石の崩れ路を登り始める、人の下りたときの、草鞋や杖で穿り返された雪は、橇でもいたように生々しい傷がついている、その雪も大石に挟まれたところは、石の熱のためか、溶けて境界線が一寸した溝になっている、先刻見えなかった常念岳が、イガ栗頭をぬいと出す、高野君と高頭君は、ハンド・レヴェルを持ち出して、ためつすかしつ眺めながら、ここより高いとか、低いとか、頻に言い合っている。 槍の穂も鼻ッ先に近くなって、崩壊した岩石が折り重なっている、石角を伝わって、殺生小舎へ取りついたが、これでも四人位は泊まれるらしい、強いて詰めれば、八九人は入らぬことはないそうだ、既に今年も泊まった人があると見えて、偃松の半分焦げた枝や炭が、狼藉している、小舎の屋根に近いところにも、雪の石小舎がある、ここにもまさかのときには、二人位は寝られそうだ。 槍ヶ岳から下った山稜伝いの、横尾根の外から、穂高山が手に取るように、肩幅の闊い輪廓を見せる、嘉門次は穂高の方を頤でしゃくって「あれ行くずらえ」と教えた、穂高山の三角測量標をここから見ると、一本の棒が立っているだけだ、「一本切りだ、風でってじゃて、一本ほか無えだ」と、彼はこう言った、そうして「又一本立てよう」と休息の合図をした。(立ちながら休むときは、脊の担い梯子へ、息杖を当てがって、肩を緩めるので「一本立てる」というのである。) 殺生小舎から槍ヶ岳までは、猟師仲間で八丁と言ったものだそうだが、今じゃそうは無いと言うことだ、ここから上りにかかると、いい加減に疲労れ初めた一行は、足の遅速に従って、離ればなれになる、私は短気な性分だから、むやみに路を貪って、先になった、そうして傍で見ると、存外に鈍い輪廓をした槍ヶ岳の円柱が、幾本となく縦に組み合わされた、というよりも大磐石にヒビが入って、幾本にも亀裂したように集合して、その継ぎ目は、固い乾漆の間に、布目を敷いたように劃然としているのが、石油のようにうす紫を含んだ灰色の霧に、吹っかけられて、見るみる痙攣られたように細くなり、長くなり、分裂の指先をつぼめて、一ツになったかと思うと、又全身を現わして、その霧や雲の間から、避雷針のように突出したのを仰いでいると、全身がもう震動するのである。 やっと槍ヶ岳の頂、といっても槍の穂先からは、まだ蛭巻ぐらいの位置に当る、平ッたい鞍状地に到着した、槍から無残に崩壊した岩は、洪水のように汎濫している、そうしてこれが巨大なる槍ヶ岳を、目の上に高く聳えしむるために、払われた犠牲であるかと思うと、私は天才の惨酷に戦慄するのである。 槍の穂先へ登る道を忘れたので、むやみに石角に手をかけ、足を托した、石の角は剣の如く鋭く尖って、麻の草鞋が触れるたびに、ゴリゴリ音がする、幾本の繊維が、蜘蛛の糸のように引きぎれて、石の角にへばりついた、肩の尖りを一々登って、ようやく槍の絶頂に突っ立った、槍ヶ岳より穂高へ続く壮大なる岩壁は、石の翼の羽ばたきの、最も強いものであると思われる、眼前の常念山脈では、大天井と燕岳に乱れた雲が、組んず施つれつしている。 登りついた左の肩には、三角標の破片と見らるる棒が、一本立っている、そこから山稜を伝わって、右の肩へ出ると、小さな木祠があって、小さな木像一個と、青びた小指ぐらいな銅像が三個、嵌め込まれている、日本山岳会員の名刺が三枚ほど蔵われている、冠松次郎氏、中村有一氏、加山龍之助氏などで、去年又は本年の登山者である、私も自分の名刺を取り出し、万年筆で、四十三年七月廿七日第三回登山者と、忙しく走り書きして抛げ込んだ、木祠の中には穴の明いた、腐蝕しかかった青銅銭が、落ち散っていた、先刻の上り路で、兼という人足が、ここのお賽銭を拾って村へ還ると、山の御守符というので、五厘銭が白銅一枚には売れると、言った話を憶い出して、微笑むだけの余裕はあった。 後から来る連中は、やっと尾根にかかって来たが、前に槍に登ったことのある人もいるので、峰にはもう登らないと決めたらしく、一と塊まりに小さく黒くなって休んでいる、私は兀々した岩角に一人ぼっちに突っ立って、四方を見廻わした、未だ午前である、硫黄岳の硫烟は、曇り日に映って、東の方へと折れて、連山の頭へ古い綿を、ポツリポツリとっては投げ出すように、風に吹き飛ばされている、乗鞍岳が濃い藍色に染まって、沈まり返って、半腹には銀縁眼鏡でも懸けたような雲が、取り巻いている、遠くの峰、近くの山は、厚ぼったい雲の海の中で、沈鐘のように、底も知られず浮き上らずにいる、その瞬間に幻滅する、恐怖すべき透き通った藍色は、大山脈の頭を見ているというよりも、峡間から大海の澄み返って湛えているのを見るようだ、その中で我が槍ヶ岳という心臓が、日本アルプスという堅硬な肉体に、脈を搏っているのだ。 動揺する、動揺する、天上のものは皆動揺して一刻も停まってはいない、霧は乱れ、雲は舞って、山までが上ったり、下ったりしている、森林も揺々と動いている、私は森厳なる大気の下で、吹き飛ばされそうな帽子をしかと押え、三角標の破片に抱きついて、眼下に黒く石のように団欒している一行の人たちを、瞰下しながら、無限の大虚からの圧迫を、犇々と胸に受けた。 絶壁の下なる大深谷からは、霧がすさまじいいきおいで、皺嗄れ声を振り立てて上って来る、近づくほど早くなるかと思うと、端から砕けてサアッと水球を浴びせる、そうして呻りながら、尾根につかまり、槍先へ這いずり上って、犠牲になる生霊もがなと、捜し廻っている。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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