2
鉄管工場の職工たちはひどく吉本に同情した。彼はその後も、幾度かその発作的症状に襲われつづけていたから。 しかし、彼の発作的症状はたいてい、すぐ回復してしまうのが常であった。 彼の発作的症状は夕立のように知人の間を騒がせて、その日一日は頭を振りふり意識を失ったもののようにしているのであるが、翌朝になるともう何事もなかったもののようにして、いつもと同じように工場へ出てくるのであった。 「吉本! あんな奴のことはもう忘れてしまえばいいじゃないか?」 こんな風に工場の人たちは言った。 「女のことででもあるなら、いつまでも忘れられねえってこともあるだろうが、ほかのことと違って、そんな裏切者のことをいつまでも思い切れずにいちゃ、運動なんかできないじゃないか?」 鉄管工場の中の同志たちは、そんな風にも言った。 吉本はすると、いくぶんか顔を赧らめるようにしてにやにやと微笑みながら、昨夜の夢の中の出来事をでも思い出すようにして言うのであった。 「自分でもそう思っているんだがね。しかしどうにもならないんだ。だから、永峯のことを思い詰めていると発作が起こるというのじゃなくて、永峯の奴がおれの頭をそんな風に作り替えていったんだ。ぼくだってもう、永峯のことなんか忘れているんだから」 「永峯の奴め、仕様のねえ奴だな。工場の中の組織は作り替えやがらねえで、吉本の頭なんか変に作り替えやがってさ」 職工たちはそんな風に言ったりした。 「しかし、もう大したことはないんだ。すぐよくなるよ」 吉本はこう言って、平常は少しも変わったところがないのだが、ときには、そう話している途中から発作に襲われることがあった。 発作に襲われるときの吉本は、その直前まで少しも変わった様子がなくていて、突然に相手の頭部を殴りつけるのが常であった。 「なんだえ? きさまは? 冗談はよせ!」 冗談をしているのだと思って吉本の顔を見ると、彼の顔はもう変に緊張してしまって、静かに頭を振りふり怪訝そうに相手の顔を見詰めているのであった。 「なんだえ? 吉本! 冗談じゃねえのか?」 しかし、吉本はその時にはもう何事も判別がつかぬらしく、そしてそれ以上には狂暴になるらしくもなく、ただじっと相手の顔を見詰めているだけであった。ときどき静かに頭を振りながら。
3
鉄管工場の経営者側にとっては、もっともいい機会がやって来た。なんらそのきっかけになる事件がないだけで追放することのできずにいた人間が、狂暴な発作を起こすようになったのであるから。 吉本は人事係の前に呼び出された。 「きみは近ごろ、少し具合が悪いそうじゃないかね? いったいどんな風なのかね?」 こんな風に人事係は言った。 「別に大したことはないんです」 「きみは大したことがなくても、一緒に働いている者はずいぶん迷惑らしいからね?」 微笑みながら人事係は言った。 「少し工場を休んで、静養してみてはどうだね? 取り返しのつかないようなことになると、あとで後悔してみたところで仕方がないから……」 「それはそうですが、ほくはいますぐ工場を休むとなると、生活ができないんです」 「静養するようだったら、工場のほうから幾らか金を出すから、まあ、ゆっくり静養するんだね。そして、回復したらまた来たらいいじゃないかね?」 「しかし、大したことはないんですよ。ただこうして話しているうちに、なんかこう……」 吉本はそう言いながら、人事係の机の上からインク・スタンドを取ってそれを手にしたかと思うと、人事係の頭部を目がけて投げつけた。 「おいおい! 何をするんだ? 冗談はよせ、冗談は!」 麻の白服をすっかりインクだらけにされて、人事係はうろたえながら言った。 しかし、吉本にしては決して冗談ではなかったのだ。彼は静かに頭を振りながら、怪訝そうな目でじっと相手の顔を見詰めているのであった。 そしてとにかく、吉本は幾らかの金を貰ってその鉄管工場を追い出されていった。
4
吉本が郊外のとある丘の上に永峯の家を訪ねていったのは、彼が工場を追い出されてから約一週間ばかりの日が経ってからであった。 永峯がそこに、ある一人の女性と家を持ったのはひどく突然であった。 彼の友人のだれもが知らずにいたほどで、永峯ともっとも親しかった吉本でさえ、一か月あまりも日が経ってから、ある偶然のことで知ったほどであった。――そういう意味から、突然というよりも、むしろ秘密にされていたというべきであった。少なくとも、吉本の受けた感じは秘密なプログラムであった。 鉄管工場の人たちが観察しているように吉本が憂鬱になったのは、永峯が彼らを裏切って行方を晦ましたからではなかった。――正確に言うと、永峯の裏切りに対して吉本が憂鬱になりだしたのは、行方を晦ましていた永峯を発見したその日から始まっていた。――というのは、実は永峯の行方を見失うと同時に、吉本はある一人の女性の行方をも見失ったからであった。 吉本は、自分から同時に姿を晦ましていったこの二人の友達を、まず、その秋川雅子という女性の行方から捜しにかかったのであった。 最初に、吉本が中学校からの友人、秋川の妹の雅子を知ったのは、彼が高等学校に入ってから間もなくのことであった。そして、吉本はやがて秋川の妹の雅子をひどく愛しだしたのであった。が同時に、永峯もまたそのころから彼女を愛しだしていることを知ったので、彼は自分の愛情を結婚に向かって進めることをやめてしまったのであった。親しい友人の間で彼女を奪い合うというようなことがいやだったからでもあったが、本人の彼女の態度がだれのほうをより多く愛しているのか、どうしてもはっきりとしなかったからでもあった。 そして、彼らは自分たちのほうからも、なるべく彼女のことを忘れようと努めた。彼らが工場へ入って労働運動というような仕事に身を投げ出したのも、ある意味ではその積極的な一つの表れということができた。 しかし、彼らはやはり、容易に彼女のことを忘れることができなかった。 「おい! 秋川のところへ行ってみようじゃないか。秋川はぼくらとは階級が違うから、思想的に立場が違うから、仕事は一緒にやっていけないが、友人として、その友情だけは続いているのだから……」 彼らはそう言って、よく秋川の豪壮な邸宅を訪ねていった。そして、彼らの共通な友情は秋川のうえに続けられていくと同時に、妹の雅子のうえにも同じように続けられていた。 そんな風にしているうちに、永峯が突然どこかへ姿を晦ました。吉本はなにかしら片腕の自由を失ったような寂しさから、ほとんど毎晩のように秋川を訪ねていくようになったのであったが、彼はふと、妹の雅子の姿がいっこうに見えないことに気がついた。 「雅子さんはどうしたんだね? 少しも見えないね」 吉本はとうとうこんな風に訊いた。 「雅子は恋をして、この家を出ていってそのまま帰ってこないんだ。たいがいの見当はついているんだが、ぼくがわざと捜しに行かないんだ。父や母はいろいろ言っているんだけど、ぼくの考えでは、彼女の自由を束縛するわけにはいかないからね」 秋川はそんな風に言ったきりであった。 吉本はそこで、彼女の行方を捜しだしたのであった。永峯が自分を裏切ってどこかへ行ってしまった以上、雅子のうえに自分の愛情をどんなに進めようと差し支えはないのだと考えたから――。しかし、いよいよ彼女の住んでいる家を捜し当ててみると、そこに永峯の表札がかかっていたのであった。 吉本はそれを見届けておいただけで、彼らの平和と幸福とを掻き乱すようなことはしなかったが、鉄管工場のほうを追い出されてみると、やはり秋川と永峯のところよりほかには訪ねていくところもなかった。
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