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不尽の高根(ふじのたかね)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-5 9:00:58 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


    四 富士浅間神社

 浅間神社のうしろからならでは、出すまじき馬を、番頭が気をかして、宿まで馬士まごにひかせて来てくれたが、私はやはり、参詣を済ませてから乗りたいため、馬を社後まで戻させ、手軽なリュックサックをげて町を歩きだした。さすがに上吉田は、明藤開山めいとうかいざん、藤原角行かくぎょう(天文十年―正保三年)が開拓して、食行身禄じきぎょうみろく(寛文十一年―享保十八年)が中興した登山口だけあって、旧御師おし町らしいと思わせる名が、筆太にしたためた二尺大の表札の上に読まれる、大文司だいもんじ仙元房せんげんぼう大注連おおしめ、小菊、中雁丸なかがんまる、元祖身禄宿坊みろくしゅくぼう、そういった名が、次ぎ次ぎに目をひく。宿坊の造りは一定していないが、往還から少し引ッ込んだ門構えに注連しめを張り、あるいは幔幕まんまくをめぐらせ、奥まった玄関に式台作りで、どうかすると、門前に古い年号を刻み入れた頂上三十三度石などが立っている。芭蕉翁に、一夜の宿をまいらせたくもある。
 みやげ、印伝、水晶だの、百草ひゃくそうだのを売ってる町家に交って、ぼくにしてけいなる富士道者の木彫人形を並べてあるのが目についた。近寄って見たら、小杉未醒原作、農民美術と立札してあった。小流れを門前に控えたどこかの家の周りには、ひまわりの花が黄色いほのおを吐いている。この花の放つ香気には、何となしに日射病の悩みが思われる。
 町は、絶えず山から下りる人、登る人で賑わっている。さすがに、アルプス仕立の羽の帽子をかぶったり、ピッケルをかついだりしたのは少ないが、錫杖しゃくじょうを打ち鳴らす修験者、ぎはぎをした白衣の背におひずる[#「おひずる」はママ]かぶせ、御中道大行大願成就、大先達某勧之などとしたため、朱印をベタ押しにしたのを着込んで、その上に白たすきをあや取り、白の手甲に、渋塗しぶぬりの素足をあらわにだした山羊やぎひげのおきななど、日本アルプスや、米国あたりの山登りには見られない風俗である。大和大峰いりのほら貝は聞えないが、町から野、野から山へと、秋草をわたり、落葉松からまつの枯木をからんで、涼しくなる鈴の音は、おうきるさの白衣の菅笠や金剛杖に伴って、いかに富士登山を、絵巻物に仕立てることであろうか。行者と修験者の山なる点において、富士と木曾御嶽は、日本の山岳のうちで、ユニークな位置を占めていると思う。その上、同じ登山口でも、御殿場は停車場町であって、宿場ではない。須走すばしりは鎌倉街道ではあるが、山の坊という感じで、浅間あさま山麓の沓掛くつかけ追分おいわけのような、街道筋の宿駅とは違ったところがある。吉田だけは、江戸時代から、郡内の甲斐絹かいきの本場を控えて、旅人の交通が繁かっただけあって、山の坊のさびしさが漂うと共に、宿場の賑わいをも兼ねて見られる。
