坂口安吾全集 09 |
筑摩書房 |
1998(平成10)年10月20日 |
1998(平成10)年10月20日 |
1998(平成10)年10月20日 |
夜長姫と耳男 |
大日本雄弁会講談社 |
1953(昭和28)年12月 |
一匹のイワシ
日曜の夜になると、梅村亮作の女房信子はさッさとフトンをかぶって、ねてしもう。娘の克子もそれにならって、フトンをひっかぶって、ねるのであった。 九時半か十時ごろ、 「梅村さん。起きてますか」 裏口から、こう声がかかる。 火のない火鉢にかがみこんで、タバコの屑をさがしだしてキセルにつめて吸っていた亮作は、その声に活気づいて立ち上る。 いそいそと裏戸をあけて、 「ヤア、おかえりですか。さア、どうぞ、おあがり下さい」 声もうわずり、ふるえをおびている。 野口は亮作の喜ぶさまを見るだけで満足らしく、インギンな物腰の中に社長らしい落付きがこもってくる。彼は包みをといて、 「ハイ。タマゴ。それから、今朝はイワシが大漁でしてね」 タマゴ三個と十匹足らずのイワシの紙包みをとりだしてくれる。 「これはウチの畑の大根とニンジン」 それらの品々は亮作の目には宝石に見まごうほどの品々であった。彼は茫然とうけとっているのである。その目には、涙が流れさえするのであった。 「もう、みなさんは、おやすみですか」 「いえ、かまいませんよ。どうぞ、あがって下さい」 「いま伊東からの帰り路ですよ。まだウチへ行ってないのです。おやすみ」 野口は笑顔を残して、静かに立去る。 日曜の夜の習慣であった。信子と克子は、これが見たくないので、早々にフトンをひッかぶって、ねてしもうのである。 そのくせ信子も克子も野口のくれた物を存分に食う。さかんにくれた人と貰った人の悪口をわめきながら食うのである。 「そんなに厭な人から貰った物なら、お前たち、食うな」 亮作は怒りにぶるぶるふるえるが、二人の女はとりあわない。そして益々悪口を叫びつづける。 「なんですね。あの男は。この子の生れたころは、あなたの同僚ですよ。ひところは失敗つづきで、乞食のような様子をして、ウチへ借金に来たことだってありましたよ。それになんですか。いくらか出世したと思って、たかが戦争成金のくせに、威張りかえって」 「威張っておらんじゃないか」 「威張ってますよ。昔はキミボク、イケぞんざいに話し合っていたくせに、いくらか出世したかと思って、あなた、私。おお、イヤだ。以前なら、いま伊東の帰りだよ、といったところを、いま伊東の別荘からの帰り路なんですよ。なんてイヤらしい」 「バカな。へりくだっているんじゃないか」 「ウソですよ。へりくだると見せて威張るのよ。悪質の成金趣味よ。ねえ、克子」 「そうよ。無学文盲の悪趣味よ。裏長屋の貴族趣味ね」 「バカな。お前らのハラワタが汚いから、汚い見方しか出来ないのだ。だいいち、野口君は、伊東の別荘などと言いはせん。いつも、ただ、伊東の、という。つとめて成金らしい口吻をさけているのが分らんか」 「つまんない。裏長屋のザアマス趣味をひッくりかえしただけよ」 女子大生の克子は投げすてるように言う。 「伊東の別荘と言いたいのを、伊東で切らなきゃならないからイヤらしいのよ。使用人に届けさしゃいいものを、今、帰り路ですなんて、恩にもきせたいし、伊東の別荘も言いたいからよ。わざと、へりくだることないじゃないの。いつもタマゴは三ツなのね。不自然ね。ムリして数を合せてさ。一から十までムリしてるのよ」 「生意気な。なにを言うか。このイワシをみろ。七匹じゃないか。ムリして数を合せてはおらん。お前らのゲスのカングリ、汚らしいぞ」 克子は皿の上の焼いたイワシに白い眼をむけて、 「七匹なんて、変ね」 と、薄笑いをうかべる。イワシを突きこわして、ゆっくり食べながら、 「九匹じゃ、惜しいのね。六匹に一匹、足したツモリかしら。九匹から二匹、ひいたのかしら」 亮作はつかみかかりたいほど怒りの衝動にかられて、 「私の問いかけたことにハッキリ答えろ。ムリして数を合せているか。これ!」 「それは、たぶん」 克子の顔から血の気がひいて、白い薄笑いをはりつけたようになるのであった。 「忠誠と柔順に対する特別の恩賞ね。一匹のイワシのために老いの目に涙をうかべて喜ぶ人がいたのね。昔の同僚が町工場の小成金に出世して、拾いあげてくれたの。