佐左木俊郎選集 |
英宝社 |
1984(昭和59)年4月14日 |
一
房枝の興奮は彼女の顔を蒼白にしていた。こんなことは彼女にとって本当に初めてであった。その出張先が自分の家と同じ露地の中だなんて。彼女は近所の侮蔑的な眼が恐ろしかった。しかもそれが同じ軒並みのすぐ先なのだから。彼女はすぐそのまま自分の家に帰って行く気はしなかった。彼女は日頃から親しくしている小母さんの家へ裏口から這入った。小母さんの家は、雇われて行った家の一軒置いて隣になっていた。小母さんは内職の造花を咲かせていた。 「小母さん! お隣のお隣は、何を職業にしているの?」 「お隣のお隣? 楽そうだろう? 泥棒をしているんだって。」 「泥棒? 厭あな小母さん! そんな職業があるの? 泥棒だなんて……」 房枝は微笑んで袂で打つ真似をした。 「そりゃ、不景気だもの、何だって、出来ることはしなくちゃ。泥棒だって何だって、食って行ける者はいいよ。」 「でも、少しおかしかない? 泥棒だなんて……」 「職業なら、何もおかしいこと無いじゃない? 食って行くためなら、どんなことだって、しなくちゃならない時世なんだもの。」 真面目な顔で小母さんは造花を咲かせ続けた。紫の花。褪紅色の蕾。緑の葉。緋の花。――クレエム・ペエパァの安っぽい造花であった。 「それはそうだけれど、そんなことをしていて掴まらないのかしら?」 「そこが職業だもの。掴まってばかりいたら、職業にならないじゃないの。小父さんなんかも(掴まらなけりゃあ、やるがなあ……)って言っているんだけど、小父さんのような野呂間なんかにはとても出来やしないんだよ。」 「でも、随分変な職業もあるもんね。そりゃ、わたしの職業なんかも、随分変なものには違いないけど……」 「働いてお金を取って来る分に、何だって同じことさ。自分の好きなことばかりしていちゃ、お金にならないんだから。」 「それでは、わたしなんかも、肩身を狭くしていなくたっていいわけね。――じゃ、威張って帰るわ。」 房枝は赤い緒の下駄を持って、裏口から表玄関へ座敷の中を横切った。 「もう帰るの? 遊んで行けばいいのに……」 「こうして、小母さんの家から出て行くと、誰が見たって、小母さんのところへ遊びに行っていたのだと思うでしょう? ねえ!」 彼女は格子戸に掴まりながら朗かに微笑んで出て行った。
二
房枝は三日過ぎると、また同じ家に雇われて行った。その家は四十前後の独身の男の世帯であった。洗濯物が二三枚あった。家の中は三日前に掃除して行ったままで別段に汚れてはいなかった。併し彼女は一通り形式だけの掃除をした。 「休んでおいで。掃除なんかどうでもいいんだから。」 彼は腹匐いながら言った。 「まあ、そこへお坐り!」 読みかけの雑誌を伏せて彼は命令的に言った。 「でも、ちょっと、掃くだけでも……」 「別に汚れてないんだから、いいんだよ。まあ、お坐り、そこへ。」 「では、これを置いて来ますから。」 房枝は箒を片付けてから、身繕いをして二階へまたあがって行った。彼女は男から三四尺ほど離れて坐った。そして薄く白粉を掃いた顔をうちむけた。 「房枝さん! ――房枝さんって名だったね? 一昨昨日、あの婆さんから、幾らもらったかね?」 「五円でしたわ。」 「五円? じゃ、儂が渡した半分も、おまえの手には渡ってやしないんだね。――本当に五円だけなんだねえ?」 「え。本当ですわ。」 「あの婆め!そんなぼり方ってあるもんか。――儂は出張して来たばかりで、手許に少し余計にあったもんだから、拾円でいいというのを、おまえに余計やってもらおうと思って、拾五円やって置いたんだ。それを五円きり渡さないなんて……」 憤慨したようにして彼は言った。 「房枝さん! どうだ! これから、あの婆さんを仲に立てないで、直接にしようか?」 「でも、紹介してもらっていて、そんなことしちゃ……」 「悪いことなんかあるもんか。――じゃ、とにかく、今度来るとき、儂が一緒に来るように言ったからって、あの婆さんを一緒に伴れて来るといい。明後日来るとき。」 「今日ぐらいの時間でいいんですか?」 「ああ、いいよ。」 彼は畳の上にばたりと腕を匐わした。 「房枝さんは、実に綺麗な手をしているね。」 彼は言いながら房枝の手を執った。
