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晋室の南渡と南方の開発(しんしつのなんととなんぽうのかいはつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:01:04 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


         二

 然るに晉室の南渡は、この南北の文野の區劃に、大なる變動を生ぜしむる原因となつた。殺伐野蠻な塞外種族が、古來漢族の根據地であつた北支那を占領して、茲に三百年間、優勝者の權力を振ひ、漢族の天子はその大官貴族の多數と共に、南支那に移住するといふ一大事變が、支那文化の中樞に大變動を及ぼすべきは、冒頭より期待することが出來る。
 塞外種族の北支那へ移住し、若くば歸化し來たものは、兩漢・三國・西晉時代にかけて、決して少數ではなかつた。西晉時代には一時に十萬以上の大衆の移住歸化も稀有でなかつた。西北方面の州郡では、戎狄と漢族と居民相半する有樣さへあつた。西晉の太康元年に郭欽、元康九年に江統、相前後して徙戎シジユウ論をたてまつり、内地に雜居せる塞外種族の處置の急務なることを、絶叫疾呼したのはこの故である。
 所が今や此等の塞外種族が、被治者として雜居するではなく、堂々と實力によつて北支那を占領して、漢族を統治することとなつたのである。勿論晉室が南渡しても、漢族の多數は依然北支那に住んで居る。北支那の主權が匈奴・羯・鮮卑・※(「低-にんべん」、第3水準1-86-47)・羌と移轉しても、漢族の人材は何れの種族にも登庸された。併し要するに彼等は劣敗者である。被治者である。衣冠の華族すら胡人の陵侮を免れ得れば幸とする世の中であつた(12)。彼等の多數は漢狗とか一錢漢とかいふ侮辱を甘受せなければならなかつた(13)。漢狗とは狗同樣の漢人といふ意味で、一錢漢とは一文奴の漢人といふ意味である。かくて塞外種族の大臣大將の下に、日一日と塞外の風氣が北支那に浸潤彌蔓するのは、自然の勢といはねばならぬ。
 之に反して南支那は、その間、終始漢族の天子を戴いた。漢族の士民も亦尠からず、晉室と共に南に移つた。或は兵力を以て強逼されて、本意ならず移つたものもある。江淮以南の地、到る處に僑郡又は僑縣を建てて、茲にこれら新來の北人を安插した。殊に王氏・謝氏を始め、中國の名族甲姓は、多く亂を避けて江南に徙り、當時のいはゆるケウ姓となつた。僑姓僑民は當初こそ故土を思慕して、南土の版籍に列することを拒んだけれど、五十年の歳月は次第に彼等を南化せしめた。東晉の中世に、桓温が中原恢復に手を着け、永嘉の亂に南渡した者は、一切北土に還附せんと計畫した時、彼等はむしろ安樂の南土を後に、喪亂の北土に歸ることを憚つたのである(14)。間もなくいはゆる庚戌の制が布かれて、南土に僑寓して居る者は、一切その所在の版籍に登録され、課役に服することとなつた。この中國の世族――聲望に於て智識に於て當時尤も卓越した漢族――の多數が江南に遷徙し、永住したことが、漢族特有の文化を傳播して、南方開發に多大の貢獻をしたことは申す迄もない。
 南北朝對立の際、南朝は北朝を指して索虜といひ、北朝は南朝を斥けて島夷といひ、互に誹詆を逞くして正閏を爭うた。正閏如何の問題は別として、公平に批判すると、北朝は地は中原を占めて、人は左衽サジンの夷類である。南朝は地は島夷に屬して、人は衣冠の華族である。北齊の顏之推ガンシスヰは南北を比較して、
  冠冕君子、南方爲優。閭里小人、北方爲愈。
と評して居る(15)。こは主として言語音韻に就いて下した評ではあるが、推して一般にも應用することが出來ると想ふ。當時北土の民間には、猶ほ漢族多數で、その風尚は南方呉越の民衆に優つて居つたが、南朝の卿相は漢族の甲姓で、その應對は遙に北朝の高官――多くは塞外種族の出身たる――に優つて居つたのである。
 晉の南渡後、隋の統一に至るまで、約三百年の間、北支那と南支那と相對立して、文藝・學術・風尚その他萬端に渉つて、顯著なる相違を表はして居る。