 裾野の草が、人の軒下にはみ出るさびしい町外れとなって、板びさしの突き出た、まん幕の張りめぐらされた木造小舎ごやに、扶桑ふそう本社と標札がある。扶桑講を講中としているところの、富士崇拝教の本殿である。講中でこそないが、私も富士崇拝者の一人として、黙礼をして、浅間せんげん本社へと足を運んだ。
 一歩境内に踏みいると、乱雑なる町家から仕切られて、吉野山の杉林を見るような、幽邃ゆうすいなる杉並木が、富士の女神にさす背光を、支持する大柱であるかの如く、大鳥居まで直線の路をはさんで、森厳に行列している。その前列の石燈籠いしどうろうは、さまで古いものとは思われないが、六角形の笠石だけは、奈良の元興寺がんごうじ形に似たもので、たなごころを半開にしたように、指が浅い巻き方をしている。瓦屋根のおおいを冠った朱塗の大鳥居には、良恕りょうじょ法親王の筆と知られた、名高い「三国第一山」の額が架かってある。鳥居は六十一年目に立て替える定めだそうで、今のは二十七回だと、立札がしてあるが、そんなことはどうでもいい。登山者の眼中には、金剛不壊こんごうふえの山の本体の前に、永久性の大鳥居がただ一つあるばかりだ。神楽殿かぐらでんかたわらには、周囲六丈四尺、根廻りは二丈八尺、と測られた神代杉がそそり立って、割合に背丈は高くないけれど、一つ一つの年輪に、山の歴史の秘密をこめて、年代の威厳が作り出す色づけと輪廓づけを、神さびた境内の空気にゆきわたらせている。
 この吉田口の大社は、大宮口の浅間本社と比較して建築学上、いずれが価値ある築造物であるかを、私は知らないが、大宮口は、山の社であると共に、町の神社で、町民の集団生活と接触するところに、その美しい調和力と親和力が見られるのに対して、吉田の浅間社は、礎石いしずえをすえた位置が、町から幾分か離れて、大裾野のひろがり始めるところに存するだけ、構図の取り方が一層大きく、三里の草原を隔てて、富士につながる奔放さは、位置の取り方が一倍と広く、社殿そのものも、天空高くきよめられたる久遠くおんの像と、女神の端厳相たんげんそう仮現かげんする山の美しさを、十分意図にいれ、裏門からの参詣道を、これに南面させて、人類の恭敬を表示したところの、信条的構造と見られる、建築の手法、細故さいこのテクニックにわたっての是非は知らず、楼門廻廊の直線と曲線が、あるいは並び下り、あるいは起き伏すうねりにつれて、丹碧たんぺき剥落はくらくしたりとはいえ、燦然さんぜんたり、赫焉かくえんたるに対面して、私はここでもくりかえしていう、「日本の山は、名工の建築があるからいいなあ」と。
 ところで一体、富士の神を浅間せんげんと呼ぶのは、どうしたわけであろうか。富士の権現は信濃の国浅間あさま大神と、一神両座の垂迹すいじゃくと信ぜられていたところから、浅間菩薩せんげんぼさつともいい、富士浅間せんげん菩薩とも呼んだりしたが、本元の浅間あさま山の方は、一の鳥居があるだけで、御神体は、山そのものに宿るとしてあるから、神社の鎮座がない。富士の登山諸道に、壮麗な神社があるのと対照して、これはこれ、あれはあれでいいと思う。

