旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)10 第十話 幽霊を買った退屈男
四 乗りつけたのは、とっぷり暮れた六ツ下がりでした。「京弥、つづけッ」 すべてが只颯爽、小気味がいい位です。ずいずいと式台にかかると、「早乙女主水之介、眉間傷御披露に罷り越した、通って参るぞ。主計頭どの居室に案内(あない)せい」 注進するひまも止めるひまもない。打ちうろたえて、まごまごしている近侍の者達に、ピカリピカリと傷の威嚇を送りつつ、悠揚として案内させていったところは、奥書院の主計頭が居室でした。「誰じゃ。何者じゃ。どたどたと騒がしゅう振舞って何者じゃ」 四十がらみの、ずんぐりとした好き者(しゃ)らしい脂肉(あぶらじし)を褥の上からねじ向けて、その主計頭がいとも横柄に構えながら、二万四千石ここにありと言いたげに脇息(きょうそく)もろ共ふり返ったのを、ずいとさしつけたのはあの三日月形です。「この傷が見参じゃ。とく御覧召されい」「よッ。さては――いや、まさしく貴殿は!」「誰でもござらぬ。早乙女の主水之介よ。うい傷じゃ、その傷もって天上御政道を紊(みだ)す輩(やから)あらば心行くまで打ち懲(こ)らせ、とまでは仰せないが、上将軍家御声がかりの直参傷(じきさんきず)じゃ。当屋敷うちに、誰袖源七の幽霊がおる筈、のちのちまでの語り草にと、これなる傷にて買いに参った。早々にこれへ出さッしゃい」「なにッ。――知らぬ! 知らぬ! いや、左様なもの存ぜぬわッ。幽霊が徘徊(はいかい)致すなぞと、うつけ申して狂気と見ゆる! みなの者! みなの者! 何を致しおるかッ。この狂気者、早う補えい!」 股立(ももだち)とって、バラバラと七八名が取り巻こうとしたのを、只ひと睨み!「控えい! 陪臣(またもの)!」 一喝(かつ)しながら泰然としたものでした。「身共のこの傷、何と心得おるかッ。百石二百石のはした米(まい)では、しみじみお目にもかかれぬ傷じゃ。よう見い。のう! 如何(どう)ぞ! わははは。ずうんと肝(きも)にこたえたと見ゆるな。――遠藤侯!」 チクリと痛いところを静かに浴びせかけたものです。「お身、時折は鏡を御覧召さるかな」「なにッ。雑言(ぞうごん)申して何を言うかッ。小地たりとも美濃八幡二万四千石、従四位下を賜わる遠藤主計頭じゃ。貴殿に応対の用はない。とく帰らっしゃい」「ところが帰れぬゆえ、幽霊の念力(ねんりき)は広大なものでござるよ。二万四千石とやらのそのお顔、時折りは鏡にうつして御覧召されるかな」「要らぬお世話じゃ。見ようと見まいとお身の指図うけぬわッ」「いや、そうでない。そのお顔でのう。ウフフ。あはは。まあよう見さっしゃい。ずんぐりとしたそのお顔で曲輪通いをなさるとは、いやはやお肝の太いことでござる。ましてや、曲輪の遊びは大名風が大の禁物、なにかと言えば二万四千石が飛び出すようでは、誰袖に袖にされるも当り前じゃ。ぜひにも幽霊買わねばならぬ! 早うこれへ出さっしゃい!」「不埓申すなッ。お身こそ直参風を吹かせて、何を申すかッ! 知らぬ! 知らぬ! 身に覚えもない言いがかりを申しおって、誰袖とやらはゆめおろか、源七とやらも幽霊も見たことないわッ。帰れと申すに御帰り召さずば、屋敷の者共みな狩り出し申すぞッ」「わはは。古手の威(おど)し申されたな。問答無益じゃ。御存じないとあらば屋探し致して心中者の幽霊買って帰りましょうぞ。近侍の者共遠慮は要らぬ。案内せい!」 ピカリと威嚇しながら、睨みすえつつ屋敷の奥へ踏み入ろうとしたのを、主計頭、必死でした。さっと立ち上がると形相(ぎょうそう)物凄く呼びとめました。「控えられい! お控え召されよッ」「何でござる」「かりそめにも当館(とうやかた)は、上将軍家より賜わった大名屋敷じゃ。