ちくま日本文学全集 幸田露伴 |
筑摩書房 |
1992(平成4)年3月20日 |
1992(平成4)年3月20日第1刷 |
その一
「アア詰らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫ってやれか。オイ、おとま、一升ばかり取って来な。コウト、もう煮奴も悪くねえ時候だ、刷毛ついでに豆腐でもたんと買え、田圃の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面あすることはねえ、女ッ振が下がらあな。 「おふざけでないよ、寝ているかとおもえば眼が覚めていて、出しぬけに床ん中からお酒を買えたあ何の事たえ。そして何時だと思っておいでだ、もう九時だよ、日があたってるのに寝ているものがあるもんかね。チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きておしまいてえば。 「厭あだあ、母ちゃん、お眼覚が無いじゃあ坊は厭あだあ。アハハハハ。 「ツ、いい虫だっちゃあない、呆れっちまうよ。さあさあお起ッたらお起きナ、起きないと転がし出すよ。 と夜具を奪りにかかる女房は、身幹の少し高過ぎると、眼の廻りの薄黒く顔の色一体に冴えぬとは難なれど、面長にて眼鼻立あしからず、粧り立てなば粋に見ゆべき三十前のまんざらでなき女なり。 今まで機嫌よかりし亭主は忽然として腹立声に、 「よせエ、この阿魔あ、おれが勝手だい。 と云いながら裾の方に立寄れる女を蹴つけんと、掻巻ながらに足をばたばたさす。女房は驚きてソッとそのまま立離れながら、 「オヤおっかない狂人だ。 と別に腹も立てず、少し物を考う。 「あたりめえよ、狂人にでもならなくって詰るもんか。アハハハハ、銭が無い時あ狂人が洒落てらあナ。 「お銭が有ったらエ。 「フン、有情漢よ、オイ悪かあ無かったろう。 「いやだネ知らないよ。 「コン畜生め、惚れやがった癖に、フフフフフ。 「お前少しどうかおしかえ、変だよ。 「何が。 「調子が。 「飛んだお師匠様だ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みあしめえし。 「だって、無いものを。 「何だと。 「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。 「智慧がか。 「いいえさ。 「べらぼうめえ、無えものは無えやナ、おれの脱穀を持って行きゃ五六十銭は遣すだろう。 「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜っているのかい。 「ハハハハ、お手の筋だ。 「だって、後はどうするエ。一張羅を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。 「案じなさんな、銭があらあ。 「妙だねえ、無いから帯や衣類を飲もうというのに、その後になって何が有るエ。 「しみッたれるなイ、裸百貫男一匹だ。 「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家の児が起きると内儀の内職の邪魔になるわネ。そんならいいよ買って来るから。 と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉を手にし、外へ出でんとす。 「オイオイ此品でも持って行かねえでどうするつもりだ。 と呼びかけて亭主のいうに、ちょっと振りかえって嬉しそうに莞爾笑い、 「いいよ、黙って待っておいで。 たちまち姿は見えずなって、四五軒先の鍛冶屋が鎚の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、 「ハテナ、近所の奴に貸た銭でもあるかしらん。知人も無さそうだし、貸す風でもねえが。 と独語つところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚い衣服、髪垢だらけの頭したるが、裏口から覗きこみながら、異に潰れた声で呼ぶ。 「大将、風邪でも引かしッたか。 両手で頬杖しながら匍匐臥にまだ臥たる主人、懶惰にも眼ばかり動かして一ト眼見しが、身体はなお毫も動かさず、 「日瓢さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。 とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。 「ハハハ、運を寝て待つつもりかネ、上ってもご馳走は無さそうだ。 「違えねえ、煙草の火ぐらいなもんだ。 「ハハハ、これではお互に浮ばれない。時に明日の晩からは柳原の例のところに○州屋の乾分の、ええと、誰とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源に昨日そう聞いたが一緒に行きなさらぬか。 「往かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。 「そうさ、お互に少し中り屋さんにならねばならん。 「誰だってそうおもわねえものは無えんだ、御祖師様でも頼みなせえ。 「からかいなさるな、罰が当っているほうだ。 「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語の叮嚀な中がいい。 「ガリスの果と知れるかノ。 「オヤ、気障な言語を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊しだあナ、チョタのガリスのおん果とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。 「チョタとは何だ、田舎漢のことかネ。 「ムム。 「忌々しい、そう思わるるが厭だによって、大分気をつけているが地金はとかく出たがるものだナ。 