四
菊枝は襟を弄りながら表へ出て行った。 「ほんじゃ汝あ、片岡さ寄れよ。俺、真っすぐに田さ行んから(父つぁんは田さ真っすぐに行ぎした)って……」 春吉が背後から声をかけたが、菊枝は何も答えなかった。彼女の眼には、いっぱい涙が溜まっていた。 本当に、豊作さんの言った通りだ! と菊枝は思った。「馬鹿らしくって、こんな田舎にゃあいられねえ。東京さ行って電車の車掌にでもなれば、まさかこんなに、牛馬のように使われねえだって。それにこうしてたんじゃ、いつ一緒になれるか判んねえし……」こう豊作が、今朝、田の水を見に来て、彼女に草刈りを手伝いながら言った言葉が、今、菊枝の心に再び判然と浮かびあがって来た。 豊作の家も、菊枝の家と同じように、貧しい、小さな小作百姓だった。なまじっか小作百姓をしているおかげで、豊作も菊枝も、日傭を取りに行く日でさえも、短い夏の夜を、暗いうちに起きて、朝のうちに自分の家の仕事をして行かねばならなかった。 豊作さんは、あんなに言ってくれるんだがら、一層のことあの人と一緒に東京さ行ってしまおう! 菊枝は手拭いの端を噛みしめながらこう呟いて、力なく歩いて行った。 パラソル一本買ってもらわれねえなんて。――そうだわ、そうだわ、豊作さんの言った通りだ。「俺等みでえなもの、こんな田舎にいたんじゃ、うだつがあがらねぇ。田作れば小作料が高えくって、さっぱり徳がねえし、馬鹿馬鹿し。日傭稼ぎに行ったって賃金が廉いし、なにしたって、売るもの廉ぐって、買うもの高んだから、町の奴等ばり徳さ。」と言った豊作の言葉を彼女は実際だと思った。 町の人達が、田舎の金をみんな持って行ってしまうことは、爺さんも言っていた。自分の町場へ生まれなかったことを彼女は残念に思った。町場の娘達は、どんな貧しい家の娘でも、自分よりは幸福であるように彼女は思った。 母さんが生きてでくれたら……と、菊枝は死んだ母のことを想い出した。涙がまた、ほろりとまろび出た。彼女は手拭いの端で眼を押さえた。
五
その日、菊枝は一日中憂鬱だった。 明日は六社様のお祭りだ! 明後日は、祭りの翌日で、草臥れ休みだ。彼方此方の田圃に散らばって田の草を取っている娘達は、皆んな歌ったり巫山戯たり、大変な元気だった。併し菊枝だけは、終日黙々としていた。 「菊枝つあん。明日、行ぎしべ?」と川向こうから声をかけた友達にも、彼女は、微笑みを口元に浮かべて首を振って見せただけであった。 夜になって、片岡の家に日傭を取りに来た十幾人かは、夕飯の時から乾燥きっていた。今夜は勘定だ。明日は祭りだ。明後日は草臥れ休みだ。その意識はみんなの心を浮き立たせていた。そうして巫山戯させた。併し、菊枝と春吉とは父娘揃ってふさぎ込んでいた。他人が冗談を言っても、春吉と菊枝とは、微かな笑いしか笑わなかった。菊枝は常に落ち着いた娘ではあったが、今日は、落ち着き以上のものだった。 「菊! 父つあん、これがら町さ行って、髭剃って来っかんな。」 帰りの途を、途中まで来ると、春吉はこう言って町の方へ行った。菊枝はそれにも、仄暗い中で、眼で挨拶したきりだった。併し、それから先の夜路を、豊作と二人だけの語らいを語ることの出来るのは、彼女にとっては、嬉しいことであった。 「ほんじゃ、明日の二時の汽車にしんべかな?」と豊作は、前々からの約束を、そして今朝の取り定めを、再びそこに持ち出した。 「ほだね。ほうしっと、東京さは、何時着ぐの?」 菊枝の心の動きは、今は判然と決定されていた。誓ったとは言え、今朝の約束までには、自分の心のどこかに、自分ながら、疑わしい分子が折々頭を擡げていた。併し今は、なんの疑いもない決意に満たされていた。彼女は心に一種の衝動を感じた。全身が微かに顫えた。 「ほんじゃ、二時半までにゃ、停車場さ来んのだぞ。俺、先に行って、切符買って置っから…… ここの停車場でなぐ中新田停車場さ。」 「着物なんかはあ、なじょしんべね?」 「着物なんか、東京さ行ったら、俺、いい流行の着物買ってけるから……」 いつか二人の手は、仄暗の中に握り合わされていた。
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