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老中の眼鏡(ろうじゅうのめがね)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-7 10:35:18 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


         二

 警囲の従者はたった二人。
 しかし、居捕いどりと小太刀の技に練り鍛えられた二人だった。
 ――危険な身であるのを知っているのに、こうした対馬守の微行は雨でない限り毎夜の例なのである。
 赤坂御門を抜けると三つの影は、四ツを廻った冬の深夜の闇をって、風の冷たいほりばた沿いを四谷見附の方へ曲っていった。しかも探して歩いているものは、まさしく屋台店なのである。
「やはり今宵も同じところに出ておるぞ。気取けどられぬように致せよ」
 見附前の通りに、夜なきそばと出ているわびしい灯り行灯あんどんを見つけると、三人の足は忍びやかに近づいていった。近づいて這入はいりでもするかと思われたのに、三人はそこの小蔭こかげたたずむと、遠くから客の在否を窺った。
 しかし居ない。
 刻限も丁度ちょうどころなら、場所も目抜の場所であるのに、客の姿はひとりも見えないのである。しばらく佇んで見守っていたが、屋台のあるじが夜寒よさむの不景気を歎くように、悲しく細ぼそと夜啼よなきそばの叫び声を呼びつづけているばかりで、ついにひとりも客は這入らなかった。
たて!」
「はっ」
「ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか」
「おりまする。たしかに両名の姿を見かけました」
「その前はどうであった」
「三人でござりました」
「夜ごとに目立って客足が減るようのう。――歎かわしいことじゃ。考えねばならぬ。――参ろうぞ」
 忍びやかに、そうして重たげな足どりだった。
 牛込御門の前通りにやはり一軒屋台の灯が見える。
 三つの影は同じように物蔭へ立ち止まって、遠くから客の容子ようすを窺った。
「どうじゃ。いるか」
「はっ。おりまするが――」
「何人じゃ」
「たったひとりで厶ります」
「僅かに喃。酒はどうか。用いておるか」
「おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している容子に厶ります」
「やはりここも次第にさびれが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のように七八人もの客が混み合っていたようじゃ。のう。山村。そうであったな」
「はっ。御意に厶ります。年前は大分酒もはずんで歌なぞも唄うておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったように厶ります。ゆうべもやはりひとりきりで厶りました」
「そう喃。――胸が詰って参った。もう迷わずにやはり決断せねばなるまいぞ、先へ行け」
 濠ばた沿いに飯田町へ出て、小石川御門の方へ曲ろうとするところに、煮込にこみおでんと、すしの屋台が二軒見えた。――しかしどちらの屋台もしいんと静まり返って、まことに寥々りょうりょう、客らしい客の姿もないのである。
たて!」
「はっ」
「そち今日、浅草へ参った筈よ喃」
「はっ。事のついでにと存じまして、かえり道に両国河岸りょうごくがしの模様もひと渡り見て参りまして厶ります」
「見世物なぞの容子はどんなであった」
「天保の饑饉ききんの年ですらも、これ程のさびれ方ではなかったと、いち様に申しておりまして厶ります」
「不平の声は耳にせざったか」
「致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人気の沈んだことはない。まるで生殺しに会うているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立直るものならそのように、早うどちらかへ片がつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりまして厶ります」
 ――まさにそれは地の声だった。尊王攘夷と開港佐幕と、昨是今非の紛々たる声に交って、黒船来の恐怖心が加わった、地に鬱積うっせきしている不安動揺の声なのである。
 対馬守は黙然もくねんとして、静かに歩いていった。
 右は水をへだてて高い土手。左は御三家筆頭水戸徳川のお上屋敷である。――その水一つ隔てた高い土手のかなたの大江戸城を永劫えいごうに護らせんために、副将軍定府の権限と三十五万石を与えてここに葵柱石あおいちゅうせきの屋敷をも構えさせたのに、今はその水一つが敵と味方との分れ目となって、護らねばならぬ筈の徳川御連枝ごれんしたる水藩が、率先勤王倒幕の大旆たいはいをふりかざし乍ら、葵宗家あおいそうけに弓を引こうとしているのだ。
「館!」
 対馬守は、いかめしい築地塀ついじべいを打ちにらむようにし乍ら卒然として言った。
「のう館!」
「はっ」
「人はな」
「はっ」
「首の座に直っておる覚悟をもって、事に当ろうとする時ほど、すがすがしい心持の致すことはまたとないな。のう。どう思うか」
御諚ごじょうよく分りかねまする。不意にまた何をおおせられまするので厶ります」
「大丈夫の覚悟を申しておるのじゃ。国運を背負うて立つ者が、国難に当って事を処するには第一に果断、第二にも果断、終始果断を以て貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよ喃」
「…………」
「泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊殿は、立派な御最期だった。よかれあしかれ国策をひっさげて、政道の一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。うらやましい事よ喃」
「申、申しようも厶りませぬ……」
「泣くでない。そち程の男が何のことぞ。――天の川が澄んでおるな。風も冷とうなった。少し急ぐか」