 先づ『顏氏家訓』や『南史』『北史』等を材料として當時の南北の風尚を比較すると、南方ではちやを飮み魚を食つたが、北方では酪を飮み肉をくらつた。南人は老莊を尚び、室内の清談に耽つた間に、北人は郊外の守獵に馳驅した。南人は奢侈懦弱であつたが、北人は質素剛健であつた。南朝の官人は皆輿に乘り、偶馬に乘る者があると、世の指彈を受けたが、北朝は皆騎馬に限つた。北の儒生は皆兵射に達して居つたが、南方では餘り流行せぬ。北人は女は織衽に、男は農耕に力めて、一般に勤儉の風があつたが、南人は一體に織耕を厭ひ、殊にその貴族は不斷の安逸を貪つた。生計に餘り頓着せぬ南人は、概して數學に不得手であつたが、北人はその反對に尤も算數に長じて居つた。南北ともに魏晉の後を承けて、門閥を重んじたが、南朝は殊に極端であつた。從つて譜學の流行も南朝が一層で、士庶の區別も、官途の制限も、頗る嚴重であつたが、塞外種族の勢力ある北朝では、この弊がやや尠い。要するに北方では塞外殺伐の風が著しく、南方では漢族文弱の風が目に着く。こは支那の南北問題を攻究するに當つて、輕々に看過すべからざる一大現象である。
 次に當時の經學界を見渡すと、北人は訓詁を重んじ、南人は義理を重んずる。北人は東漢の舊學を承け、南人は魏晉の新學を承けた。北朝では易は鄭玄の註を採るが、南朝では王弼の註を採つた。書では北朝は鄭玄の註を用ゐたが、南朝は孔安國の註を用ゐた。左氏傳は北朝は服虔の註に循うたが、南朝は杜預ドヨの註に循つた。唐人はこの學風の相違に就いて、
  南人約簡得其英華。北學深蕪窮其枝葉
と評して居る(16)。この評の當否は兎に角、唐の太宗の貞觀十四年に、孔穎達クエイタツ等に命じて、『五經正義』を選せしめた時、唐は北朝の後を承けたに拘らず、大體南朝の經説を採用して、北朝の經學を排斥した。
 南北の書道にもその間に看過すべからざる相違がある。南朝の書風はすべて婉麗清雅で、北朝は概して痩硬古樸、各※(二の字点、1-2-22)その特徴を備へて居るけれど、北朝には遂に王羲之・王獻之父子に當り得る程の大立者がない。顏之推ガンシスヰ[#ルビの「ガンシスヰ」は底本では「ガシシスヰ」]が北人を評して、書迹鄙陋、造字猥拙といへるは、或は酷に失すとしても、南人が擧つて二王の書迹の模※(「にんべん+方」、第3水準1-14-10)に腐心するに比しては、一體に及ばざること遠しといはねばならぬ。唐宋の學者の書道を論ずる者、皆南に厚くして北に薄いのは、必ずしも各自の嗜好に佞する結果とのみは斷じ難い。李唐の世となり、太宗が王羲之を尊崇して以來、書道に於ても南派は北派を壓倒することとなつた(17)。
 文詞に就いても南北の間に好尚の異同がある。南人は文華を尚び、北人は質實を尚ぶ。各※(二の字点、1-2-22)得失はあるが、齊・周以來、南朝輕綺の文體次第に北に流れて、隋唐の際に行はれた。この點に於ても、北人は南人に一籌を輸して居るといはねばならぬ(18)。
 南北の音樂を論ずると、南には呉楚の聲多く、北には胡虜の音多い。等しく純正を缺くとしても、北樂に比して南樂は遙に優つて居つた。西晉の末、洛陽・長安の陷落した時、伶官樂器は匈奴に入り、一時中國傳來の雅樂は失はれたけれども、江東の新朝廷の不斷の努力によつて、次第に遺工逸樂を採拾し、殊に※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)水の戰勝と共に、西晉・漢・趙・燕・前秦と傳へて來た樂工を獲て、廟堂の雅樂大に備つたのである(19)。隋の文帝が陳を平げて後ち、南朝の樂を耳にして、華夏正聲也と嘆美したのは、誠に故あることと思ふ。隋及び唐の音樂は、大體に於て、南北を併せたものではあるが、その雅樂は、畢竟南朝の雅樂であるから、音樂に於ても南が北に勝つた譯である(20)]。
 永嘉以來三百年間、中原と江南と界を限り、各自の文化を有して相對抗したが、結局は南方の學術・文藝が勝利を博したのである。南方文化の勝利、こは確に破天荒の事變といはねばならぬ。

