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その第三十七番てがらです。
二月の末でした。あさごとにぬくみがまして江戸も二月の声をきくと、もう春が近い。
初午はいうまでもなく
寺小屋がそうです。
書道指南所がそうです。
それから
およそ、文字と筆にかかわりのあるところは、それぞれ菅公の徳をたたえ、その能筆にあやかろうという祈念から、筆子、門人、
「だからいうんだ。理のねえことをいうんじゃねえんですよ。あっしゃ無筆だから、先生も師匠も
やっているのです。
ご番所をさがって帰っての夕ぐれのしっぽりどき……伝六、でんでん、名人、むっつり、ふたりの、これは初午であろうと二十五日であろうと、年じゅう行事であるから……ここをせんどと伝六のやっているのに不思議はないが、やられている名人はとみると、あかりもないへやのまんなかに長々となって、忍びよる夕ぐれを楽しんでいるかのようでした。つまり、それがよくないというのです。
「きのうやきょうのお約束じゃねえ、もう十日もまえからたびたびそういってきているんですよ。牛込の
「…………」
「え! だんな! ばくちにいってらっしゃい、女狂いにいってらっしゃいというんじゃねえですよ。親は子のはじまり、師匠は後生のはじまり、ごきげん伺いに行きゃ先生がたがよぼよぼのしわをのばしてお喜びなさるから、いっておせじを使っていらっしゃいというんだ。世話のやけるっちゃありゃしねえ。そんな顔をして障子とにらめっこをしていたら、何がおもしれえんですかよ。障子には
「…………」
「じれじれするだんなだな。なんとかいいなさいよ」
ことり、とそのとき、何か玄関先へ止まったらしいけはいでした。どうやら、
「お待ちどうさま。お迎えでござんす……」
「そうれ、ごらんなせえ。だから、いわねえこっちゃねえんだ。牛込か下谷か、どっちかの先生が待ちかねて、お迎えの駕籠をよこしたんですよ。はええところおしたくなせえまし!」
「…………?」
「なにを考えているんです。首なぞひねるところはねえんですよ。しびれをきらして、どっちかの先生がわざわざお迎えをよこしたんだ。行くなら行く、よすならよすと、はきはき決めたらいいじゃねえですかよ!」
「あの、お待ちかねですから、お早く願います……」
せきたてるようにまた呼んだ表の声をききながら、不審そうに首をかしげて、しきりと鼻をくんくん鳴らしていたが、不意に名人がおどろくべきことをいって立ちあがりました。
「医者の駕籠だな! たしかに、
のぞいてみると、まさしくそのことばのとおり医者の駕籠です。それもよほど繁盛している医者とみえて、りっぱな乗用駕籠でした。
しかし、ちょうちんはない。それがまず不審の種でした。あかりも持たずにいきなり玄関先へ駕籠をすえて、しきりとせきたてているところをみると、急用も急用にちがいないが、それよりも人目にかかることを恐れている秘密の用に相違ないのです。
「人違いではあるまいな」
「ござんせぬ。だんなさまをお迎えに来たんです。どうぞ、お早く願います」
たれをあげて促した駕籠の中をひょいとみると、何か書いた紙片が目につきました。
「くれぐれもご内密に願いあげ
という字が見えるのです。
「よし、わかりました。――ついてこい!」
どこのだれが、なんの用で呼びに来たのか、ところもきかず名もきかず、行く先一つきこうとしないで、すうっとたれをおろすと、さっさと急がせました。
ききたくも鳴りたくも伝六なぞが口をさしはさむひまもないほど、駕籠がまた早いのです。