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その第三十八番てがらです。
「ご記録係!」
「はッ。控えましてござります」
「ご陪席衆!」
「ただいま……」
「ご苦労でござる」
「ご苦労でござる」
「みなそろいました」
「のこらず着席いたしました」
「では、川西
「はッ。心得ました。――浅草宗安寺門前、
しいんと呼びたてた声がこだまのようにひびき渡って、満廷、水を打ったようでした。春もここばかりは春でない。――日ざしもまどろむ昼さがり、
罪は浅草三番組
「お待ちかねでござるぞ。やまがらお駒、何をしているのじゃ。早くこれへ出ませい!」
せきたてた声に、運命を仕切ったお白州木戸が重くギイとあいて、
年はかっきり三十。六十日の
「だいぶやつれたな。慈悲をかけてつかわすぞ。ひざをくずしてもよい。楽にいたせ」
しかし、楽にすわろうにも、今はもうその気力さえないとみえて、精根もなくぐったりとうなだれたところへ、証拠の品のドスがひとふり、そのとき着ていたという長じゅばんが一枚、あとから塩づけになった音蔵のむくろが、長い棺に横たわって、しずしずと運ばれました。
ものものしさ、ぎょうぎょうしさ、総立ち会い総吟味の顔は並んでいるが、六十日間責めつづけて自白しないものを、証拠の合わないものをいまさら責めてみたとて、自白するはずもなければ、ないものをまた罪に落としたくも落としようがないのです。吟味というのは名ばかり、調べというも形ばかり、けっきょくはただ、無罪放免という最後のさばき一つがあるばかりでした。したがって、川西万兵衛の吟味もまたほんの形ばかりでした。
「このうえ無益な手数はかけますまい。罪なきものを罪におとしいれたとあっては、大公儀お町方取り締まりの名がたちませぬ。しかしながら、念のためじゃ、諸公がたにもとくとお立ち会い願うて、いま一度傷口を改め申そう。その
差し出したのといっしょに、左右から小者が塩づけの寝棺に近づいて、こじあげるようにしながら、長い青竹で、音蔵のむくろの背を返しました。
しかし、傷口に変わりはない。どう調べ直してみても、刀傷は刀傷です。肩から背へかけて、あんぐりと走った傷の幅は一寸、長さはざっと一尺二寸、尺にも足らぬ
「ご覧のとおりでござる。音蔵があやめられていた場所は、浅草北松山町の火の見やぐら下じゃ。時刻は
「…………」
「ご異論ありませぬな。ござらねば、さきを急ぎましょう。――痴情なし、色恋なし、恨み、憎しみ、八方手をつくして詮議したところによると、これまでお駒と音蔵は他人も他人、顔を合わしたことはござっても、世間話一つかわしたこともない間がらということじゃ。知らぬ他人が、なんの恨みもない知らぬ男をあやめるなぞというためしはない。この点も、下手人として
「…………」
「ありませぬな。しからば、最後のこの血潮じゃ。とり押えたみぎり着用のじゅばんに、このとおり血の跡はござったが、駒の申すにはひざより発した血じゃということでござる。――駒! だいじな場合じゃ。恥ずかしがってはならぬぞ。じゅうぶんに
やはり、ひざにはすりむいたというその傷あとが、いまだにうっすらと残っているのです。
「かくのとおりじゃ。残念ながら証拠固めがたたぬとすれば、無罪追放のほかはない。諸公がたのご判断はいかがでござる」
「…………」
「ご意見はいかがじゃ!」
「…………」
「どなたもご異論ござりませぬか!」
「…………」
「ありませぬな。――では、川西万兵衛、公儀のお名によってさばきつかまつる。やまがらお駒、ありがたく心得ろよ。長らくうきめに会わせてふびんであった。上の疑いは晴れたぞッ。立ちませい! 帰っても苦しゅうない、宿もとへさがりませい!」
森厳、神のごとき声でした。いっせいにざわめきのあがった中を、さぞやうち喜んで飛んでもかえるだろうと思われたのに、しかし当のお駒は、力も張りも、精も根も、喜ぶその気力さえも尽き果てたものか、顔いろ一つ変えず、にこりともせずに、よろめきよろめき立ちあがると、いかにも力なげにがっくりとうなだれて、引く足も重そうに、とぼとぼと出ていきました。
じっとそれを見ていたのが右門です。同役残らずがもう席を立ってしまったのに、ぽつねんとただひとり吟味席の片すみに居残って、あごをさすりさすり見送っていたが、なに思ったか、とつぜんつかつかとお白州へ飛び降りて、足もとの小じゃりを拾いとったかと思うと、
「えッ!」
突き刺すような気合いの声といっしょに、お駒のうしろ影めざしてぱっと投げつけました。――せつな、身に武道の心得ある者でなければできるわざではない。血も熱も冷えきってしまった人のように、よろよろと歩いていたお駒が、一瞬にさっと身をかわして、きっとなりながらふりかえると、
「おいたはおよしなさいませ……」
涼しい声で
「とんだ食わせものだ。またちっと忙しくなりやがったな。――おうい、あにい! 伝六」
「ここにあり」
「見たか」
「まさに拝見いたしましたね。いい形でしたよ。つかつかと飛び降りる、さっと石を拾う、えッ、パッと投げて、大みえきってぴたりと決まった型は、まずこのところ日本一、葉村家かむっつり屋といったところだ。うれしかったね。胸がすうとしましたよ」
「そんなことをきいているんじゃねえや。今のお駒のあざやかなところを見たかというんだよ。千両役者にしたって、ああみごとに舞台は変わらねえ。あの決まったところ、さっとつぶてをかわしたところ、きりっと体が締まったところ、おいたはおよしなさいませとおちついたところ、やっとう剣法、
「冗談じゃねえ。それなら、なぜさっき横車を押さなかったんですかよ。万兵衛のだんなが、ご意見はいかがじゃ、ご異論はござらぬか、と二度も三度もバカ念を押したんだ。あるならあるで、はい、先生、ございますと、活発に手をあげりゃよかったじゃねえですか」
「犬の顔にだって裏表があるんだ。物を考えつくときにだって、あともありゃさきもあるよ。初めっから気がついていりゃ、ほっちゃおかねえや。今ひょいと思いついたんで、急がしているんだ。とっとと
「いいえ、だんな、お黙り! なるほど、犬の顔にも裏表があるかもしれねえがね、よしんばお駒が免許皆伝の剣術使いであったにしても、包丁はドス、そのドスが血によごれて、
「音止めにぱっとあげてやらあ。うるせえ野郎だ。刀で切って、目をくらますために、匕首を捨てておくという手もあるじゃねえか。おいたはおよしなさいませと、あっさりやられたあのせりふが気に入らねえ、にこりともしなかった顔が気に入らねえんだ、ついてきな」
ひとにらみ、たった一つの小石のつぶてが、無罪放免、ほんの今かごから放たれたばかりのお駒の身辺に、突如として思い設けぬ疑惑の雲をまた新しく呼び起こしたのです。――風もゆたかな春深い日中の町を、右門の目を乗せた駕籠はぴたりと音の止まった伝六を従えて、ゆさゆさと、おうようにゆれながら、浅草宗安寺門前の北松山町を目ざして急ぎました。