そこには郷愁があつた。父や母に捨てられて女衒につれられて出た東北の町、小さな山にとりかこまれ、その山々にまだ雪のあつた汚らしいハゲチョロのふるさとの景色が劫火の奥にいつも燃えつづけてゐるやうな気がした。みんな燃えてくれ、私はいつも心に叫んだ。町も野も木も空も、そして鳥も燃えて空に焼け、水も燃え、海も燃え、私は胸がつまり、泣き迸しらうとして思はず手に顔を掩ふほどになるのであつた。 私は憎しみも燃えてくれゝばよいと思つた。私は火をみつめ、人を憎んでゐることに気付くと、せつなかつた。そして私は野村に愛されてゐることを無理にたしかめたくなるのであつた。野村は私のからだゞけを愛してゐた。私はそれでよかつた。私は愛されてゐるのだ。そして私は野村の激しい愛撫の中で、色々の悲しいことを考へてゐた。野村の愛撫が衰へると、私は叫んだ。もつとよ、もつと、もつとよ。そして私はわけの分らぬ私ひとりを抱きしめて泣きたいやうな気持であつた。 私達の住む街が劫火の海につゝまれる日を私は内心待ち構えてゐた。私はカマキリから工業用の青酸加里を貰つて空襲の時は肌身放さず持つてゐた。私は煙にまかれたとき悶え死ぬさきに死ぬつもりであり、私はことさら死にたいと考へてもゐなかつたが、煙にまかれて苦しむ不安を漠然といだいてゐた。 いつもはよその街の火の海の上を通つてゐた鈍い銀色の飛行機が、その夜は光芒の矢のまんなかに浮き上つて私達の頭上を傾いたり、ゆれたり、駈けぬけて行き、私達の四方がだん/\火の海になり、やがて空が赤い煙にかくされて見えなくなり、音々々、爆弾の落下音、爆発音、高射砲、そして四方に火のはぜる音が近づき、がう/\いふ唸りが起つてきた。 「僕たちも逃げよう」 と野村が言つた。路上を避難の人達がごつたがへして、かたまり、走つてゐた。私はその人達が私と別な人間たちだといふことを感じつゞけてゐた。私はその知らない別な人たちの無礼な無遠慮な盲目的な流れの中に、今日といふ今日だけは死んでもはいつてやらないのだと不意に思つた。私はひとりであつた。たゞ、野村だけ、私と一しよにゐて欲しかつた。私は青酸加里を肌身放さずもつてゐた漠然とした意味が分りかけてきた。私はさつきから何かに耳を傾けていた。けれども私は何を捉へることもできなかつた。 「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」 「死ぬのは厭だね。さつきから、爆弾がガラ/\落ちてくるたびに、心臓がとまりさうだね」 「私もさう。私は、もつと、ひどいのよ。でもよ、私、人と一しよに逃げたくないのよ」 そして、思ひがけない決意がわいてきた。それは一途な、なつかしさであつた。自分がいとしかつた。可愛かつた。泣きたかつた。人が死に、人々の家が亡びても、私たちだけ生き、そして家も焼いてはいけないのだと思つた。最後の最後の時までこの家をまもつて、私はそしてそのほかの何ごとも考へられなくなつてゐた。 「火を消してちやうだい」と私は野村に縋るやうに叫んだ。「このおうちを焼かないでちやうだい。このあなたのおうち、私のうちよ。このうちを焼きたくないのよ」 信じ難い驚きの色が野村の顔にあらはれ、感動といとしさで一ぱいになつた。私はもう野村にからだをまかせておけばよかつた。私の心も、私のからだも、私の全部をうつとりと野村にやればよかつた。私は泣きむせんだ。野村は私の唇をさがすために大きな手で私の顎をおさへた。ふり仰ぐ空はまッかな悪魔の色だつた。私は昔から天国へ行きたいなどゝ考へたゝめしがなかつた。けれども、地獄で、こんなにうつとりしようなどゝ、私は夢にすら考へてゐなかつた。私たち二人のまはりをとつぷりつゝんだ火の海は、今までに見たどの火よりも切なさと激しさにいつぱいだつた。私はとめどなく涙が流れた。涙のために息がつまり、私はむせび、それがきれぎれの私の嬉しさの叫びであつた。 私の肌が火の色にほの白く見える明るさになつてゐた。