よろず勝負ごとだけが人間の見物するものと限ったわけではないのである。暗黒街でもエロショオでも泥棒でも心中でも見物することができる。 第一、伊東のような田舎に閉じこもって、面会謝絶、風流三昧とはいかないが、なんとなく精神の善美結構などつくしたような閉舎にふけっていると、てんで世間がわからなくなる。たまには上京もすべきであるが、汽車にのって新橋へついて酒をのんで酔っぱらって帰ってくるだけでは都の風も身にしみない。 そこで雑誌社の世話で、まず東京へつくと、自動車が待ちかまえている。これにのると、暗黒街とかエロショオとか泥棒心中の現場のたぐいに運ばれて、ちょッと人の見物できかねるものをユックリ見せてもらって、又、スルスルと自動車で今度は酒場へ。これだ。こんなウマイ手があるのである。それが巷談屋開業の重大決意(この言葉はこんな風に用いる)をかためるに至ったナイショ話というわけだ。おまけに全部官費で、どこまで間が良いか分らない。 巷談屋を開業する。開店そうそう大評判、ソレというので、大小新聞、あらゆる綜合雑誌(キングを含む)みんなオレのところへ巷談よこせ、といって押しかける。そうは参らん。そんなに見たり書いたりできない。一ヶ月は三十日、巷談屋の身は一つ、仕方がない。盛大な創業ぶりであった。 共産党文学青年の総反撃は巷談初の受難であるが、もとより私は驚かない。こんなにウマイ汁を吸うからには、暗黒街でピストルのそれダマをくらったり、エロショオでは警官に追いまくられたり、多少の受難は諦めてかかっている。巷談屋の心構えというようなものは、ちゃんと身にそなわっているのである。 しかし、共産党は、言葉も知らないし、言葉の用い方も知らない。 「まだ生きていたか!」 こう書いてある。まだ生きていたと見てとって、トドメを刺してやろうという見幕らしい。 「それでも日本人か!」 言い合したように、こう怒る。なぜ怒られるのか、のみこめない。 「民衆の心はキサマから離れている」 嘘ではないのである。たしかに彼らのある者はこういう風に、もしくは、こういう意味のことを私に向って叩きつけているのである。 共産党以外の人には分る筈だが、この文句は、時の首相とか、政党の指導者などに用いるもので、巷談屋には用いない。用いて悪い規則もないが、巷談屋とヒットラーには、用いる言葉がおのずからそれぞれに相応したものでなければならない。 こう断定した共産党は静岡県の富士郡というところの何々村の住人だ。行って見たわけではないが、富士山の麓のヘキ村だろう。そんなところに住んでいても、民衆の心が巷談屋から離れているのをチャンと見ているのである。 「キサマの末路はわかってる」 そうか。さては末路も見破られたか。どうしても末路を見破り、人民裁判にかける意向が明かなのである。彼らは骨の髄から懲罰精神でかたまっているらしい。つきあいにくい人種である。 西洋の童話には森の妖婆がでてくる。これが共産党の先祖で怖しい呪いをかける。末路を予言するのである。口の中でブツブツ言うのだが、赤頭巾を食う狼よりも兇悪不逞で、人間の敵だ。腰のまがった妖婆とちがって、威勢のよい共産党はもッとハッキリきこえよがしに呪いをかける。近代的だか軍人的だか知らないが、人間の敵には変りがない。森の妖婆の中にも「善い妖婆」がまれにはいる。シンデレラ姫についた妖婆がそれである。私にはそんな共産党はついてくれない。そして私はどうしても人民の名によって吊しあげられることになるのである。 しかし巷談師はこんな不景気な手紙ばかりもらうわけではない。
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「もし、もし。ちょッと、ちょッとオ。待ってえ! 坂口さん」 巷談師のうしろから大声で叫びながら、自転車で追ってきた女の子がいる。この温泉町はパンパンが大通りへ進出して客をひッぱるので有名だが、自転車で追っかけた話はまだきいたことがない。 見たところパンパンと見分けがつかなくて、同じぐらいの年恰好だ。 「コーダンの坂口さん? そうでしょう」 「……」 「そうでしょう? そう言ったわ。坂口さんね?」 「そう」 「じゃア、いッしょに、きてよ。待ってるのよ」 「あなたは誰ですか」 「××館よ。お客さんにたのまれたからさ。あの人よんでおいで、コーダンの坂口さんだからッてさ」 「お客さんて、誰?」 「知らないわ。来てみれば、分るでしょう」 「女?」 「ウフ」 と、女は笑った。恐しくなめられたものである。 「××館、あそこよ。知ってるでしょう」 女は自転車にのって走りだした。女が美人だとノコノコついて行く性分だそうだが、不美人になめられては、ながく魂をぬかれているわけにもいかない。