五
饂飩屋の横を、嘉三郎は、黙って奥へ這入って行った。庭に栗の木が一本あって、濡れ葉がばらばらと、顔に触れた。そして、栗の花の香が鼻に泌みた。 ちょうどそこへ、忠太郎がどこかへ出るのらしく、立て付けの悪い板戸を開けたので、薄い光が、幅広い縞になつて流れ出して来た。 「忠太郎!」 嘉三郎はそう声をかけた。 「あれ! お父さんだぞ。美津! お父さんが来た。起きろ。」 忠太郎は狼狽しながら言った。 「美津の病気はどういう具合だ?」 嘉三郎はそう言いながら中へ這入った。 「お父さん!」 美津子は寝床の上へ起き上がって凝っと父親の顔を視詰めた。 「寝てろ! お前が病気だっていうから来て見たのだが、病気は、どんな具合だ?起きてでいいのか?」 「風邪を少し引いて……」 横から忠太郎がそう言った。 「今時の風邪は永引くもんでなあ。それにしても、風邪ぐれえなら、安心だ。母親が心配してたぞ。」 「お父さん!」 美津子はそう遣る瀬ないように叫びながら、布団に顔を押し当てて、静かに歔欷いた。 「美津! 俺が来たのに泣いたりするなあ。泣くなら帰るで。」 併し、嘉三郎の頬にも、涙が伝わって来ていた。 「そこに栗の木があるな? 這入って来るどき、葉の雨滴が顔さかかって……」 嘉三郎はそう言って眼のあたりを拭った。 「お父さん! 今まで黙っていて、本当に申し訳のねえことで。恩を忘れたようなごとして……」 「何を水臭いことを言うんだ。それより、何だってこんなところにいるんだ。東京さでも行けばいいじゃねえか? こんなどこで俺の恥まで晒すより、東京さでも行けばいいじゃねえか? 馬鹿な奴等だっ! 東京さでも行って立派になって来う! 忠太郎!」 「それも考えでいだのです。併し、お父さんの方に誰も稼ぎ手がいなくなるごと考えたりして……」 「馬鹿なっ! 稼がせるために忠太郎を美津の聟にしたとなると、それこそ、世間さ顔向けが出来なくなる。何も心配しねえで、自分達だけ、立派になって来う。」 「それより、お父さんさ、酒でも買って来たら?」 美津子は漸く顔を上げて言った。 「酒か? 酒なら呑んで来たばかりだ。酒より話でもする方がいいで。」 嘉三郎はそう言ってとめたが、忠太郎は黙って、そそくさと出て行った。 「お父さん? 本当に悪いことして。」 美津子は又そう言って布団に顔を当てた。 「何も悪いことなどねえで。忠太郎はあれでなかなか偉いところのある奴だ。俺も目をつけていた奴だ。こんなに近くにいてあ、何をしてんのもすぐわかってしまうから、東京さでも行って立派になって来う。この辺なら、俺の名を知っている奴もいるに違えねえが、お前がこんな豚小屋のようなところにいてあ、俺だって気持ちがよくねえからなあ。お前の病気が癒ったらすぐ東京の方さでも行くさ。」 「ここで旅費を稼ぎ溜めてから、お父さんにも相談して、それから東京の方さでも……」 「旅費を稼ぎ溜めるって、何か、仕事があんのか、金なら、百円は少し欠けるけども、持って来てやった。これで、どこへでも、落ち着くんだな。」 父親の嘉三郎はそう言って袂からそこへ金を掴み出した。美津子はぎらぎらと濡れた眼に驚異の表情を含んで凝っと父親の顔を見た。二人ともそして何も言うことが出来なかった。 「美津! お前は少し痩せたでねえか?」 嘉三郎は、しばらくしてから娘の手を握った。
六
雨の中を、嘉三郎は、朝飯前に自分の家へ帰って、炉端へ坐ったまま黙っていた。 「美津はどうしていたかね?」 松代は不安そうにして聞いた。 「何も心配しねえでいいだ。」 嘉三郎はそう言ったきりで、また黙りつづけた。 そこへ、近所の百姓女が来て、上り框へ腰をおろした。 「美津ちゃんは、近頃、どこかへ行ってますか?」 百姓女はそう突然に聞いた。 「東京へ勉強にやりましたよ。今時は、女でも、学問がないと馬鹿にされますでなあ。兄妹で行ってるんですあ。」 嘉三郎はそう髭を稔りながら言った。そのとき、ふと嘉三郎は、昨日、頬髭の逆剃をしていないのに気がついた。彼は髭を捻りながら立ち上がった。 「馬鹿に栗の花の匂いがするなあ。松や! 今年の秋は、栗を沢山採って、東京さ勉強に行っている奴等に送ってやれよ。」 嘉三郎はそう言いながら、剃刀と鏡とをもって、縁側へ出て行った。
――昭和七年(一九三二年)『若草』八月号――
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