実直でグズなところを見こまれて、会計をあずかる重要なポストを与えられたのよ。けれども、平社員で、サラリーは安いのよ。その代り、社長は、あなた、あります、とテイネイな敬語で話しかけて、あたたかく遇してくれるのよ。そして六匹のほかに、余分に一匹のイワシも与えるの。すると平社員は老いの目に涙をたたえて、日曜の夜の社長の別荘帰りをお待ちするのよ」 女子大学生の理にかなった皮肉が、社長からわが身へと移ると、亮作は抵抗を失ってしもうのである。彼の息の根は怒りに止まる。逆上するが、口をつぐんで、うなだれてしもうのである。 亮作と野口は、東京近郊の農村で、小学校の教員をしていたことがあった。野口は教員にあきたらず、事業に手をだして落魄し、チャルメラを吹く中華ソバ屋をやったり、実入りがあるというので、葬儀屋の番頭をやったり、病気上りの馬を安く買って運送屋をやり、馬がコロリと死んだりした。死ぬかも知れないという不安を賭けての仕事だから、諦めはついたが、この馬は死の直前に発狂して、クワッと血走った目をひらいて瀕死の藁床から起き上ると、天へ跳び上るような恰好をした。つまり後肢で立って、前肢を人間の幽霊のように胸に曲げて、クビを蛇がのびるように天へねじあげたのである。そして綱を切ってしまった。馬小屋をとびだし、真一文字に五六町ほど道を走って、バッタリ倒れて、こときれたのである。医者がみたわけではないが、野口は馬の脳膜炎だと人に話した。 その後、小さな町工場をやって、今や首くくりというドタンバに、戦争がはじまった。にわかにトントン拍子となり、成金になってしまったのである。 野口はウダツのあがらぬ亮作を拾いあげて会計をまかせた。グズではあるが、悪事をするほどの能もないというところに目をつけてのことだ。サラリーは時の公定価格で、教員よりは良かっただけである。 野口は親切であったが、キンチャクの紐をゆるめない男であった。そして彼が使用人たちに敬語で話しかけるのはケチンボーをおぎのうためだと言われても仕方がない程度にケチンボーであった。彼は亮作に産報のビールの券や、食券などを与えたが、飲食するには亮作が金を支払わねばならない性質のものであった。人々は(亮作も)それを野口のケチンボーのせいにしたが、そうしないよりは親切であったに相違ない。 克子の言葉が正しいことを亮作は知っていたのである。野口は日曜ごとに別荘の畑のものやイワシなどを持参してくれて、なんでもないことのように置いていったが、会社での午休みのひとときなどに、伊東ですら、一匹のイワシを手に入れることが、すでにどれほど困難であるか、さりげなく言うのであった。 一度や二度は我慢ができた。しかし、黙っていれば、おそらく毎日くりかえすだろう。 「エンジンのついた船はですね。それが焼玉エンジンですよ。みんな輸送船に徴用されています。若い漁師は戦争に持ってかれ、年寄まで船と一しょに徴用ですよ。それで千人食べられるだけイワシがとれたらフシギですよ」 そこで、とうとう亮作は考え深い人のように顔をあげて言うのであった。 「先日、あちらから来た人にききましたが、網をやってますな。たしか、大謀網もやってるそうです」 野口はそれが亮作の挑戦であることを見抜くが、微笑を失いはしない。 「あちらッて、どこからの人ですか」 「え、沼津です。遠縁の者が、あそこの工場にいて、時々本社へ上京のたび、私のウチへ寄るのですが」 亮作はおどおどしている。亀の子のように怯えた顔である。今にも甲羅にひッこめそうだが、頑強に言葉をつづけるのである。 「大謀網は、うまくいく時は、ブリが四五万尾はいる。海の魚は無尽蔵ですな」 「沼津の大謀網は初耳ですな。沼津は漁場ではありませんよ」 「いえ、沼津ではないのです。あのへんにちかい漁場での話です」 亮作は泣きそうな断末魔の顔だが、必死に口をうごかす。哀れであるが、シブトく、にくたらしくもある。 野口の顔色が変る。息づかいが、はげしくなる。 「私はこの目で見ていますよ。あなたは耳にきいたことで、私が目で見たことを否定しようとなさるのですか」 亮作は沈黙する。 「太平洋の沿岸は敵の潜水艦でとりかこまれていますよ。真鶴では、大謀網に敵潜が突ッかけてしまいましたよ。ホラ貝をふくやら、大騒ぎしたそうですが、網をかぶったまま、逃げられちゃいましてね。ですからどこの大謀網もかけッ放しで、危くって、沖へでる舟はありませんよ」 野口が顔色を変え息ぜわしくなれば満足だと、亮作の泣き顔が語っているように見える。