三
房枝は雇われて行った家を裏口から出た。そして裏口から小母さんの家に這入った。小母さんはいつものように濃彩色のクレエム・ペエパァを切っていた。 「ねえ。小母さん! 泥棒でも、なんかこう、泥棒の勤める会社、というようなものがあるのかしら? 少しおかしいわね。」 「泥棒の会社? そんな馬鹿なものがあるもんかね。」 「だってね。小母さん! あの人はね。そら、お隣のお隣の、あの人は……」 「今日もあそこだったの?」 「そうよ。――ねえ。小母さん! あの人は、出張して来たって言ったわ。だから、会社のようなところでもあるのかと思って。」 「あの人の出張って、どこか遠くへ泥棒に行ったことを言っているんだよ。」 「あら! それを出張っていうの? なかなか洒落ているのね。――でも、小母さん、掏摸なんかには、なんかそんなところがあるそうじゃないの?」 「掏摸のことは知らないけど、併し泥棒会社だなんて、そんなものはないだろうよ。個人経営なんだよ。例えあったって、あの人はそんなところへ勤めて働く人じゃないよ。あの人はとても物事のわかっている人なんだもの。――つまり、そんなところへ関係すると、働きもしない奴に、頭を刎ねられるだろう? それが馬鹿らしいというのさ。あの人に言わせると。――ねえ、房ちゃんも、あんな皺苦茶婆さんに頭を刎ねられているよか、自分で、個人経営にしちゃったらどう? 五割も六割も頭を刎ねられて、馬鹿馬鹿しいじゃないの?」 「馬鹿馬鹿しくたって、わたし、そんな交渉は出来ないんだもの、仕方がないわ。――でも、いくら職業だからって、随分変なものね。雇いたいっていう人があるって、お婆さんが伴れて行ってくれるから、どこへ行くのかと思って従いて行って見たら、自分の家の前を通ってさ、あの家じゃないの? ――いくらなんでも、自分の家の近所へ行くのだけは厭だわ。」 「だから、何もかも、自分でやったらよかない? 呼ばれて行ったとき、呼んでくれた相手の人がいい人だったら、すぐ(いつかまた呼んで下さいね。そして今度は直接にして下さい。私のところはここですから……)って、頼んで置いたら、先方でだって、かえってその方を欣ぶかも知れないしね。」 「それはいいわね。小母さん! あの人もそんなことを言ってたわよ。これからは直接にしようかって……」 「あの人は、とても物事のわかっている人なんだもの。あの人は泥棒はしても、ちゃんと理屈に合った泥棒をしているんだよ。――つまり、あの人に言わせると、金持ちなんて者は、貧乏人が、あくせくして働いたお金を掻き蒐めて金持ちになっているのだから、言って見れば泥棒のようなもんで、その泥棒の上前を刎ねて来て、最も困ってる貧乏な人達にわけてやるのだったら、たとえ泥棒とは言え、何も悪いことは無いじゃないかっていうのさ。――立派なもんじゃないの? 宅なんかでも、困って少しお金を借りて、そのままもらってしまったことがあるけど……」 「悪くないわね。それなら。――じゃ、小母さん、わたし帰るわ。」 「また籠抜けかい? 店屋なんかでだと嫌うらしいけど、宅なんかじゃ構わないから、なんなら、行くときにも、宅へ来て、宅の裏から出て行ったらよかない?」 「そうね。それがいいわね。今度そうさせてもらうわ。」 房枝はまた赤い緒の下駄を手にしてその部屋の中を横切った。
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