野村はその肌を手放しかねて愛撫を重ねるのであつたが、思ひきつて、蓋をするやうに着物をかぶせて肌を隠した。彼は立上つてバケツを握つて走つて行つた。私もバケツを握つた。そしてそれからは夢中であつた。私達の家は庭の樹木にかこまれてゐた。風上に道路があり、隣家が平家であつたことも幸せだつた。四方が火の海でも、燃えてくる火は一方だけで、一つづゝ消せばよかつた。そのうへ、火が本当に燃えさかり、熱風のかたまりに湧き狂ふのは十五分ぐらゐの間であつた。そのときは近寄ることもできなかつたが、それがすぎるとあとは焚火と同じこと、たゞ火の面積が広いといふだけにすぎない。隣家が燃え狂ふさきに私達は家に水をざあ/\かけておいた。隣家が燃え落ちて駈けつけるとお勝手の庇に火がついて燃えかけてゐたので三四杯のバケツで消したが、それだけで危険はすぎてゐた。火が隣家へ移るまでが苦難の時で、殆ど夢中で水を運び水をかけてゐたのだ。 私は庭の土の上にひつくりかへつて息もきれぎれであつた。野村が物を言ひかけても、返事をする気にならなかつた。野村が私をだきよせたとき、私の左手がまだ無意識にバケツを握つてゐたことに気がついた。私は満足であつた。私はこんなに虚しく満ち足りて泣いたことはないやうな気がする。その虚しさは、私がちやうど生れたばかりの赤ん坊であることを感じてゐるやうな虚しさだつた。私の心は火の広さよりも荒涼として虚しかつたが、私のいのちが、いつぱいつまつてゐるやうな気がした。もつと強くよ、もつと、もつと、もつと強く抱きしめて、私は叫んだ。野村は私のからだを愛した。鼻も、口も、目も、耳も、頬も、喉も。変なふうに可愛がりすぎて、私を笑はせたり、怒らせたり、悩ましたりしたが、私は満足であつた。彼が私のからだに夢中になり喜ぶことをたしかめるのは私のよろこびでもあつた。私は何も考へてゐなかつた。私にはとりわけ考へねばならぬことは何一つなかつた。私はたゞ子供のときのことを考へた。とりとめもなく思ひだした。今と対比してゐるのではなかつた。たゞ、思ひだすだけだ。そして、さういふ考へごとの切なさで、ふと野村に邪険にすることもあつた。私は野村に可愛がられながら、野村でない男の顔や男のからだを考へてゐることもあつた。あのカマキリのことすら、考へてみたこともあつた。何事でも、考へることは、一般に、退屈であつた。そして私は、ともかく野村が私のからだに酔ひ、愛し溺れることに満足した。 私は昔から天国だの神様だの上品にとりすましたものが嫌ひであつたが、自分が地獄から来た女だといふことは、このときまで考へたことはなかつた。私たちの住む街は私たちの一町四方ほどの三ツの隣組を残して一里四方の焼野原になつたが、もうこの街が燃えることがないと分ると、私は何か落胆を感じた。私は私の周囲の焼け野原が嫌ひであつた。再び燃えることがないからだつた。そしてB29の訪れにも、以前ほどの張合ひを持つことができなくなつてゐた。 けれども、敵の上陸、日本中の風の中を弾の矢が乱れ走り、爆弾がはねくるひ、人間どもが蜘蛛の子のやうに右往左往バタ/\倒れる最後の時が近づいてゐた。その日は私の生き甲斐であつた。私は私の街の空襲の翌日、広い焼跡を眺め廻して呟いてゐた。なんて呆気ないのだらう。人間のやること、なすこと、どうして何もかも、かう呆気なく終つてしまふのだらう。私は影を見たゞけで、何物も抱きしめて見たことがない。私は恋ひこがれ、背後にヒビがわれ、骨の中が旱魃の畑のやうに乾からびてゐるやうだつた。私はラヂオの警報がB29の大編隊三百機だの五百機だのと言ふたびに、なによ、五百機ぽつち。まだ三千機五千機にならないの、口ほどもない、私はぢり/\し、空いつぱいが飛行機の雲でかくれてしまふ大編隊の来襲を夢想して、たのしんでゐた。
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