恐怖城 他5編 |
春陽文庫、春陽堂書店 |
1995(平成7)年8月10日 |
1995(平成7)年8月10日初版 |
1995(平成7)年8月10日初版 |
1
都会は四つの段階をもって発達し膨張するのを常とする。海港の街は、まずその触手を海岸へ、海岸の空地へと伸ばしていく。田舎の小さな町でさえ、そこに一本の河川が流れていると、河岸へ河岸へと水に向けて広がっていく。そして、水際に猫の額ほどの空地もなくなると、第二段階としてその郊外に向けて農耕地域の上に触角を伸ばしていくのだ。その機構の許す限り、どこまでもどこまでも広がっていく。しかし、ここまではほんの広がるだけに過ぎない。広がり切れなくなったところで、初めて膨張が始まる。まず空へ! 建築という建築が空を目がける。上層建築が建ち並ぶ。太陽のない街が続く。街上に太陽が照らなくなると、第四段階の発達として、容易に地下の街が構成されるのだ。地下工場! 地下住宅! そして第五段階は? それはもはや都会の膨張発達を示す段階ではなく、地下と地上との対立を示す新しい出発点なのだ。消費者の占めていた地域の上に初めて生産者が氾濫し、生産者群の地帯が膨張するのだ。 東京はいまその第二段階の軌道を踏んで、西郊一帯の農耕の地域に向けて広がりながら失業者を生んでいる。そして、社会のその宿命的な約束から逃れようとする人間の往来で、街上は朝の明け方から夜中まで洪水のような雑踏を極めている。わけても、新宿駅前から塩町辺にかけての街上一帯は日に日にその雑踏が激しくなるばかりだ。 吾平爺は毎朝この雑踏の中を駆け抜けなければならないことを考えると、骨の底からの緊張を感ずるのであった。新宿駅前の、洪水のように吐き出されてきて四方へ散っていくあの人間の潮! そして市内電車。草色の市営乗合自動車。水色の市営乗合自動車。その間を無数の円タクが鼓豆虫のように縫い回るのであった。 貨物自動車や自転車の間に挟まれて、雑踏に押し揉まれながらよちよちと重い荷車を曳いていく自分を、吾助爺は奔流の中に渦巻かれながら浮き沈みして流れていく木切れか何かのように感ずるのだった。 吾助爺はこの洪水のような雑踏の中を押し切って、毎朝神田の青物市場へ野菜物を満載した荷車を曳いていくのだった。
2
青バスが爆音を立てながら徐行を始めた。二、三台のタクシーがその後へつかえた。貨物自動車が停まった。吾平爺はその煽り風を浴びて、自分の重い荷車が押し倒されるような気がした。爺は事実、よろよろとふた足ばかりよろめいた。 「どうしたってんだい!」 敷石道のほうへ荷車を引き寄せながら爺は怒鳴った。 貨物自動車や市営バスやタクシーは、二十間(約三六メートル)ほど先の交差点のところからつかえてきていた。そこには、群衆が真っ黒な垣をぎっしりと作っていた。 「何があるってんだい? お祭り騒ぎべえなくさって!」 爺はもう一度そう怒鳴って、そこに立ち停まった自動車の間を縫ってようやく前のほうへ出ていった。青物市場の出場時刻が切れるので、爺はうっかりしていることができなかった。 「どうしたんだね? 何さまがお通りになるのかね?」 ようやくその人垣の背後まで辿り着いたとき、吾平爺はそのいちばん後ろに立っている一人の学生を掴まえて訊いた。 「そうじゃないんです。今日ここで、活動の俳優を呼んだんだそうです。それでみんなこうして、その俳優の来るのを待っているんでしょう」 「活動の俳優って、つまり、活動の役者だね?」 「ええ、それに、外国の有名な活動俳優も来るとかいうので……」 「いずれにしろ、それじゃ大したこっちゃねえわけだね? おれ、何さまかのお通りだと思って……役者っていやあ、なんでえ、芸人じゃねえか。じゃ……」 爺はそう呟いて、その人垣を打ち破って通り抜けようとした。だが、それは容易なことではなかった。その人垣は交差点の角に空を覆うて建った大百貨店の前から、幾重にもなって街上へ氾濫しているのであった。ちょうど街路を一つ隔てた向かい側に、同じような百貨店の大建築が出来上がり、その開店大売出しが今日だというので、こっちでも負けずに客を取ろうというのであった。建物全体をイルミネーションで包み、飾窓には、これから顔を見せにくるはずのシネマスターの大きな写真が何枚も貼り出されてあった。そして、都合によっては来朝中の某国映画俳優も来てくれるはずになっているということが群衆の噂の焦点になっていた。そのうえに、百貨店ではこれまでになかったほどの廉売を催し、それになおいろいろの景品を添えていた。群衆は窓から投げられたひと塊の砂糖を目がけて集まる蟻のように、百貨店の取った商策に雲集してきたのであった。 しかし、爺はどうしてもそこを突き抜けなければならなかった。そして、その群衆のいちばん背後のほうへ回ればどうにか通れないことはなかった。 