しかし野口も、亮作が沈黙すれば、まア、満足であった。そして、社長の落ちつきを取り戻すに時間はかからなかった。 野口は亮作にお茶をついでやって、 「どうです。一度、伊東へ遊びにいらっしゃい。今度の日曜にお伴しましょう。とにかく、別天地ですよ。ウチの畑は二町歩あります。鶏も一週間ぶんの卵を生んで、私たちを待っていますよ」 「ええ。ぜひ一度、お伴させていただきます」 亮作も忠実な社員にもどって、ニッコリ笑う。そして、社長の善良な思いやりと、親切を、あたたかく感じとるのである。 月曜からの六日間、野口のケチンボーにイライラと不快な思いをさせられるにしても、日曜の一日はその親切な訪れをまつ喜びで一ぱいになる。そして、夜十時、静かに裏戸に近づいてくる跫音に、最高潮に達する。 あるいは裏戸に跫音をきく瞬間までは、社長のケチンボー、安い月給を敬語でおぎのうことなどを罵る思いがくすぶっていたかも知れない。しかし、訪う人の声によって彼であることを確めると、もうダメだ。亮作は感動だけのカタマリであった。胸の鼓動は羽ばたいて彼を裏戸へ走らせ、老いの目に涙をうかべさせてしもうのである。 亮作はその自分をあさましいとは思わなかった。人の善意を信じることは大切だと思うのである。しかし、信子や克子を相手にして、彼はそう考えているのであって、彼自身が直接社長に対しては、一週間の六日間はそのケチンボーや敬語を軽蔑しているのであった。だから一匹のイワシに泣く男をあさましいと思うのは、亮作が誰よりも激しかったかも知れない。 女房や娘の汚くて意地悪い表現によって、一匹のイワシに泣く己れの姿をシテキされては、もうオシマイであった。彼は逆上しながら、口をつぐんで、うなだれてしもう。 しかし、やがて、カマクビをたてなおす。 そして、社長に遠まわしの皮肉をきりだすと同じようにオドオドと、しかし執拗にくいさがる。 「お前はそのイワシを食べてはいけない」 言葉は、できるだけ静かであった。ただ、抑えきれない亢奮が口から泡をふかせているだけである。 「それほど軽蔑し憎むものをなぜ食べるのだね。それはお前が軽蔑しているものよりも、もっと軽蔑すべきことだと思わないかね」 それに対して、克子はまずこう答える。 「ツバがとぶわね。食物に」 それからゆっくりと、ゴミをすてるように、火のない火鉢の中へイワシを投げすてる。 「これ待ちなさい!」 父は娘の腕をつかむ。もしくは、つかもうとする。そして叫ぶ。 「今さらゴミよりも軽蔑した手ツキでイワシを投げすててみせても、今まで食べていた意地汚さを打ち消す力にはならないのだよ。むしろ今までの意地汚さを自分で軽蔑したことになるのだ」 克子は顔の血の気をまったく失って立上る。お弁当をとりあげる。彼女はこれから徴用の仕事場へでかけるところだ。 克子は膝の上でお弁当をひらいて、オカズの一匹のイワシをつまみあげて、流しへ抛りだす。一すじの涙がながれ、やがてかすかにシャクリあげるが、クチビルをかみしめて身支度をととのえなおす。 「克子をいじめて、おたのしいのですか」 信子のカン高い叫びが彼を突きさす。 彼は無言である。 「克子を泣かせて、縁起でもない。これから徴用の職場へ出勤という克子を。女子の徴用は男子の出征と同じですよ。一匹のイワシを食べるぐらいが、何様を軽蔑することになるんですって! 私だってイワシよりも棺桶屋を軽蔑しますよ。たかが一匹のイワシをたべるにも高尚な理窟がいるんですか。私は理窟ぬきに棺桶屋を軽蔑したいもんですよ。たかが一匹で意地汚いとは、おお、イヤだこと。意地汚いのは、あなたですよ。一匹のイワシを娘に食べさせるのも惜しいんですね。この御飯は、克子のために、田舎の大伯母さまが届けて下さるお米ですよ。あなたは、それを食べているではありませんか」 亮作は無言であった。克子は勝ち誇るために泣いているが、彼は泣くこともできない。 彼も立上って出勤の支度をはじめる。彼はイワシを投げすてた克子のように、お弁当の御飯を投げすてることはできない。 戦争に負けるか勝つかということも、この苦しみから遁れられるか遁れられないかということよりは重大に見えないのである。
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