ウッカリすると自動車にひかれるから、彼はふりむいて歩きだす。 女が怒ってフルスピードで戻ってきた。 「なによ、あんた! きこえなかったの。私の言ったことが」 目から火焔がふいている。 「待ってるわよ。そう言ったじゃないの!」 「女?」 「まだ言ってるわね」 女は呆れて苦笑したが、わが意を得たりという親愛の情も同時にこもって、 「そんな人、いるの? ウフ。夢見ちゃダメよ。お気の毒さまだ。私がなってあげようか。アッハッハ。ウソだよ。本気にしてダメだよ」 と、いくらかてれた。 彼女が笑ったので、口が蟇口のように大きいのが分った。かの巷談師はこの言葉が気に入ったので、おとなしくついて行くことになった。 ××館は三流旅館である。学生街の下宿屋と同じようだ。日当りの悪い小部屋に、男が私を待っていた。 行儀の悪い奴で、フトンをしきッ放して、まだ、ねころんでいる。クビにホータイをまいている。ノドをつぶした旅廻りの浪花節語りという風情である。貧相なチョビヒゲを生やしているが、ヒゲも共に笑うがごとく、にこやかな微苦笑をただよわして、 「便所の窓から君の通る姿を見かけたんだよ。ぼくは君を知らなかったが、便所に来合していた男が――臭い話だね。あれが巷談の安吾氏だというから、ぼくは急いで女中をよんで、きてもらったわけだ。アハハ。まア、君、こッちへ来たまえ」 男はフトンの上に半身を起し片肱で支えている。タバコをにぎった片手で私をさしまねいて、枕元へきて灰皿の向う側へ坐れというサインである。くたびれたフトンや男の様子から血を吸う虫とバイキンがウヨウヨいそうであるから、私は遠慮して卓にもたれた。 「君の巷談、よみましたね。競輪。負けッぷりはお見事だが、あれはいけないよ。競輪は一レースに五百円、ま、一日五千円程度で勝負するものだ。それで、まア、倍にもうける。その程度、ね。そういうものよ。それでぼくはこうして結構遊んでいられるのよ。アレが安吾氏だというからね。ふッと閃いたわけだ。競輪のコツを伝授しようと思ってさ。あの負けッぷりが好きだからよ」 淡々たる武者ぶりである。名乗りもあげないし、イラッシャイも、言わない。よく来てくれた、などとも言わない。別段、軽蔑しているのでもないようだ。なぜなら気どってもいないようだから。どういうコンタンだか分らないが、天下の巷談師をてんで買っていないのは確かである。 「今夜だと、尚よかったんだが、君、出直してくるかい? 夜の八時ごろ、使いの者が、こッちへくるんだね。今、小田原で競輪やってッだろ。明日から二節だ。明日の出走表が八時半には、ぼくに届くのよ。それを見て、教えてあげる。初心者にはこれに限るのよ。むずかしい理窟は早急に呑みこめやしないものさ。理窟じゃないが、上りタイム、過去の戦績、これを知りつくして半人前だね。地足の良し悪し、これも常識のうち。その他、多々あり、としておこうよ」 男は枕もとから一山の紙をザックと一握りして、投げてよこした。各地の競輪新聞である。関東各地のほかに、岐阜、鳴尾、住之江などゝいうのがある。紙面の各々には判読に苦しむ細かさでベッタリ朱筆がいれてあった。 「君、競輪、商売にしてる人かい?」 ときくと、つまらなそうに、うつむいて、 「まアね。そう言われても、仕方がない。ヤクザじゃないがね。予想屋でもやろうかと思ってはいるが、脚がこれでね」 フトンをのけて見せた。片脚が義足なのである。 「ぼくは罪なことのできない性分だから、予想屋じゃ客がつかないだろうよ。ぼくは、こう言うな。穴をねらッちゃいかん。レースを全部買うな。分らん時は、おりることよ」 「戦争で負傷したのかい?」 と、私はきいた。 男は首を横にふって、 「工場でよ。どうやら、ぼくの不注意からなのさ」 彼はニッと笑った。宿命に安んじているのかも知れない。 私は彼を見直した。工場でうけた傷でも、こんな時には、戦傷にするのが人情だ。見知らぬ私をひきいれて、駄ボラを吹いている最中だからである。してみると、この男の話は駄ボラじゃないのかも知れない。 彼は疲れたのかドッコイショとねころんで枕をつけて、 「今夜、出直しておいで。それが、いいよ。出走表を見て、教えてあげるよ。確実なところだけね。穴はよしな。八時半に、きなよ」 私も立上って、 「もう競輪へ行く気がないから、たぶん、来ないだろうよ。だが、気が変ったら、その時は教えてもらうよ」 彼はうなずいた。 「競輪でぼくを見かけたら、声をかけな。教えてあげる」 彼は眼をとじて、呟いた。
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