「ほら、ほら、少しどいてくだせえ」 爺はそう言って、車の梶棒で人々を掻き除けるようにした。 「おい! 気をつけろ! 老耄め!」 「こんなところへ荷車を曳いてくる奴があるか?」 罵倒の言葉を怒鳴りつけながらも、爺のために人々は少しずつ道を空けた。爺は一所懸命だった。なんと言って罵られても言葉を返さずに、人垣の薄れていくところを目がけては車を曳き進めた。 「こらこらっ! そんなところへ車を曳いてきちゃ駄目じゃないか? これが見えんか?」 青白筋の腕章を巻いた警官が怒鳴った。交差点のGO・STOPはいまSTOPの字版を示していっさいの交通を遮断していた。 「他人の迷惑になるのが分からんか?」 しかし、吾平爺はそのままそこに立ち停まってしまうわけにはいかなかった。いまそこに立ち停まることは、今後の生活のいっさいを立ち停まるのと同じだった。今日、もし時刻に遅れて青物市場に入場することができないとすれば、ただそれだけで彼のわずかばかりの資本はすべて消滅してしまうような結果になるのだった。爺は気が気でなかった。だが、映画俳優の来るのを気長に待っている人々のために示されたこのSTOPは、いったいいつまで続くのか分からなかった。それに、ここまで来てしまえば、もはやどこにもそこを避けて回り道をする道は一本もなかった。そうでなくてさえ、時刻はもう迫っていた。爺はそこを突っ切ってやろうと考えた。そこにどんな結果が待っているか、そんなことを考えている余裕などはなかった。爺は警官の目を盗むようにして、荷車を曳いたままいっきに駆けだした。 「やあ! やあ!」 「勇士! しっかり!」 群衆が叫びだした。そして、群衆の一角が崩れた。哄笑! 罵倒! 叫喚! 「こらこらっ! 待てっ!」 警官が飛んできて爺の腕を掴んだ。 「いかんと言っているのが分からんのか? こっちへ来い!」 「旦那さま! 市場へ入る時間がなくなりますから……」 「来いったら来い。こっちへ来い」 そして、警官は荷車を曳かせたまま爺を横町へ引き込んでいった。群衆がその後ろから雪崩れていった。
3
荷車と、それに積んである野菜物とが吾平爺の全資本であった。同時に、それは爺の全財産と言ってもよかった。今日、もしその野菜物を神田の青物市場へ曳いていくことができないとすれば、吾平爺の資本は全部消滅してしまうのだった。同時に、爺の生活もまたそこでまったく断ち切られるわけだった。 都会の膨張につれ、郊外の農耕地域の所有価値が激しく暴騰したので、郊外の地主たちは小作人たちからその土地を取り上げて都会の人々に住宅地としてそれを提供した。そして、吾平爺は耕作価値と所有価値とそのギャップにおいて、農村失業者群の中へ投げ込まれたのであった。それまでの吾平爺はわずかばかりの小作地を耕すかたわら、集落内の農家に雇われていったのであったが、耕地が住宅地になるにつれ爺を雇ってくれる農家はしだいに少なくなっていった。小作地は取り上げられ、吾平爺はどうにも生活の途がなくなっていった。 そこで吾平爺が思いついたのは、ただ一人の娘である鶴代を奉公に出すことであった。それは吾平爺も娘の鶴代も、二人が共に飢えずに済むただ一つの思いつきであった。吾平爺のそういう思いつきは、娘の鶴代を売り残しておいたただ一つの品物を思い出すようにして思いつかせた。爺はいくらかの前借りをして、鶴代を東京のある下宿屋へ女中奉公に出してやった。そして、自分は日雇いの仕事を漁り、それで娘からの仕送りを補ってどうにか暮らしていった。 しかし、娘の鶴代は半年あまりで帰ってきてしまった。吾平爺はひどく驚いた。鶴代は妊娠していたのであった。吾平爺は自分たちの生活について、まったく途方にくれなければならなかった。だが彼女は、その妊娠を慰藉する意味で相手の男からちょっと纏った金を貰ってきていた。吾平爺はその金を元手として、自分と娘の生活のためにもう一度奮い立たなければならなかった。 鶴代の貰ってきた金は一台の荷車と、それに満載する野菜を買い入れるのにちょうどだった。吾平爺は一台の古い荷車を買い、近所の農家から野菜を買い集めて、毎朝それを神田の青物市場へ曳いていくことにした。そして、その日の売上金を翌日の野菜購入費と生活費とに充て、そしてまた、その翌日の売上金のうちから次の野菜購入費を割き、生活費を割いてそれを繰り返していれば、それで二人の生活は当分の間どうにか保証されるわけであった。 しかし、青物市場には入場の時間が規定されてあった。そして、それに間に合わないと大変なことになるのだった。一台の野菜物を、みんな捨ててしまわなければならないことになるからであった。それは資金の流通を停滞させる恐ろしさではなく、資金を消滅してしまう恐ろしさであった。そのために、場所慣れた人たちはいくつもの予備道を考えておいた。第一の道がもし交通を遮断すれば、第二の道へ、第二の道でもまた何かの偶発事から交通を遮断するようなことがあればさらに第三の道へと、彼らは臨機応変に処置して入場時刻に遅れない方策を用意していた。 吾平爺にはしかし、まだなにもそういう用意がなかった。爺は努力一方で押すより仕方がなかった。始めたばかりでなにも知らないからであった。そのうえに、爺の場合は他の人たちよりもはるかに深刻であった。もし、交通遮断か何かで時刻に遅れることがあれば、爺の生活は今度こそぺしゃんこだった。
