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彼等は疑雨荘といふちよつと小綺麗なアパートに住むことになつた。このアパートのマダムはオメカケで、お小遣ひかせぎに旦那にせがんでアパートをこしらへて貰つたのだが、内々は浮気のためで、旦那は晩酌が一升づつといふ酒豪で不能者だから、芸者育ちのマダムは小さな環境にあきたらない、まことに多淫な女で、アパートの誰彼とたくみに遊びたわむれてゐる。 旦那がきて晩酌がはじまると、今日はあの方をおよびしませうといふわけで、庄吉も招かれる。マダムは二十七八の美人で芸者あがりだから世帯じみたところがなく、濃厚な色気そのもの、豊艶で色ッぽい。三枝先生と言つてチヤホヤもてなしてくれるから庄吉は有頂天になつて、それからといふもの酔余の女人夢遊訪問はアパートのマダムの部屋となつた。酔つ払ふと大はしやぎで、ふだんは蚊のなくやうな細い声しかでないくせに、こんなチッポケな痩身のどこからでると思ふやうな破れ鐘の声で応援団のやうに熱狂乱舞して合ひの手に胴間声にメッキのやうなツヤをかぶせて御婦人を讃美礼讃したり口説いたりする。小さなアパートにこれが筒ぬけに響くから、 「アラ先生、奥様にきこえてよ」 などと言ふが、これが又わざときこえよがしの声でナガシメを送るのだから、庄吉は益々有頂天で、 「僕は女房はきれえなんだ。年ガラ年中筍の皮をむいたり玉ネギをコマ切れにして泣いたり、朝から晩までいつだつてさうなんだから毎日何百本も筍を食つてるわけぢやアないんだから、アイツは一本の筍を五時間もむく妖術使ひなんだなア。その妖術のほかに人生の心得は何一つないんだから」 これがきこえてくるからカンベンができない。日本の女房は概ね女中兼業で、兼業の方に主力が置かれてゐる状況であるが、当人が好んで兼業に精をだしてゐるわけではなくて、亭主が無力で女房と亭主友だちづきあひといふわけに行かないシクミだから涙をのんで筍の皮をむいてゐる。しかるに何ぞや。自分の無力無能をタナにあげて、女房は世帯じみて筍の妖術使ひだと言ふ。どこの宿六でも自分の無力無能のせゐで女房をヤリクリ妖術使ひにしておきながら、ヤリクリなしの遊び女にひそかにアコガレをよせてゐるいづれも不届きの曲者ぞろひで、さてこそ女房がこぞつて遊女芸者オメカケを敵性国家と見なすのは重々左もあるべきところである。見えも聴えもしなければ我慢のしどころもあるけれども、目に見え耳に聴えては痛憤やるかたないのは御尤も、それでも胸をさすつてゐると、一緒に芝居見物に行つて酔つ払つておそろひで賑々しく帰つてきて女房の部屋へは顔もださず、マダムの部屋で馬鹿笑ひをしながら飲ませて貰つてゐる。〆切に追ひまくられ女房が鍋の音をガチャリとさせてもギラギラした目を三角にしてヂロリと睨むくせに、マダムが先生チョットと呼びにくると困りきつた顔半分相好くづしていそいそと出たまゝ夜更けまで帰らずベロ/\になつて戻つて小説は間に合はず、貧窮身にせまる。 然し宿六の心事は複雑奇怪で、彼は決して女にもてゝはゐなかつた。彼はていよくマダムにあやつられ、それといふのが、彼がその道にまつたく稚拙で単なるダダッ子にすぎないのだから旦那の信用を博してゐる、そこでマダムは彼をつれだし、ついでに男をつれだして、彼を気持よく酔はせておいて、アラ、チョット先生忘れた用があるからとか、買物をしてくるから、とか、人に会つてくるとか呼んでくるとかぬけだして、彼にはオデン屋の安酒をあてがつて二時間ほど遊んでくる。しよつちう男が変つてゐるが事情に全然変化のないのは庄吉で、ちかごろでは卑屈になつて、アラ、さう、忘れた、先生、と二人の男女が立ち上ると、皆まできかずエヘヽ行つてらつしやいなどゝ、あさましい。