3
不思議なのは右門です。まさかと思ったのに、八丁堀へほんとうに引き揚げていくと、そのままふた品のことも、下手人
伝六がまた穏やかでない。あのうるさい男が、可賀のおしゃべりにすっかり当てられたとみえて、ぼんやりとしたまま、おしゃべりらしいおしゃべりは、ひとこともいわないのです。
「ね……! ね……!」
と、ただときおり首をひねっては、思い出したように焦心するばかり。
一夜がすぎて、同じようにつゆ上がりの霧の深い朝があけました。――その朝まだき。
「行ってこい!」
右門の唐突な命令が、不意に伝六へ下りました。
「早く行くんだよ」
「どこへ行くんですかい」
「おまえの兄弟分のところへ、大急ぎに行くんだ。きのうのあのお番屋へ行って、だれかに取り次いでもらえば会えるから、至急に
「…………」
「変にしょげているな。おまえらふたりがしゃべりだしたら、年の暮れでなくちゃ帰ってこねえかもしれねえ。いい気になってしゃべりはじめちゃいけねえぜ」
「あれにゃとてもかなわねえんです。だから、しょげもするじゃねえですか。なんとなく、おら、おもしろくねえや……」
とぼとぼと出かけていったその伝六が、駕籠をつらねて可賀ともどももどり帰ったのは、
「いや、これはこれは。またまたお名ざしのお呼びたてで、可賀、恐縮でござりやす。きのうお申し伝えのことをな――」
「ご
「それはもうてまえのこと、そこに抜かりのあるはずはござりませぬ、さっそくに奥女中がた残らずへ吹聴いたしましたら、みな、みなもう――」
「どんな様子でござった」
「色も青ざめて震えあがり、なんでござりましょうと、おどろくかと思いのほかに、女というものはなんともいやはや奇態な生き物でござります。ふふんと横を向いて相手にいたしませぬのでな、愚老もとんと張り合いぬけいたしまして、おしゃべり損かと思うておりますると、ここにいぶかしきはただひとり――」
「来ましたか! うろたえて、そなたに、なんぞ聞き尋ねに参った者がござったか!」
「ござりました、ござりました。名は岩路、
「宿下がりいたしましたか!」
「さようでござりやす。気分がすぐれぬとか申して、てまえがこちらへ出かける
「家はどこじゃ!」
「神田
「よしッ。それだ! 伝六ッ」
「ホシはその女だ!
「偉い! さすがだね」
止まっていた水が吹きあげでもしたように、伝六がまたにわかに活気づいて、珍しやずぼしをさしました。
「黙っていると、われながら勘がよくなるとみえらあ。偉いね、さすがにだんなですよ。密々に詮議をしなきゃならんものが、わざわざ
「決まってらあ。お鳥係りのお坊主を使って鳥網を張ったというなこのことよ。近ごろ珍しい、ほめてつかわす。お
「かたじけねえ! 可賀の大将、こうなりゃおしゃべりっくらに負けはとらねえんだ。小道具に使ってしまえばもう用はねえからね、口もとの明るいうちにとっとと帰ってくんな!」
パンパンとはぜるようにまくしたてられて、ぼうぜんと目を丸めている可賀をあとに、伝六、名人二つの御用駕籠は、時を移さず神田鍛冶町へはせ向かいました。
表通りはなかなかの構えで、柳営御用
案内を請うてはいるような名人ではない。ホシとにらめば疾風迅雷、ずかずかとはいっていくと、
「あッ……」
姿を見ると同時に、かすかなおどろきの叫びをあげながら、奥座敷目がけて逃げはいろうとした女の影がちらりと目にはいりました。せつな――。
「しゃらくせえや。おれを知らねえかよ」
伝六、じつに生きがいいのです。押えているまに、名人はあちらこちらそれとなく見ながめたが、ほかにはひとりも家人の姿はない。親の行徳助宗がいないばかりか、かりにも将軍家御用槍師といえば、
「この様子では、ちと手数がかかりそうだな。よしよし、伝六、相手はお女中だ。手荒にするんじゃねえよ」
制しておいて、奥の座敷の片すみに、必死と顔を伏せている女のところへ静かに近よりながら、まず穏やかにいったことでした。
「おまえさんが
「…………」
「ほほう。親が槍師だ。武物を扱う
「…………」
「手向かったら、だいじなお顔にあざがつきますよ。おとなしくこっちへ向けりゃいいんだ。――ほら、こうやって、そうそう。ほほう、なかなかべっぴんさんだね。いい女ってえものには、とかく魔物が多いんだ。むだはいわねえ。なんだって中山数馬さんをあんなむごいめに会わしたんですかい」
「…………」
「思いのほか手ごわいね。女が強情張るぐれえたかがしれていらあ。むっつり右門の
「…………」
「笑わしやがらあ、おいらを相手にどうあっても強情を張るというなら、手近な責め道具をほじくり出してやりましょうよ」
あちらこちら見捜していたその目が、はしなくもその床わきの地袋の、二枚引き戸の合わさりめから、ちらりとはみ出している金水引きの端を見つけました。同時です。がらりあけて中を見ると、島台に飾られた紅白ふたいろの結納綿が名人の目を射ぬきました。いや、飾り綿ばかりではない。
「
はっきりと、あの毒死をとげたご宝蔵おん刀番の名が見えるのです。
「こりゃなんだッ、この名はなんだ」