「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気を出したもんだ。 「イヤ居れば居るだけ笑われる、明日来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。 と立帰り行くを見送って、 「おえねえ頓痴奇だ、坊主ッ返りの田舎漢の癖に相場も天賽も気が強え、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえ中が可笑い。ハハハ、いい業ざらしだ。 と一人笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。 「オイどうしたんだ。 「どうもしないよ。 やはり寝ながらじろりッと見て、 「気のぬけたラムネのように異うすますナ、出て行った用はどうしたんだ。 「アイ忘れたよ。 「ふざけやがるなこの婆。 「邪見な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室をつかめえてお慮外だよ、兀ちょろ爺の蹙足爺め。 と少し甘えて言う。男は年も三十一二、頭髪は漆のごとく真黒にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅りたるままなるが人に優れて見好きなり。されば兀ちょろ爺と罵りたるはわざとになるべく、蹙足爺とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られても激しくは怒らず、かえって茶にした風にて、 「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。 「こうしてから飲むがいいサ。 と突然に夜具を引剥ぐ。夫婦の間とはいえ男はさすが狼狙えて、女房の笑うに我からも噴飯ながら衣類を着る時、酒屋の丁稚、 「ヘイお内室ここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。 と徳利と味噌漉を置いて行くは、此家の内儀にいいつけられたるなるべし。 「さあ、お前はお湯へいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。 手拭と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手に取った帚をもう持っている。 「ありがてえ、昔時からテキパキした奴だったッケ、イヨ嚊大明神。 と小声で囃して後でチョイと舌を出す。 「シトヲ、馬鹿にするにも程があるよ。 大明神眉を皺めてちょいと睨んで、思い切って強く帚で足を薙ぎたまう。 「こんべらぼうめ。 男は笑って呵りながら出で行く。
その二
浴後の顔色冴々しく、どこに貧乏の苦があるかという容態にて男は帰り来る。一体苦み走りて眼尻にたるみ無く、一の字口の少し大なるもきっと締りたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世の鹹味を嘗めて来た女には好かるべきところある肌合なリ。あたりを片付け鉄瓶に湯も沸らせ、火鉢も拭いてしまいたる女房おとま、片膝立てながら疎い歯の黄楊の櫛で邪見に頸足のそそけを掻き憮でている。両袖まくれてさすがに肉付の悪からぬ二の腕まで見ゆ。髪はこの手合にお定まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏の細君などが四銭の丸髷を二十日も保たせたるよりは遥に見よげなるも、どこかに一時は磨き立たる光の残れるが助をなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、 「さあ、ここへおいで。 と坐を与う。男は無言で坐り込み、筒湯呑に湯をついで一杯飲む。夜食膳と云いならわした卑しい式の膳が出て来る。上には飯茶碗が二つ、箸箱は一つ、猪口がが二ツと香のもの鉢は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐せしめられ、駕籠屋の腕と云っては時代違いの見立となれど、文身の様に雲竜などの模様がつぶつぶで記された型絵の燗徳利は女の左の手に、いずれ内部は磁器ぐすりのかかっていようという薄鍋が脆げな鉄線耳を右の手につままれて出で来る。この段取の間、男は背後の戸棚に りながらぽかりぽかり煙草をふかしながら、腮のあたりの飛毛を人さし指の先へちょと灰をつけては、いたずら半分に抜いている。女が鉄瓶を小さい方の五徳へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋を取る、ぐいと雲竜を沈ませる、危く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳り出しもし得ず引退んだり出たりしている間に鍋は火にかけられる。 「下の抽斗に鰹節があるから。 と女は云いながら立って台所へ出でしが、つと外へ行く。 「チョツ、削けといやあがるのか。 と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然になって抽斗を開け、小刀と鰹節とを取り出したる男は、鰹節の亀節という小きものなるを見て、 「ケチびんなものを買っときあがる。 と独言しつつそこらを見廻して、やがて膳の縁へ鰹節をあてがって削く。 女はたちまち帰り来りしが、前掛の下より現われて膳に上せし小鉢には蜜漬の辣薑少し盛られて、その臭気烈しく立ち渡れり。男はこれに構わず、膳の上に散りし削たる鰹節を鍋の中に摘み込んで猪口を手にす。注ぐ、呑む。 「いいかエ。 「素敵だッ、やんねえ。
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