そのあさましさは骨身に徹して彼には分るが、浮気女の豊艶な魔力におさへられて一言二言うまいことを言はれるとグニャ/\相好をくづすだけが能だといふ、思へばかへすがへすもあさましい限りであつた。こんなことは女房に言へた義理ではないから、いかにも彼が大もてゞ、マダム意中の人の如くに威張りかへつてゐるけれども、女房よゆるせ、そぞろ悲しく、こゝが芸術の有難さだと、わが本性に根の一つもない夢幻の物語に浮身をやつし、作中人物になりすまし、朗吟の果には涙をながして自分一人感動してゐる。女房にこれぐらゐ馬鹿々々しく見えるものはない。彼女は亭主の小説などもはや三文の値もつけられない。ロクデナシメ、覚えてゐやがれ、と失踪してしまつた。 然し彼が柄にもなくマダムに熱をあげるのは恋路のせゐ浮気のせゐでなく、むしろ文学に行きづまつたためだ。なぜと云つて、彼は全然女にもてゝをらず、女の浮気のダシに使はれ、なめられ、ふみつけられ、そのあさましさを知りぬいて、見えすいた甘い言葉に相好くづして悦に入る、バカげたこと、悲しいばかり面白をかしくもないのだけれども、芸術に自信を失つては、芸術家はもう人生まつくらだ。面白をかしくもないこと、やりたくもないことに結構フラフラ打ちこむとはこれ即ちデカダンで、自信喪失といふものゝ宿命的な成行きなのである。 数日失踪したまゝ女房が帰らない。気もテンドウせんばかり苦痛だけれども、マダムが冷然と、アラ奥さん浮気? お見それしたわね、先生もだらしがない方ね、あんな奥さんにミレンがあるのかしら、と毒の針をふくんだやうな言葉を浴せる、底意は侮蔑しきつてゐるのが分つてをり目の色にも半分嘲笑がにじみでゝゐるのだけれども、先生も浮気なさらないの、などゝ冷やかされると、彼はもうヤケになつて、 「奥さん、泊りに行かうよ。ね、いゝだらう、行かうよ」 マダムは苦笑して 「先生、泊りに行くお金あるの?」 グサリと斬る。 庄吉は一刀両断、水もたまらず、首はとび甚だ意地の悪いもので地べたへ落ちてもぐりこんでしまへばいゝのにフワリフワリと宙に浮いて壁につき当り唐紙にはぢかれ柱の角で鼻をこすつてシカメッ面を一ひねり五へん六ぺん旋回する。目をとぢ耳をふさいで一目散に逃げ去りたいのに、その心をさておいて何物かネチネチ尻をまくる妖怪じみた奴がをり、 「僕ァ貧乏なんだ。貧乏は天下に隠れもない三枝さんだからな。僕ァ芸術家なんだ。僕はエレエんだ。痩せても枯れても貧乏は仕方がねえ」 何のことだか、わけが分らない。けれども腰がぬけ、すくんだ感じで逃げるに逃げられず、やぶれかぶれ意外千万なことを喚きたてる。 「さうね、死なゝきや分らないわね」 マダムは入口の扉にもたれる。ちやうど廊下へ一人の男がタオルと石鹸もつて出てくる、この男も例の男の一人で、 「え? 死ぬ?」 「死なゝきや治らないと言ふのよ」 「あゝ、バの字ですか」 「さう」 マダムは頷き 「死なゝきや分らない、か。梶さん、今晩、のみに連れてつてくれない?」 男と肩を並べて行つてしまつた。 数日すぎて女房は戻つた。 何よりも仕事をしてゐないのが、せつないのだ。それがもとで、かういふことにもなる。たゞ仕事あるのみ。だが、どうして仕事ができないのか。女も酒も、夢の夢、幻の幻、何物でもない。 そこで彼は後輩の栗栖按吉に手紙を書いて、当分女房子供と別居して創作に没頭したいから君の下宿に恰好な部屋はないか、至急返事まつ、あいにく部屋がなかつたから、そのむね返事を送ると、もとより庄吉は一時その気になつただけ、女房と別れて一時も暮せる男ではない。按吉から返事がくると、ホッとして、 「オイ、部屋がないつてさ。