「あッ! 知りませぬ。知りませぬ。なんといわれても……なんといわれましても……」
ぎょッとなりながら必死に抗弁していたその口が問うに落ちず語るに落ちて、おもわずも口走ったのは笑止でした。
「いかほど、どれほど責められましても、わたくし、中山様に毒など盛った覚えござりませぬ」
「それみろッ。とうとういっちまったじゃねえか。それが白状だ。身に覚えのねえものが、中山数馬の毒死を知っているはずはねえ。だれからそれを聞いたんだ」
「えッ……」
「ウフフ、青くなったな。りこうなようでも、女は女よ。可賀にさえも毒死の一件はあかさなかったんだ。話しもせず、しゃべらせもしなかった毒のことを、おまえさんばかりが知っておるはずはねえよ。手間をとらせりゃ、こっちの気もたってくる。気がたてば、情けのさばきもにぶる。どうだ、むっつり右門とたちうちゃできねえぜ。もうすっぱりと吐いたらどんなものだよ」
「…………」
面を伏せてすすり泣きつつ、やがてしゃくりあげつつ、ややしばし泣き入っていたが、ついに岩路の強情が理づめの吟味に折れました。
「申、申しわけござりませぬ……いかにもわたくし、下手人でござります。なれども、これには悲しい子細あってのこと、父行徳助宗は、ご存じのように末席ながら上さま御用
「ほかにまえから契った男でもござったか!」
「あい。名はいいませぬ! たとい死ぬとも、あのかたさまのお名はいいませぬ! 同じお城仕えのさるかたさまときびしいご
「よろしい。わかった。毒くらえばさらまでと、数馬に一服盛ったというのであろうが、しかしちと不審は女手一つで中山数馬の死体をあの
「いいえ、結納つかわしたならば、式はまだあげずとも、もうわがもの同然じゃ、意に従えと口くどうお責めなさりますゆえ、では、あの牛ガ淵の土手のうえでお待ちくださりませ、心を決めてご返事いたしますると、巧みにさそい出し、お菓子に仕込んだ毒をそしらぬ顔で食べさせたのでござります。あとはおしらべがおつきでござりますはず、ただ一つ死体を沈めるおりに、あやまって懐中のふた品を濠に落としたのが、悪運の尽きでござりました……」
「あたりめえよ。悪運が尽きねえでどうするかい。その
「いえませぬ! そればかりはいえませぬ!」
「なに! また強情張りだしたな。では、親の助宗はどこへうせた! 姿が見えぬようじゃが、いずれへ逃げた?」
「そ、それもいえませぬ! 父はあのお槍に魅入られておりまする。思えばその心根がいっそふびん、せ、せめてもこのわたくしが、ふびんなその父への孝道に、最、最後の孝道までに、いいませぬ! 口がさけても申しませぬ……ご、ごめんくださりませ!」
いったかと思うや、ひそかに用意していたとみえて、懐中から一服を取り出すと、あっというまもあらず、みずから毒を仰ぎました。
「やい! な、な、何をしやがるんだ。たいせつな玉に死なれちゃ、あとのほねがおれらあ。吐けッ、吐けッ」
うろたえて伝六がまごまごとしながらしかりつけたが、もうおそい。
「死ねば罪のおわびもかない、父への孝道もたちますはず。たって父の居どころ、お槍のありかを知りたくば、ともども、あの世へおいでなさりませ……」
しかし、右門の目が二つある。
「しようがねえや。ぴかりと二度ばかり光らしてやろうよ」
おどろきもせずに、へやからへやを調べてみると、
助宗もまた同様、いちはやく姿を消したにちがいない。その居間とおぼしき一室にはいってみると、まず目に映ったのは大きな仏壇でした。
しかし、
そのかわりに、無言のなぞを秘めながら、
「ウフフ。どうだよ、伝あにい。まずざっとこんなものだ。むっつり右門の目が光ったとなると、事は早いよ。野郎め、お槍をひっかついで
「はてね、高野とね。お大師さまが何かないしょでおっしゃりましたかい」
「いったとも! いったとも! あの女、なかなかしゃれ者だよ。行き先を聞きたけりゃあの世へ来いとぬかしたが、お大師さまがこのとおりちゃんとあの世からおっしゃっていらあね。このご尊像があるからには、宗旨は高野山だ。おまえなぞ知るめえが、高野はこの世のあの世、ひと足お山の寺領へ逃げ込めば、この世の罪は消滅、追っ手、
「ちくしょうッ。たまらねえね。とっ走りを追っかけて、遠っ走りとはこれいかにだ。お大師さま、たのんますぜ! さあ来い、野郎だッ」
うなりをたてながら飛び出していったかと思うまに、伝六得意の一つ芸、たちまちそろえたのは替え肩六人つきの早駕籠二丁です。
「できましたよ! ひと足おくれりゃ、野郎め、ひと足お山へ近くなりゃがるんだ。急いだッ、急いだッ」
「あわてるな」
制しておいてふところ紙を取り出すと、どこまでも行き届いているのです。
「町役人衆に一筆す。
八丁堀右門検死済み。死体はねんごろに葬ってとらすべし。
ただちにお城内、お濠方畑野
さらさらと書きしたためて、岩路の背にのせておくと、ひらりと駕籠へ。
「早だッ 早だッ。じゃまだよ! のいた! のいた!」
かけ声もろとも、ひた、ひた、ひたとまっしぐらに品川めざして駆けだしました。