ちくま日本文学全集 幸田露伴 |
筑摩書房 |
1992(平成4)年3月20日 |
1992(平成4)年3月20日第1刷 |
流鶯啼破す一簾の春。書斎に籠っていても春は分明に人の心の扉を排いて入込むほどになった。 郵便脚夫にも燕や蝶に春の来ると同じく春は来たのであろう。郵便という声も陽気に軽やかに、幾個かの郵便物を投込んで、そしてひらりと燕がえしに身を翻えして去った。 無事平和の春の日に友人の音信を受取るということは、感じのよい事の一である。たとえば、その書簡の封を開くと、その中からは意外な悲しいことや煩わしいことが現われようとも、それは第二段の事で、差当っては長閑な日に友人の手紙、それが心境に投げられた恵光で無いことは無い。 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている一封の文字は、先輩の某氏の筆であることは明らかであった。そして名宛の左側の、親展とか侍曹とか至急とか書くべきところに、閑事という二字が記されてあった。閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙がしくなかったら披いて読め、他に心の惹かれる事でもあったら後廻しにしてよい、という注意である。ところがその閑事としてあったのが嬉しくて、他の郵書よりはまず第一にそれを手にして開読した、さも大至急とでも注記してあったものを受取ったように。 書中のおもむきは、過日絮談の折にお話したごとく某々氏等と瓢酒野蔬で春郊漫歩の半日を楽もうと好晴の日に出掛ける、貴居はすでに都外故その節お尋ねしてご誘引する、ご同行あるならかの物二三枚をお忘れないように、呵々、というまでであった。 おもしろい。自分はまだ知らないことだ。が、教えられていたから、妻に対って、オイ、二三枚でよいが杉の赤身の屋根板は無いか、と尋ねた。そんなものはございません、と云ったが、少し考えてから、老婢を近処の知合の大工さんのところへ遣って、巧く祈り出して来た。滝割の片木で、杉の佳い香が佳い色に含まれていた。なるほどなるほどと自分は感心して、小短冊位の大きさにそれを断って、そして有合せの味噌をその杓子の背で五厘か七厘ほど、一分とはならぬ厚さに均して塗りつけた。妻と婢とは黙って笑って見ていた。今度からは汝達にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら、自分は味噌の方を火に向けて片木を火鉢の上に翳した。なるほどなるほど、味噌は巧く板に馴染んでいるから剥落もせず、よい工合に少し焦げて、人の※意[#「飫」のへん+「巉」のつくり、398-6]を催させる香気を発する。同じようなのが二枚出来たところで、味噌の方を腹合せにしてちょっと紙に包んで、それでもう事は了した。 その翌日になった。照りはせぬけれども穏やかな花ぐもりの好い暖い日であった。三先輩は打揃って茅屋を訪うてくれた。いずれも自分の親としてよい年輩の人々で、その中の一人は手製の東坡巾といったようなものを冠って、鼠紬の道行振を被ているという打扮だから、誰が見ても漢詩の一つも作る人である。他の二人も老人らしく似つこらしい打扮だが、一人の濃い褐色の土耳古帽子に黒い絹の総糸が長く垂れているのはちょっと人目を側立たせたし、また他の一人の鍔無しの平たい毛織帽子に、鼠甲斐絹のパッチで尻端折、薄いノメリの駒下駄穿きという姿も、妙な洒落からであって、後輩の自分が枯草色の半毛織の猟服――その頃銃猟をしていたので――のポケットに肩から吊った二合瓶を入れているのだけが、何だか野卑のようで一群に掛離れ過ぎて見えた。 庭口から直に縁側の日当りに腰を卸して五分ばかりの茶談の後、自分を促して先輩等は立出でたのであった。自分の村人は自分に遇うと、興がる眼をもって一行を見て笑いながら挨拶した。自分は何となく少しテレた。けれども先輩達は長閑気に元気に溌溂と笑い興じて、田舎道を市川の方へ行いた。 菜の花畠、麦の畠、そらまめの花、田境の榛の木を籠める遠霞、村の児の小鮒を逐廻している溝川、竹籬、薮椿の落ちはららいでいる、小禽のちらつく、何ということも無い田舎路ではあるが、ある点を見出しては、いいネエ、と先輩がいう。なるほど指摘されて見ると、呉春の小品でも見る位には思えるちょっとした美がある。小さな稲荷のよろけ鳥居が薮げやきのもじゃもじゃの傍に見えるのをほめる。ほめられて見ると、なるほどちょっとおもしろくその丹ぬりの色の古ぼけ加減が思われる。土橋から少し離れて馬頭観音が有り無しの陽炎の中に立っている、里の子のわざくれだろう、蓮華草の小束がそこに抛り出されている。いいという。なるはど悪くはない。今はじまったことでは無いが、自分は先輩のいかにも先輩だけあるのに感服させられて、ハイなるほどそうですネ、ハイなるほどそうですネ、と云っていると、東坡巾の先生は然として笑出して、君そんなに感服ばかりしていると、今に馬糞の道傍に盛上がっているのまで春の景色だなぞと褒めさせられるよ、と戯れたので一同哄然と笑声を挙げた。 東坡巾先生は道行振の下から腰にしていた小さな瓢を取出した。一合少し位しか入らぬらしいが、いかにも上品な佳い瓢だった。そして底の縁に小孔があって、それに細い組紐を通してある白い小玉盃を取出して自ら楽しげに一盃を仰いだ。そこは江戸川の西の土堤へ上り端のところであった。堤の桜わずか二三株ほど眼界に入っていた。 土耳古帽は堤畔の草に腰を下して休んだ。二合余も入りそうな瓢にスカリのかかっているのを傍に置き、袂から白い巾に包んだ赤楽の馬上杯を取出し、一度拭ってから落ちついて独酌した。鼠股引の先生は二ツ折にした手拭を草に布いてその上へ腰を下して、銀の細箍のかかっている杉の吸筒の栓をさし直して、張紙の猪口の中は総金箔になっているのに一盃ついで、一ト口呑んだままなおそれを手にして四方を眺めている。自分は人々に傚って、堤腹に脚を出しながら、帰路には捨てるつもりで持って来た安い猪口に吾が酒を注いで呑んだ。 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了って、懐中の紙入から弾機の無い西洋ナイフのような総真鍮製の物を取出して、刃を引出して真直にして少し戻すと手丈夫な真鍮の刀子になった。それを手にして堤下を少しうろついていたが、何か掘っていると思うと、たちまちにして春の日に光る白い小さい球根を五つ六つ懐から出した半紙の上に載せて戻って来た。ヤア、と云って皆は挨拶した。 鼠股引氏は早速にその球を受取って、懐紙で土を拭って、取出した小短冊形の杉板の焼味噌にそれを突掛けて喫べて、余りの半盃を嚥んだ。土耳古帽氏も同じくそうした。東坡巾先生は味噌は携えていなくって、君がたんと持って来たろうと思っていたといって自分に出させた。果して自分が他に比すれば馬鹿に大きな板を二枚持っていたので、人々に哄笑された。自分も一顆の球を取って人々の為すがごとくにした。球は野蒜であった。焼味噌の塩味香気と合したその辛味臭気は酒を下すにちょっとおもしろいおかしみがあった。
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