大名屋敷詮議するには、大目付衆のお指図お許しがのうてはならぬ筈、お身、それを知ってのことかッ」「ウフフ。お出しじゃな。とうとうそれをお出し召さったか。――止むをえぬ。お家を無瑾(むきず)に庇(かば)って進ぜようと思うたればこそ、主水之介わざわざ参ったが、それをお出しとあらば致し方ござらぬわい。お目付衆の手を煩(わずら)わすまでもないこと、ようござる! 今より主水之介、じきじきに将軍家へ言上申上げて、八幡二万四千石木ッ葉みじんに叩きつぶして見しょうぞ。――ウフフ。京弥、下賤の色恋にまなこ眩(くら)んでいるお大名方には、この三日月形、利きがわるいと見えるわい。では、負けて帰るかのう。急いで参れよ」 ガラリと、俄かの変り方でした。ウフフと不気味に笑って、さっさと引き揚げて行くと、――帰る筈がない! 主水之介程の男が、そのまま引き揚げて行く筈はないのです。 門を出ると同時に、ぴたりとそこの物蔭に姿をかくすと、京弥を初め七五郎達四人に鋭く命じました。「あれじゃ、あの手じゃ。篠崎流の兵法用いて、アッと言わしてやろうぞ。手分け致して早う門を見張れッ」「何を見張るのでござります」「知れたこと、主計頭とて二万四千石は惜しい筈じゃ。じきじきに将軍家へ言上しょうと威(おど)したからには、お吟味屋敷改めされるを惧(おそ)れ、慌てふためいて今のうちに誰袖達をどこぞへ運び去って、隠し替えるに相違ないわ。それを押えるのじゃ。門を見張って、運び出したところを、そっくりそのまま頂戴するのよ。身共はこの正門受持とうぞ。そち達も手分けして三方を固めい」「心得ました。そうと決まりますれば、京弥、北口不浄門を見張りましょうゆえ、七五郎どの新吉どの両人は東口を、東五郎どの長次どの御両人は西口を御見張り召されよ。ではのちほど――」「まて! まてッ」「はッ」「いずれは警固もきびしく運び出すであろうゆえ、それと分らば合図致せよ」「心得ました!」 ひたひたと三手に分れていずれもまっしぐら。――ざわ、ざわ、ざわと、庭の繁みの葉末を鳴らして、不気味な夜風です。 主水之介は、ぬッと築地(ついぢ)わきに佇んだままで、薄闇の向うの門先を見守りました。 しかし出ない。 人影はゆめおろか、犬一匹屋敷うちからは姿を見せないのです。 合図の声もない。 北口不浄門からも、東口御小屋門からも、西口脇門からも、何の声すらないのです。「はてのう? バラしたかな」 いぶかっているとき――。「殿様え! 殿様々々。出ましたぞう!」 突如、闇を裂(さ)いて伝わって来たのは、まさしく東口御小屋門のかなたからです。 同時に一散走りでした。 駈けつけて見すかすと、なるほど八九名の影がある。しかも大きな長持を一挺(ちょう)担(にな)わせて、その黒い影の塊りが左右四方から厳重に守りつつ現れたのです。 ずいと近寄ると、「まてい」 胆(きも)の髄までもしみ入るような声でした。「わざわざ荷物に造って御苦労じゃ。手数をかけて相済まぬ。もうよいぞ。苦しゅうない。苦しゅうない。主水之介も人夫用意致しておるゆえ、そのままおいて行けい」「な、な、何でござります! 差上げるべきいわれござりませぬ。こ、これはそのような――」「そのような、何じゃと言うぞ」「怪しの品ではござりませぬ。こ、これは、その、こ、これは、その――」「何品じゃ!」「ふ、ふ、古道具でござります。只今お主侯様(とのさま)から、もう不用じゃ、払い下げいとの御諚(ごじょう)がござりましたゆえ、出入りの古道具屋へ売払いに参るところでござります。御退(おの)き下されませい」「ならばなおさらけっこう。身共、近頃殊のほか古道具類が好きになってな、丁度幸いじゃ。買い取ってつかわそうぞ。値段は何程でも構わぬ。