    五 旅人の「山」

 万坊ヶ原の一本松は、暁のやみに隠れた、那須野ヶ原あたりの開墾地にありそうな、板葺小舎いたぶきごやから、かんがりとがさす。月見草の花が白い、カケス畑を知らぬ間に過ぎて、自動車はスケッチ帳入りの小嚢しょうのうを手に下げた茨木君と私と長男隼太郎外、強力ごうりき一人を大野原に吐き出して、見送りのため同乗せられた大山さんと、梅月の主人をさらって、影を没してしまう。暁の空に大宮表口の裾野原は、うす紙をはがすように目がさめる。ホトトギスがしきりになく。富士のさばいた裳裾もすそが、ななめがちな大原に引く境い目に、光といわんには弱いほどの、一線の薄明りが横ざまにさす。正面を向いた富士は、平べッたくなって、塔形にすわりがいい。ただ剣ヶ峰の頂のみが、槍のように際立ってとがって見える。雲は野火の煙の低迷する如く、富士の胴中を幅びろに斜断して、残んの月の淡い空に竜巻している、うぐいすのなくまじる。武蔵野に見るような黒土を踏んで、うら若いひのきの植林が、一と塊まりに寄り添っている、私たちの足許には釣鐘つりがね草、萩、擬宝珠ぎぼうしゅ木楡われもこうが咲く。瑠璃るり色の松虫草と、大原の水分を一杯に吸い込んで、ふくらんだような桔梗ききょうのつぼみからは、秋が立ちめている。秋の野になくてかなわぬすすきと女郎花おみなえしは、うらぼんのお精霊しょうりょうに捧げられるために生れて来たように、涙もろくひょろりと立っている。
 仰げば朝焼けで、一天が燃えている。夕焼のように混濁した朱でなくて、きよくて朗らかな火である。富士の斜面のヒダは、均整せられて、端然たる中にも、その高いところは光を強く受けて、浮彫につまみ上り、低い裂け目には暗い影が漂っている。全体としては、素焼の陶器の雅味がみである。富士が小さく見えるのもこれだ。表裏に廻り、左右から見直しても、「あなたこなたも同じ姿」の八字の輪廓と、円錐の形式とは、連嶺構造の山と、鋭利に切り込まれた深谷を見た目からは、浅いものに見せるかも知れぬ。だがそれは、大裾野を忘れているからだ。裾野は富士の物だ、富士のものを富士に返して、東海の浜にまで引きさがり、さて仰いで見たまえ。それから数十里の裾野を、曲馬の馬が、同じ円周を駆けめぐるように、廻って見たまえ。それこそ富士という彫刻品の、線と面の回転だ、そこに驚くべき変化と偉大さを発見するだろう。
 あるいは一歩さかのぼって、裾野がいまだ生成しないうち、富士と、愛鷹と、箱根が、陥没地帯の大海原に、火山島のように煙を吐いて、浮かんでいたところを想像すれば、今日の豆南諸島の大島、利島、三宅島などが、鋪石ほせきのように大洋に置かれているのと似て、更に大規模なる山海の布置を構成するであろう。今のような裾野となって、富士の登山が一しおよろこばれるのは、絨氈をく緑青の草と、湿分を放散する豊富な濶葉かつよう樹林とにあろう。旅人がアンデスの登山を悦ぶのは、麓が永久の春であるからだそうだが、山の天国は、発達した裾野を有するところの、富士火山帯に多くあらねばならない。それから山の全裸体像として、線や、光や、影や、円味やを研究するのに、富士ぐらい秘密を許してくれる山はあるまい。縦横はもとより、富士ばかりは恐らく螺旋らせん状にでも上れよう。結局富士は、探検家の山でなくて、女でも、子供でも、老人でも、心やすく登れる全人類の山だ。殊に旅人の山だ。私も旅人として富士を讃美する。

 アルプスの美を、知覚的に讃美したのは、スイスの農夫でなくて、旅人であった如くに、富土山もそうであった。「天地あめつちのわかれし時ゆ、神さびて」と歌った山辺赤人やまべのあかひとは旅人であった。太刀たち持つわらべ、馬の口取り、仕丁しちょうどもを召連れ、馬上そでをからんで「時知らぬ山は富士の根」と詠じた情熱の詩人在原業平ありわらのなりひらも、流竄りゅうざんの途中に富士を見たのであった。墨染すみぞめの衣を着た坊さんが、網代笠あじろがさを片手に杖ついて、富士に向って休息しているとすれば、問わずして富士見西行さいぎょうなることを知る。富士くらい大詩人を持った山が、地球上のどこに存在しているだろう。名もない一遊子ではあるけれど、私も幼い時から、富士の影を浴びて、武蔵相模で育った一児童として、永い間の外国生活から、故国へ放還された一旅人として、親友と、子供と、忠実なる案内者とに囲まれて、今富士の膝下ひざもとへ来て亡き母の顔にまみえまつるが如く、しみじみと見ているのだ。
 今にも大野原の上を、自由に飛翔しようとする大鳥が羽翼を収めて、暫く休息している姿勢を、富士は取っている。空気は頬一杯に吹かれてビードロのように、薄青い光を含んで流動している。そして野も、山も、森も、朝の光線にひたって、ああ光ほど不思議な現像液はあるまい。幻からはっきりと、物体のつかめる現実の世界となった。

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