         三

 南北支那の文化發達の迹を達觀すると、明に三大時期に分つことが出來る。魏晉以前は北支那の文化が遙に南支那を壓した時代で、明清以後は南支那の文化が遠く北支那を壓した時代である。試に『後漢書』の儒林・文苑の二傳に、專傳をもつて居る六十四人――材料としては聊か不充分で、又不適當かも知れぬが――を本として、東漢二百年間に於ける人材分布の樣子を、今の地理に當てて調査すると、上の如き結果を生ずる。

北       南       南北以外
直隷  2人  湖北  2人  四川  7
山東 16   江蘇  1
河南 23   安徽  1
陝西  7   浙江  2
甘肅  2   江西  1
計  50   計   7

 即ち北五省に産した人材は、南五省に産した人材の七倍以上に當つて居る。當時北方の文化が南方を壓した明證である。
 飜つて『皇明通紀』の第十三卷に收めてある、會元(京師で擧行する會試の首席合格者)三及第(殿試の最優等者、すなはち状元・榜眼・探花の三人)總考を根據として、明の洪武四年より萬暦四十四年に至る二百四十五年間に出た、會元及び三及第者の總數二百四十四人――この統計は幾分不正確かも知らぬが――に就いて、當時の人材分配の状況を觀ると、全然趣を異にしてゐる。

北         南         南北以外
北直隷  7人   南直隷 66人   四川   6人
(今の直隷)    (今の江蘇・安徽)
山東   7    浙江  48
山西   4    江西  48
河南   2    福建  31
陝西   9    湖廣   8
(今の陝西・甘肅) (今の湖北・湖南)
計   29    廣東   6
          廣西   2
          計  209

すなはち南方の人材は北方のそれに比して七倍以上に當つてゐる。北支那は最早明かに南支那の敵ではない。
 漢の司馬遷が、
  夫齊魯之閑於文學、自古以來其天性也(21)。
と評したのは、魏晉以前に於ては事實であるが、明以後には通用せぬ。清の乾隆帝は之に反して、
  江浙爲人文淵藪(22)。
と評して居るが、こは明清時代には動かすべからざる事實で、然も魏晉以上には適當せぬ。要するに支那近代の學術について論ぜば、北は遠く南に遜り、古代の學術に就いて論ぜば、南は遠く北に遜る。是が山にも比すべき斷案である(23)。
 支那の歴史は一面より觀れば、漢族の文化の南進の歴史ともいへる。魏晉以前は支那文化の中樞は北支那に在る。明清時代には南支那に在る。この間判然と鴻溝を劃して居る。魏晉以後の一千年は、正しくこの支那文化の中樞の移動する過渡期である。この過渡の門戸を開いたのが、晉室の南渡である。晉室南渡の最大意義は斯に存することと想ふ。

 參照
(1)Richthofen;China,Bd.I.s.340-342.
(2)清の崔述の『崔東壁遺書』泗洙考信餘録
(3)『經史説林』所載、岡田正之氏の「支那の古代に於ける南北思想説に就きて」
(4)『漢書』卷六十九趙充國傳贊
(5)『後漢書』卷八十八虞※(「言+羽」、第3水準1-92-6)
(6)清の顧炎武の『日知録』卷三十一
(7)『孟子』滕文公上
(8)『史記』卷之七項羽本紀
(9)『資治通鑑』卷八十五晉紀七
(10)『後漢書』卷八十三徐穉傳
(11)『晉書』卷七十一陳※[#「君+頁」、読みは「いん」、147-11]
(12)『資治通鑑』梁紀十三陳紀五
(13)『晉書』卷百五石勒傳下
(14)『資治通鑑』卷一百一晉紀二十三
(15)『顏氏家訓』音辭篇
(16)『隋書』卷七十五儒林傳
(17)清の阮元の『※[#「研/手」、読みは「けん」、147-17]經室集』三集卷一所載、「南北書派論」
(18)『隋書』卷三十五經籍志四
(19)『資治通鑑』卷一百五晉紀二十七
(20)『舊唐書』卷二十八音樂志一
(21)『史記』卷百二十一儒林傳
(22)『史學雜誌』第十三編九號所載、市村博士の「四庫全書と文淵閣とに就いて」に引く所の乾隆帝四十七年七月の上諭
(23)『國粹學報』第一年學篇所載、清の劉光漢の「南北學派不同總論」

(大正三年十月『藝文』第五年第一〇號所載)




 



底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年1月15日公開
2004年2月21日修正
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    「りつしんべん+槿のつくり」、読みは「きん」    140-5
    「君+頁」、読みは「いん」    141-1、147-11
    「研/手」、読みは「けん」    147-17

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