ぢやア、仕方がねえや。ともかく、こゝにア居たくないから、小田原へ行かうよ。これから新規まき直しだ」 「私は小田原はイヤよ。お母さんと一緒ぢや居られないわ」 「だつて仕方がねえもの。原稿が書けなかつたから外に当もねえから、ともかく小田原で創作三昧没頭して、傑作を書くんだ」 「どうして荷物を運ぶのよ」 「たのめば、こゝで預つてくれるだらう」 「家賃は払つたの」 「原稿も書けなかつたし、前借りがあるから、もう貸してくれねえだらう。小田原へ行きや、ともかく、この部屋でなきやア、書けるんだ。書きさへすりやア部屋代ぐらゐ」 「だつて、今払はなきや、どうなるの。夜逃げなの。荷物があるわよ」 「だからよ。マダムのところへ頼みに行つてきてくれ。事情を言や分つてくれるんだ」 「あなた行つてらつしやい」 「オレはいけねえや」 「だつて親友ぢやないの」 庄吉が暗然腕をくんで黙りこんでしまふと、さすがに自分も失踪から戻つたばかり、宿六の古傷もいたはつてやりたい気持で、 「ぢやア、行つてくるわ。部屋代ぐらゐ文句言はれたつて構やしないわよ。堂々と出て行きませうよ」 「うん、荷物のことも、たのむ」 ところがマダムは話をきくと打つて変つて、好機嫌、二つ返事、折かへし挨拶にきて、 「おくにへ御かへりですつてね。お名残おしいわ。御上京の折は忘れず寄つてちやうだい。銀座へんから電話で誘つて下すつても、駈けつけるわ。真夜中に叩き起して下すつてもよろしいわ。今日はお名残りの宴会やりませう」 「でも、もう、汽車にのらなきやいけないから」 「あら、小田原ぐらゐ、何時の汽車でもよろしいぢやないの。ぢやア先生お料理はありませんけどお酒はありますから、ちよつと飲んでらして」 「暗くならないうちに着かなきやいけないから」 「あら御自分のうちのくせに。ねえ奥様。そんなに邪険になさるなんて、ひどいわ。奥様、一時間ぐらゐ、よろしいでせう。先生をおかりしてよ。奥様は荷物の整理やらなさるのでせう。ほんとに先生たら、水くさい方ね」 庄吉はマダムの部屋へ招じられて、もてなしをうける。荷物の整理などもうできてるから残念無念の一時間、 「もう時間だわ、行きませう」 「あら、今、料理がとゞいたばかりよ、これからよ、ねえ、先生」 その言葉に目もくれず、もうマッカ、酔眼モーローたる宿六の腕をつかんで、 「さ、行きませうよ」 「お前も一パイのめ」 「ほら、ごらんなさい。そんなになさると嫌はれてよ。ヤボテンねえ、先生」 「ヤボテンだつて、オセッカイよ。あなたは何よ、芸者あがりのオメカケぢやないの。私は女房よ」 変つたところで気焔をあげる。庄吉もまだ限度のわかる酔態で、都落ちの悲惨まだ胸につかへて残つてゐるから、案外をとなしく立ちあがる。マダムがスッと立ちあがり庄吉のうしろへ廻つて二重トンビをかけてやらうとすると、女房は物も言はず、ひつたくり、小さな庄吉を抱きだすやうにグイグイ押して廊下へでる。 「先生、御上京待つてゝよ。すぐ電話で知らせてね」 庄吉がふりむいて挨拶しようとすると、女房は首筋へ手をかけ捩ぢむけて出口へ向けて突きとばし、庄吉はヨロヨロヒョイヒョイ突かれ押されて往来へとびだし、天下晴れて振りむいたら、もうマダムの姿はなかつた。 「チェッ、ざまみろ、いいきみだ」 女房はプンプン怒つてゐるが、マダムはたぶん部屋の中で笑ひころげてゐるだらう。女房よりも、然し庄吉がもつとからかはれ侮蔑され弄ばれ嘲笑されてゐる、それが庄吉には腹にしみて分るのだ。然し、己れのほかの何人も咒ふべきものはない。仕事、仕事、たゞ仕事あるのみ、かうして庄吉は都を落ちた。
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