日本プロレタリア文学全集11 「文芸戦線」作家集(二) |
新日本出版社 |
1985(昭和60)年3月25日 |
1989(平成元)年3月25日第4刷 |
一
煉瓦工場からは再び黒煙が流れ出した。煤煙は昼も夜も絶え間なく部落の空を掩包んだ。そして部落中は松埃で真黒に塗潰された。わけても柳、鼠梨、欅などの樹膚は、何れとも見分けがたくなって行った。桐、南瓜、桑などの葉は、黒い天鵞絨のように、粒々のものを一面に畳んだ。 雨が降ると黒い水が流れた。何処の樹木にも黒い雀ばかりだった。太陽は毎日毎日熱っぽく煤ばんで唐辛子のような色を見せた。作物は何れもひどく威勢を殺がれた。殊にも夥しいのは桑の葉の被害だった。毎朝、黝んだ水の上を、蚕がぎくぎく蠢めきながら流れて行った。 * 「――俺家の鶏ども、白色レグホンだって、ミノルカだって、アンダラシャだって、どいつもこいつも、みんなはあ、黒鶏みてえになってるから。」 「何処の家のだって同じごった。俺家の鵞鳥を見てけれったら。何処の世界に黒い鵞鳥なんて……。俺は、見る度に、可笑しくてさ。」 「雪のように白かったけがなあ!」 「俺はな、ほんでさ、西洋鵞鳥! 西洋鵞鳥! って徇れて、一つ、売りに行って見べえかと思ってるのだけっとも。」 「儲かっかも知れねえで。黒い鵞鳥! って言ったら、町場の奴等は珍しがんべから。」 「何んて言っても、腹の立つのあ、権四郎爺さ。」 「うむ。部落のためにゃあ、あの爺なんか、打殺して了めえばいいんだ。」 路傍の堤草に腰をおろして、新平と平吾とは、斯んな話をしていた。其処へ、同じ部落の松代が通りかかった。松代は、ひどく色の黒い娘だった。 「やあい! 松代さん。シャボン買いか? シャボンよりもいいもの教えっから、少し休んで行げったら。あ、松代さん。」 「余計なお世話だよ! 平吾さん。他人のごと心配するより、自分のどこの鵞鳥でも洗ってやったらよかんべね。」 松代は応酬しながら寄って行った。 「俺家の鵞鳥、西洋鵞鳥だもの、烏と同じごって、幾ら洗ったって、白くなんかなんねえのだ。松代さんのように、地膚が白くて、洗って白くなんのなら、朝晩欠かさず洗ってやんのだげっとも。」 「知らねえど思って、何んぼでも虚仮ばいいさ。何処の世界に、黒い鵞鳥だなんて……」 「嘘だってか? 西洋鵞鳥って、おめえ、随分と高値のするもんだぞ。」 寝転んでいた新平が起上りながら言った。 「幾ら高値でも、松代さんが嫁に行げねえと同じごって、煉瓦場のために、売口が無くて困ってのさ。世間の奴等、俺家の西洋鵞鳥、煉瓦場の松埃で黒くなったのだと思っていやがるからな。松埃で黒くなった松代さんば、地膚がら黒いのだと思ってやがるし……」 「頭が禿げだって知らねえから。」 松代はそう言って平吾の手を撲った。 併し、松代は調戯れながらも彼等の傍を立たなかった。 「本当に、何時まで続くもんだかな? 煉瓦場。――早く止めてくれねえど、本当に困って了うな。桑畠は勿論だども、俺は何時までも鵞鳥が売れねえしさ。松代さんは嫁に行げねえしさ。」 「そんなごとより、俺家では、何時あそごの土地を売られっか、判んねえわ。」 「何処の家でだって同じごった。」 「併し、新平氏、今度はあ容易に廃めねって話だで。」 彼等は、ふざけながらも、真面目に語り合うのだった。 * 煉瓦工場はこれで最早三度目だった。最初は奥羽本線敷設の当時に、鉄板製の低い煙突を幾本も立てて、七年間に亘って黒い煙を流したのだった。そして何町歩かの、最良質の田圃の底が、赤い煉瓦に変えられた。仕事の続いている間、部落の女達は「ぺたぺた敲き」の日傭に出た。職工が煉瓦の型に固めあげた粘土を、崩れないように陽で乾しながら、箆で敲き固めるのだった。煉瓦を縛る縄を綯って売る者もあった。馬を持っている男達は駄賃に出た。工事列車の通る線路際まで煉瓦を運び出すのだった。――当時の部落の繁昌は、何時までも、彼等の思い出となった。彼等は自分の労力が、土地を通さず直ちに金銭になることを、初めて経験したからだった。そして竈の中に投げ込まれた何町歩かの田圃の底も、別して彼等の自給自足の生活を欠かさせなかったから。 第二期は、陸羽線敷設の当時、九年間に亘った。鉄板製の煙突の代りに、赤い煉瓦造りの大煙突が、遠くの遠くから敵視の目標となった。黒煙は煙突から直かに雲に続いた。そして煤煙の被害は遠方の部落にまで及んで行った。煉瓦を積んだ荷馬車が、何台も何台も、工事中の仮駅へ向けて行列をつくった。道路には幾本もの深い轍が立って、九年の間、苗代のような泥濘が続いた。最良質の田圃は片端から掘荒されて行った。質のいい米を結ぶ田圃の底からでなければ最上質の煉瓦は出来ないからだった。併し、耕地が減って行くのに、其処から投げ出された小作人達は、代りの職業が容易に見つからなかった。むしろ、絶対に! だった。第一期当時にあった煉瓦場の方の仕事「ぺたぺた敲き」や煉瓦運搬の駄賃や縄綯いなどは以前からの熟練した人々の手で沢山だったからである。そのために北海道の開墾地へ移住した者があった。部落の東北部を起伏しながら走っている丘の中腹に歯噛みつき、其処に桑園を拓いて、これまで副業にしていた養蚕を純然たる生業にした数家族があった。 第三期は、第二期九箇年の後に、一箇年を置いて始められた。 第一期第二期は何れも鉄道敷設の工事材料を目的に焼いたのだった。だから工事の完成と同時に竈は閉された。併し第三期の今度は、投資の目的で始めたのだった。同じような煉瓦造りの大煙突が三本になった。第一期第二期当時に完成された鉄道が、容易に運び去ってくれると云う点から、最早その土地の鉄道工事と云うような供給の対照を考慮に入れる必要は無かった。全国が供給の対照であった。粘土質の土地を手放す者さえあれば、何時まで続くかわからない事業だった。
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