職に苦しむ
一九二三年の五月になって、私の生活は、……内的生活も、実際生活も……全く一変した。私は従兄弟の世話で再び市役所に逆戻りすると同時に、二年の間恋し合っていた女と結婚をした。その結婚がまた親に逆らった自由結婚だったので、今までは幾らかずつの補助を受けていた親からも全く構ってもらうことが出来なくなり、私は自分の腕一本で、貧と闘いながら自分の目的への途をすすまなければいけなくなった。 私は結婚をしてから暫くの間は、妻と共に詩ばかり作っていた。創作の方の収穫は秋までに、短篇小説を七篇と戯曲を一篇きり書けなかった。宮地嘉六氏と内藤辰雄氏の鞭撻のお蔭で、かなり力の入れどころも知ったように思ったが、八月号の「新興文学」誌上で、宮島新三郎氏から、内面描写が足り無いという評を受けてからは、私は自分の力がスプリングのように撥ね上がったように思った。 私は震災の時には、二人の鮮人を救おうとしたので、もう少しで殺されるところであった。――その当時のことを詳しく書いた「恐怖の巷」は、近い中に単行本で出版されると思う。――その揚句にはまた、私は複雑した関係から市役所を馘首になり、妻と二人で浮草のように漂泊しなければならない身となった。そして遂には、寒い真冬を目がけて北国の田舎へ行かねばならなかった。私達はその時泣いた。 田舎では、私は半労働をしながら創作を続け、妻は呪われた自分達の運命を泣き暮らした。そして翌一九二四年の早春、私が監獄部屋を背景とした長篇と、農村を描いた中篇小説とを書き上げた頃、妻は女の子を産んだ。私達の生活はなお一入苦しくなって来た。だが私達は、私がさらに五篇の戯曲と三篇の短篇小説を書き上げる間、苦しい生活の中に堪えていた。 そして私は四月の上旬に、この十篇の創作を抱いて東京に出た。どこかへ売りつけようという目論見ではあったが、つい気がひけて出来なかった。
労働しながらの創作
私が作家として立とうと決心した時既に、いつかはこういう生活が来るだろうと覚悟はしていたのであったから、別に狼狽はしなかったが、私達は全く生活に困ってしまった。どこを探しても職は無し、原稿は売れず、殆んどどうしていいか判らなかった。そこで私は筋肉労働をやることにきめたのだが、その時はもう労働を探しに行く電車賃も無かった。しかし、今になって他の道に走ったって恵まれるものでは無い! 石に噛りついてもやって見せるという気が私の心の中に起こった。宮地氏から借りた金で武蔵野村に行き、いよいよ筋肉労働を始めたのは五月の七日であった。初めの中は毎日、その日の十一時間の労働のことを思っては、瞼に泪を溜めて出て行った。だが私の生活はやがて精神的にも恵まれて来た。私は仕事から帰って来て創作をするのをその日の楽しみにした。昼の間、十一時間も労働をしながら思索した事が夜になって三四枚の原稿に変わった。「文章倶楽部」に載った「首を失った蜻蛉」も、この頃に、労働を始める前の、求職に苦しんでいた時の事を書いたものであった。私は毎日、仕事場では一篇の詩を作ってかえり、夜は大抵十一時頃まで小説を書いた。昼の間は労働をしなければならないという考えがあるので、心が全く緊張して、労働から帰って来ると、昼の間に思索に思索を練って、自分の時間になるのを待っているために、この一年は却って勉強が出来た。労働をして帰ってから、長篇を書く時などは、一晩の中に十五六枚書けたこともあった。そんな時は一時過ぎまでも起きているので、翌朝六時に家を出かけるのは随分辛かった。 秋になって私は、加藤武雄氏の鞭捷によって一入の努力を続けた。そして工事場では詩を作るのをやめ、休息の時間を利用して読書をすることにした。十一月には赤痢にも罹って床に就いたりしたが、私に取ってはこの年ほど勉強の出来た年はない。本もかなり厚いのばかりが二十数冊読めた。こうした労働はいいものだ。だからやっているのではないが、私は今も半労働を続けている。今この原稿を書いている私の手は、皸と罅とで色が変わっているほどだが、晩年のトルストイの手のことを思うとなんでもない。ただ、皸に貼った膏薬のために、手がこわばって困るだけだ。しかし、去年の五月から今年の一月十日までに、二篇の長篇と、短篇を十九篇書き得たのだから、いくら労働しながらでも、今年はもっと書けることと思う。
――大正十四年(一九二五年)『文章倶楽部』三月号――
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