 足を早めてお茶の水の土手にさしかかろうとしたとき、突如バラバラと三つ四つ、黒い影が殺到して来たかと見えるや、行手をさえ切ってきびしく言った。
「まてっ。何者じゃっ」
「まてとは何のことじゃ!高貴のお方で厶るぞ。控えさっしゃい!」
 叱って、館、山村の従者両名がさっと身楯みだてになって身構えたのを、
「騒ぐでない」
 しいんと身の引きしまるような対馬守の声だった。
「姿の容子、浪士取締り見廻り隊の者共であろうな」
「……?」
「のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ」
「あっ。左様で厶りましたか! それとも存ぜず不調法恐れ入りまして厶ります。薩州浪士取締り早瀬助三郎組下の五名に厶ります」
「早瀬が組下とあらば腕利きの者共よな。夜中やちゅう役目御苦労じゃ。充分に警備致せよ」
「御念までも厶りませぬ。御老中様もお気をつけ遊ばしますよう――」
 人形のように固くなって、勤王浪土取締りの隊士達が見送っているのを、対馬守の足どりは実に静かだった。聖堂裏から昌平橋を渡って、筋違すじかい御門を抜けた土手沿いに、求める屋台の灯がまた六つ見えた。闇に咲く淫靡いんびな女達が、不思議な繁昌を見せているあの柳原土手である、それゆえにこそ、くぐり屋台の六つ七つは当り前だった。
 しかし客足は反対にここも寂れに寂れて、六軒に僅か三名きりである。
 対馬守は沈痛にもう押し黙ったままだった。――これ以上検分する必要はない。盛り場の柳原にしてこれだったら、他はして知るべしなのだ。目撃したとていたずらに心が沈むばかりである。
 足を早めて屋敷に帰りついたのは、八ツをすぎた深夜だった。
 寝もやらず待ちうけていた老職多井格之進が、逸早いちはやく気配を知って、寒げに老いた姿を見せ乍ら手をつくと、愁い顔の主君をじいっと仰ぎ見守り乍ら、丹田たんでんに力の潜んだ声で言った。
「さぞかし御疲れに厶りましょう。御無事の御帰館、何よりに御座ります。今宵の容子は?」
「ききたいか」
「殿の御心労は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様で厶ります」
「言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ」
「ではやはり――」
「そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ」
「…………」
「不服か。黙っているのは不服じゃと申すか」
「いえ不服では厶りませぬ。殿が御深慮を持ちまして、それ以外にみちはないと仰せられますならば、いかような御決断遊ばしましょうと、格之進何の不服も厶りませぬが――」
「不服はないがどうしたと申すのじゃ」
「手前愚考致しまするに屋台店の夜毎に寂れますのは、必ずしも町民共の懐中衰微のしるしとばかりは思われませぬ。一つは志士召捕り、浪土取締りなぞと血腥ちなまぐさい殺傷沙汰さっしょうざたがつづきますゆえ、それをおびえての事かとも思われますので厶ります」
「一理ある。だがそちも常人よ喃。今の言葉は誰しも申すことじゃ。予は左様に思いとうない。も少し世の底の流れを観たいのじゃ。よしや殺傷沙汰が頻発致そうと、町民共の懐中が豊ならばおのずと活気がみなぎる筈じゃ。屋台店はそれら町民共のうちでも一番下積の者共の集るところじゃ。集る筈のそれら屋台に寂れの見えるは下積の者共に活気のない証拠じゃ。国政を預る身としてこの安藤対馬は、第一にそれら下積の懐中を考えたい。活気のあるなしを考えて行きたい。たみらしむべし、知らしむべからず、貧しい者には攘夷もなにも馬の耳に念仏であろうぞ。小判、小粒、鳥目ちょうもく、いかような世になろうと懐中が豊であらばつねにあの者共は楽しいのじゃ。なれども悲しいかな国は今、その小判に欠けておる。これを救うは異人共との交易があるのみじゃ。交易致さば国に小判が流れ入るは必定ひつじょう、小判が流れ入らば水じゃ。低きをうるおす水じゃ。下積の者共にも自と潤いが参ろうわ。ましてやポルトガル国はもう三年来、われらにその交易を求めてじゃ。海外事情通覧にも書いてある。ポルトガル国はオランダ、メリケン国に優るとも劣らぬ繁昌の国小判の国とくわしく書いてじゃ。対馬は常に只、貧しい者達の懐中を思うてやりたい。決断致すぞ。予は決断致してあすにも交易を差し許して遣わすぞ。のう。多井、対馬の考えはあやまっておるか」
「さり乍ら、それではまたまた――」
「井伊大老のてつを踏むと申すか!」
「はっ。臣下と致しましては、只もう、只々もう殿の御身おんみが……」
「死は前からの覚悟ぞ!たとえ逆徒のやいばたおれようとも、百年の大計のためには、安藤対馬の命ごとき一もうじゃ。攘夷をとなうる者共の言もまた対馬には片腹痛い。一にも二にも異人をおそれて、外船と交易致さば神州を危うくするものじゃと愚かもはなはだしい妄語もうごを吐きおるが、国が危ういと思わば内乱がましい内輪の争い控えたらよかろうぞ。のう、多井! 予の考えは誤りか」
「いえ、それを申すのでは厶りませぬ。京都との御約束は何と召さるので厶ります」
「あれか。約束と申すは攘夷実行の口約か」
「はっ。恐れ乍ら和宮様御降嫁と引替えに、十年をいでずして必ず共に攘夷実行遊ばさるとの御誓約をお交わしなさりました筈、さるを、御降嫁願い奉って二月と出ぬたった今、進んでおみずからお破り遊ばしますは、二枚舌の、いえ、その御約束御反古ごほごの罪は何と遊ばしまする御所存で厶ります」
「そちも近頃、急に年とって参ったよ喃――」
 言下に冴え冴えとした微笑をのせると、りんとして言った。
「それもこれもみな国策じゃ! 二枚舌ではない、国運の危うきを救う大策じゃ! 内争を防ぐことこそ第一の急、京都と江戸との御仲むつまじく渡らせられなば、国の喜びこれに過ぎたるものはなかろうが、御降嫁願い奉ったも忠節の第一、国を思うがゆえに交易するも忠節の第一であろうぞ。――大無! 心気を澄ましたい。しょうを持てっ」
 ――冬の深夜の星にむかって、端然とし乍ら正座すると、対馬守は蕭々しょうしょうとして、日頃たしなむ笙を鳴らした。

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