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老子化胡経(ろうしかこきょう)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:11:25 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 | |||
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佛以二周昭王二十四年一生、穆王五十三年滅。計入二涅槃一後、經二三百四十五年一、始到二定王三年一、老子方生。(中略)至二敬王元年一、凡經二四百二十五年一、始與二尹喜一西遁。據レ此年載懸殊。無二乃謬一乎(『古今佛道論衡』卷甲)
かくて首尾好く論壇の勝利者と宣せられて居る。併し道士も中々屈伏せぬ。老子は東周の世に生れて、釋迦の後出といふかも知れぬが、老子は八十一變とて、何度となく生れ變つて來て居る。西周の時は勿論、殷の時にも生れて居る。釋迦はやはり老子の後人であるといふから、佛教徒も亦段々と釋迦の年代を繰り上げ、或は西周の初とし、或は殷の時代とし、或は夏の末などと主張いたす。これが釋迦出世の年代に關する異説を多くした原因の一つである。勿論印度本國でも、釋迦出世の年代に關する異説は隨分あつた。併しその多數、殊にその出世年代をより古代に置く説は、支那で製造されたもので、その目的は道教對抗に存するのである。 皆未レ可レ信。但趙伯林衆聖點記足二以徴一焉。是或其眞也。
平田篤胤の『出定笑語』も亦全く富永の説を祖述して居る。如何にも支那所傳の諸説の中では、この衆聖點記の説が一番實際に近く、今日歐洲の印度學者の説にも、比較的よく接近して居る。之によると釋迦は孔子と同時、老子よりはやや後輩で、然もその年代相及ぶといふのが事實らしい。 故經云。大士迦葉老子其人也。故以二詭教五千一、翼二匠周世一、化縁既盡、囘二歸天竺一。故有二背レ關西引之一。華人因レ之作二『化胡經』一也。
と載せてある。經といふのは『老子大權菩薩經』か、それと類似の僞作佛經を指すので、梁代以前已にかかる佛書の僞作されたことが知れる。『化胡經』の由來を、佛家の都合好きやう牽強したなどは、一寸手際である。 寶應聲菩薩化爲二伏羲一。吉祥菩薩化爲二女一。儒童化作二孔丘一。迦葉化爲二李老一。
と記し、『造天地經』(宋の羅泌の『路史發揮』に引く所による)にも、次の如き略同樣の記事が見えて居る。 寶歴菩薩下二生世間一。號曰二伏羲一。吉祥菩薩下二生世間一。號曰二女一。摩訶迦葉號曰二老子一。儒童菩薩號曰二孔丘一。
又『清淨法行經』といふには、儒童菩薩を孔子に充て、光淨菩薩を顏子に、摩訶迦葉を老子に充ててある。『清淨法行經』は北周の道安已に之を引用し、『造天地經』は北周の 如レ聞道觀皆畫二化胡成佛之相一。諸寺亦畫二老君之形一。兩教尊容。互有二毀辱一。深爲レ不レ然。自レ今竝須二毀除一。其『化胡經』屡朝禁斷。今後有レ留二此僞經一。及諸記録有下言二化胡一者上。竝與削除。違者準レ勅科レ罪。
この時隨分嚴重に搜索して燒き棄てたと見え、『舊唐書』の經籍志にも『新唐書』の藝文志にも、その書名を記載してない。〔我が藤原佐世の『日本國見在書目録』の道家部に『化胡經』十卷を收録してあるけれど、肝心の『化胡經』そのものは今日に傳らぬ。故に今日では當時の『化胡經』の内容を知ることが出來ぬ。ただ近年フランスの Pelliot 氏が敦煌から發見した『老子化胡經』の殘卷は、その内容や字體から推して唐時代のものと認められるから、之によつて過去の『化胡經』の幾分を窺ひ得るのみである。 (明治四十三年十二月『藝文』第一年第九號所載)
底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店 1968(昭和43)年2月13日発行 初出:「藝文 第一年第九號」 1910(明治43)年12月 入力:はまなかひとし 校正:米田進 2003年4月1日作成 2004年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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