけているばかりで、ついにひとりも客は這入らなかった。 「館!」 「はっ」 「ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか」 「おりまする。たしかに両名の姿を見かけました」 「その前はどうであった」 「三人で厶りました」 「夜ごとに目立って客足が減るよう喃。――歎かわしいことじゃ。考えねばならぬ。――参ろうぞ」 忍びやかに、そうして重たげな足どりだった。 牛込御門の前通りにやはり一軒屋台の灯が見える。 三つの影は同じように物蔭へ立ち止まって、遠くから客の容子を窺った。 「どうじゃ。いるか」 「はっ。おりまするが――」 「何人じゃ」 「たったひとりで厶ります」 「僅かに喃。酒はどうか。用いておるか」 「おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している容子に厶ります」 「やはりここも次第に寂れが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のように七八人もの客が混み合っていたようじゃ。のう。山村。そうであったな」 「はっ。御意に厶ります。年前は大分酒もはずんで歌なぞも唄うておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったように厶ります。ゆうべもやはりひとりきりで厶りました」 「そう喃。――胸が詰って参った。もう迷わずにやはり決断せねばなるまいぞ、先へ行け」 濠ばた沿いに飯田町へ出て、小石川御門の方へ曲ろうとするところに、煮込みおでんと、鮨の屋台が二軒見えた。――しかしどちらの屋台もしいんと静まり返って、まことに寥々、客らしい客の姿もないのである。 「館!」 「はっ」 「そち今日、浅草へ参った筈よ喃」 「はっ。事の序にと存じまして、かえり道に両国河岸の模様もひと渡り見て参りまして厶ります」 「見世物なぞの容子はどんなであった」 「天保の饑饉の年ですらも、これ程のさびれ方ではなかったと、いち様に申しておりまして厶ります」 「不平の声は耳にせざったか」 「致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人気の沈んだことはない。まるで生殺しに会うているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立直るものならそのように、早うどちらかへ片がつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりまして厶ります」 ――まさにそれは地の声だった。尊王攘夷と開港佐幕と、昨是今非の紛々たる声に交って、黒船来の恐怖心が加わった、地に鬱積している不安動揺の声なのである。 対馬守は黙然として、静かに歩いていった。 右は水を隔てて高い土手。左は御三家筆頭水戸徳川のお上屋敷である。――その水一つ隔てた高い土手のかなたの大江戸城を永劫に護らせんために、副将軍定府の権限と三十五万石を与えてここに葵柱石の屋敷をも構えさせたのに、今はその水一つが敵と味方との分れ目となって、護らねばならぬ筈の徳川御連枝たる水藩が、率先勤王倒幕の大旆をふりかざし乍ら、葵宗家に弓を引こうとしているのだ。 「館!」 対馬守は、いかめしい築地塀を打ち睨むようにし乍ら卒然として言った。 「のう館!」 「はっ」 「人はな」 「はっ」 「首の座に直っておる覚悟を以て、事に当ろうとする時ほど、すがすがしい心持の致すことはまたとないな。のう。どう思うか」 「御諚よく分りかねまする。不意にまた何を仰せられまするので厶ります」 「大丈夫の覚悟を申しておるのじゃ。国運を背負うて立つ者が、国難に当って事を処するには第一に果断、第二にも果断、終始果断を以て貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよ喃」 「…………」 「泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊殿は、立派な御最期だった。よかれあしかれ国策をひっ提て、政道の一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。羨やましい事よ喃」 「申、申しようも厶りませぬ……」 「泣くでない。そち程の男が何のことぞ。――天の川が澄んでおるな。風も冷とうなった。少し急ぐか」 足を早めてお茶の水の土手にさしかかろうとしたとき、突如バラバラと三つ四つ、黒い影が殺到して来たかと見えるや、行手をさえ切ってきびしく言った。 「まてっ。何者じゃっ」 「まてとは何のことじゃ!高貴のお方で厶るぞ。控えさっしゃい!」 叱って、館、山村の従者両名がさっと身楯になって身構えたのを、 「騒ぐでない」 しいんと身の引きしまるような対馬守の声だった。 「姿の容子、浪士取締り見廻り隊の者共であろうな」 「……?」 「のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ」 「あっ。左様で厶りましたか! それとも存ぜず不調法恐れ入りまして厶ります。