4
吾平爺がその翌日、警察から釈放されてきたときには、荷車の上の野菜は残暑の陽に灼かれてすっかり萎れていた。爺はしかし、それをそのまま捨ててしまう気にはなれなかった。爺は力なく赤茶けたその野菜を曳いて、自分の家に帰っていった。 翌日は雨だった。しかし、吾平爺はその赤茶けた野菜物を曳いて青物市場へ出かけていった。だが、この夏以来の不景気のために、青物市場には新鮮な野菜物が氾濫していた。吾平爺の二日も陽に晒した赤茶けた野菜の売れるわけはなかった。爺は投げ出した。そして、その日の手間にもならないほどの金を握って吾平爺は帰らなければならなかった。 「荷車で一台曳いていって、手間代にもならねえなんて……」 しかし、どうにも仕方がなかった。そのうえに、吾平爺はただひと晩の拘留ではあったが、すぐそのあとで雨に叩かれたりしたのでひどく健康を損なっていた。また、たとえ健康を損なわないにしろ、爺はもう寝ているより仕方がないのだった。ただ一つの資本であった一台の野菜を全部腐らせてしまったいまとなって、もはや次の野菜をどうすることもできなかった。 吾平爺は薄暗い小屋の中で寝て暮らした。最初は微かな風邪らしい熱で、寝るよりほかにすることがないから床に潜り込んだのであった。それがだんだんいけなくなっていった。そして、鶴代のお腹はひどく膨らんできていた。窖のような小屋の中で、この不健康な親娘はもはやどうすることもできなくなっていた。一台の荷車を売ったその金が、わずかに二人の生命を繋いでいるだけであった。
5
しかし、吾平爺の病勢はますますいけなくなる一方だった。爺は何度も便を催した。そして、寝床の襤褸の底で呻りつづけていた。最初は自分で便所へ立っていたのが、それさえできなくなってきた。鶴代がそれをいちいち始末しなければならなかった。 「お鶴! 済まねえ、済まねえ」 吾平爺はそう言っては呻りつづけていた。 「済まねえったって、どうにもならねえよう」 鶴代は励ますという気持ちからではなく、目を瞑るような気持ちで言うのだった。 「父ちゃん! なんとかして医者を呼ぼうかね? なんならだれかに頼んで、いっそのこと避病院にでも入るようにしてもらったらどんなものかね?」 「おれ、苦しくて苦しくて、避病院にもなにも行かれねえわ。それより、水を一杯飲ませてくんろ」 父親の吾平爺はそう言って、呻りつづけるのだった。 ちょうど、父親の吾平爺がそうして苦しんでいる最中だった。鶴代にひどい腹痛が来た。陣痛であった。 「父ちゃん! おれも腹が痛くなってきたよう。あう、痛くなってきたよう。父ちゃんのが伝染したのかもしんねえよう」 しかし、爺は呻っていてなにも答えなかった。 「父ちゃん! 痛いよう。あう、痛いよう」 彼女は叫びながら、のたうち回った。彼女はそのうちに目が昏んできた。そして意識が判然としなくなってきた。何か深い深いところへ落ちていくような気がした。 「こっちへ来う! こっちへ来う!」 遠くの遠くから、そんな声がするような気がした。しかし、彼女はそれから間もなく、なにも分からなくなった 鶴代が深い眠りから覚めたのは、その翌朝だった。足のほうに赤ん坊がしきりに泣いていた。そのためか、父親の呻り声は聞こえなかった。赤ん坊のほうへ近寄ろうとしたが、それもできなかった。 「父ちゃん!」 できるだけ大きい声でそう父親のほうへ声をかけようとしたが、腹に力がなくて、声は出なかった。 鶴代は仕方なくじっとしていた。そして父親の呻り声を聞こうとした。しかし赤ん坊の泣き声がうるさいだけだった。その泣き声をただうるさいうるさいと思っているうちに、彼女はまたうつらうつらとしてきた。 彼女が父親の死んでいるのを発見したのは、その翌日だった。しかし、彼女はまだ起きて戸外へ出ていくことはできなかった。それに、彼女の家はただ一軒、藪の中にあった。そして、彼女の家からいちばん近い農家まで行くのに、三、四町(一町は約一〇九メートル)はあった。 彼女が父親の死んでいるのを、自分の家からいちばん近いその農家まで知らせに行ったのは、それから三、四日も経ってからのことであった。
[1] [2] 下一页 尾页
|