いか程じゃ」「………」「早いがよいわッ。売るもひと値。買うもひと値。あとで品物に不足は言わぬ! 言うてみい! 何程じゃ」「二、二千両程の品にござります」「たった二千金か! 即金じゃ。ほら! 手を出せい!」 声もろ共に、ギラリ抜いたのは相模守の一刀です。敵う筈がない! たじたじとあとに引きさがったのを、「わはは。どうじゃ! いらぬか。諸羽流正眼くずしの一刀が只の二千金とは安いぞ。安いぞ。ウフフ。誰も要らぬと見ゆるな。では、折角じゃ。只で頂いては痛み入るが頂戴するぞ」 ずいずいと近寄りながら、鐺(こじり)で錠(じょう)を手もなく叩きこわして、さッと蓋をはねのけました。同時に長持の中から、くくされた身体をよろめくように起して、声を合わせながら叫んだのはまぎれもなく誰袖源七のふたりです。「お殿様でござりましたか!」「早乙女の御前様でありんすか!」「ありがとうござります! ようこそ、ようこそお救い下さりました。ありがとうござります。命の御恩人でござります」「ウフフ。そんなにうれしいか。生きておって仕合わせよのう。身共もうれしいぞ。まだ賞玩(しょうがん)せぬが、ゆうべはけっこうな菓子折、散財かけて済まなかった。早う出い。――京弥々々」 馳けつけて、何ぞ御用は、というように手ぐすね引いていたのを見眺めると、咄嗟に命じました。「空長持送り返すも風情がない故、五六匹、主計頭に土産届けようぞ。ぼんやり致してふるえおるその者共、早う眠らせい」 自らもさッと躍り入ると、パタパタと三人を峰打ち。京弥の当て身に倒れた二人も交えて、ひと束にしながら長持の中へ投げ込むと、事もなげに言ったことです。「美しい幽霊共じゃ。眺め眺めかえるかのう」 早くも注進うけたか、歩き出したそのうしろの屋敷内に、突然、慌ただしく足音が近づくと、罵(ののし)るように言ったのは、まさしく主計頭の声です。「やったな。出すぎ者めがッ。忘れるな! 覚えておれよ!」「ウフフ。わはは。そこへお越しか。声の主に物申そうぞ。主水之介、今宵のことは内聞に致してつかわしましょうゆえ、二万四千石が大切ならば、以後幽霊なぞこしらえぬようにさっしゃい。曲輪育ちの女子(おなご)はな、千石万石がほしゅうはない。気ッ腑がほしゅうござるとよ。わはは。――誰袖源七! 六兵衛のところへ早う行けい。比翼塚建てましょうにと、嘆いておったほど物分りのよいおやじ様じゃ。めでたく身請(みう)けが出来たら、また好物の菓子折など届けろよ。念のためじゃ、七五郎達送り届けい。――では京弥!」「はッ」「三河でぐずり松平の御前(ごぜん)からきいた言葉をふと思い出した。屋敷へかえってあの菓子頂戴しながら、菊めにお茶なぞひとねじりねじ切らすかのう。ウフフ。如何(どう)ぞ!」「けっこうでござります」「なぞと申して、菊めの名前が出ると、俄かにそわそわと足が早うなるのう。――一句浮んだ。茶の宵やほのかにゆらぐ恋心、京弥これを詠(よ)む、とはどんなものぞよ」 パッと紅葉がその頬に散ったに違いない。声もなくさしうつむいて、駕籠のあとから急ぐ京弥の背に、冬ざれの大江戸の街の灯がゆらゆらゆらめきました。
底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店 1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)入力:tatsuki校正:大野晋ファイル作成:野口英司2001年12月18日公開青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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