薩州浪士取締り早瀬助三郎組下の五名に厶ります」 「早瀬が組下とあらば腕利きの者共よな。夜中役目御苦労じゃ。充分に警備致せよ」 「御念までも厶りませぬ。御老中様もお気をつけ遊ばしますよう――」 人形のように固くなって、勤王浪土取締りの隊士達が見送っているのを、対馬守の足どりは実に静かだった。聖堂裏から昌平橋を渡って、筋違御門を抜けた土手沿いに、求める屋台の灯がまた六つ見えた。闇に咲く淫靡な女達が、不思議な繁昌を見せているあの柳原土手である、それゆえにこそ、くぐり屋台の六つ七つは当り前だった。 しかし客足は反対にここも寂れに寂れて、六軒に僅か三名きりである。 対馬守は沈痛にもう押し黙ったままだった。――これ以上検分する必要はない。盛り場の柳原にしてこれだったら、他は推して知るべしなのだ。目撃したとていたずらに心が沈むばかりである。 足を早めて屋敷に帰りついたのは、八ツをすぎた深夜だった。 寝もやらず待ちうけていた老職多井格之進が、逸早く気配を知って、寒げに老いた姿を見せ乍ら手をつくと、愁い顔の主君をじいっと仰ぎ見守り乍ら、丹田に力の潜んだ声で言った。 「さぞかし御疲れに厶りましょう。御無事の御帰館、何よりに御座ります。今宵の容子は?」 「ききたいか」 「殿の御心労は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様で厶ります」 「言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ」 「ではやはり――」 「そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ」 「…………」 「不服か。黙っているのは不服じゃと申すか」 「いえ不服では厶りませぬ。殿が御深慮を持ちまして、それ以外に途はないと仰せられますならば、いかような御決断遊ばしましょうと、格之進何の不服も厶りませぬが――」 「不服はないがどうしたと申すのじゃ」 「手前愚考致しまするに屋台店の夜毎に寂れますのは、必ずしも町民共の懐中衰微の徴しとばかりは思われませぬ。一つは志士召捕り、浪土取締りなぞと血腥さい殺傷沙汰がつづきますゆえ、それを脅えての事かとも思われますので厶ります」 「一理ある。だがそちも常人よ喃。今の言葉は誰しも申すことじゃ。予は左様に思いとうない。も少し世の底の流れを観たいのじゃ。よしや殺傷沙汰が頻発致そうと、町民共の懐中が豊ならば自と活気が漲る筈じゃ。屋台店はそれら町民共のうちでも一番下積の者共の集るところじゃ。集る筈のそれら屋台に寂れの見えるは下積の者共に活気のない証拠じゃ。国政を預る身としてこの安藤対馬は、第一にそれら下積の懐中を考えたい。活気のあるなしを考えて行きたい。民は依らしむべし、知らしむべからず、貧しい者には攘夷もなにも馬の耳に念仏であろうぞ。小判、小粒、鳥目、いかような世になろうと懐中が豊であらばつねにあの者共は楽しいのじゃ。なれども悲しいかな国は今、その小判に欠けておる。これを救うは異人共との交易があるのみじゃ。交易致さば国に小判が流れ入るは必定、小判が流れ入らば水じゃ。低きを潤す水じゃ。下積の者共にも自と潤いが参ろうわ。ましてやポルトガル国はもう三年来、われらにその交易を求めてじゃ。海外事情通覧にも書いてある。ポルトガル国はオランダ、メリケン国に優るとも劣らぬ繁昌の国小判の国と詳しく書いてじゃ。対馬は常に只、貧しい者達の懐中を思うてやりたい。決断致すぞ。予は決断致してあすにも交易を差し許して遣わすぞ。のう。多井、対馬の考えは誤っておるか」 「さり乍ら、それではまたまた――」 「井伊大老の轍を踏むと申すか!」 「はっ。臣下と致しましては、只もう、只々もう殿の御身が……」 「死は前からの覚悟ぞ!たとえ逆徒の刃に斃れようとも、百年の大計のためには、安藤対馬の命ごとき一毛じゃ。攘夷を唱うる者共の言もまた対馬には片腹痛い。一にも二にも異人を懼れて、外船と交易致さば神州を危うくするものじゃと愚かも甚しい妄語を吐きおるが、国が危ういと思わば内乱がましい内輪の争い控えたらよかろうぞ。のう、多井! 予の考えは誤りか」 「いえ、それを申すのでは厶りませぬ。京都との御約束は何と召さるので厶ります」 「あれか。約束と申すは攘夷実行の口約か」 「はっ。恐れ乍ら和宮様御降嫁と引替えに、十年を出ずして必ず共に攘夷実行遊ばさるとの御誓約をお交わしなさりました筈、さるを、御降嫁願い奉って二月と出ぬたった今、進んでお自らお破り遊ばしますは、二枚舌の、いえ、その御約束御反古の罪は何と遊ばしまする御所存で厶ります」 「そちも近頃、急に年とって参ったよ喃――」 言下に冴え冴えとした微笑をのせると、凛として言った。 「それもこれもみな国策じゃ! 二枚舌ではない、国運の危うきを救う大策じゃ! 内争を防ぐことこそ第一の急、京都と江戸との御仲睦じく渡らせられなば、国の喜びこれに過ぎたるものはなかろうが、御降嫁願い奉ったも忠節の第一、国を思うがゆえに交易するも忠節の第一であろうぞ。――大無! 心気を澄ましたい。笙を持てっ」 ――冬の深夜の星に対って、端然とし乍ら正座すると、対馬守は蕭々として、日頃嗜む笙を鳴らした。
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