五
〔焚書〕 始皇帝の施政中、尤も後世の不評を招いたのは、いはゆる焚書・坑儒の二點である。世の學者は多く之によつて彼を人道の敵、文教の仇と信じて居る。如何にも焚書・坑儒は、多少亂暴であつたかも知れぬ。しかし之にも幾分の理由がある。一概に始皇帝のみを非難し去る譯にはいかぬ。 學者の羨稱おかざる夏・殷・周の三代も、專制時代である。決して後人の想像するが如き、自由の世ではなかつた。造言の刑とか亂民の刑とか、若くは左道の辟とか稱して、すべて恢詭傾危の言を弄して、民心を蠱惑する者は、容赦なく國憲に處して居る。然るに周室衰へ、春秋より戰國と、世の降る儘に、實力競爭時代となつて、諸侯は何れも天下の人材を羅致して、國の富強を圖ることとなつた。かく人材登傭の途の開けると共に、處士横議の弊が釀し初めた。 戰國時代に於ける處士の跋扈は、隨分厄介な問題であつた。孔子すら不レ在二其位一不レ謀二其政一というて居るに、彼等は何れも無責任不謹愼なる政治論を敢てして、治安を害し、民心を惑はすのである。温良なる孔子すら、衆を聚めて奇を衒つた少正卯を誅殺したではないか。當時の政治家にとつて、處士の横議は到底其儘に看過し難い程であつた。心ある政治家は早く之を抑壓するに腐心し初めた。或者は更に進んでその檢束に着手し、且つ又處士横議の源泉となるべき書籍、即ち當時の政治に反對せる思想を載せた、書籍の處分さへ實行したものもある。秦の如きはその一例で、已に孝公の時から、民間の政治論を禁じ、犯す者は國境以外に放逐し、治安に害ありと認めた、『詩經』『書經』等の古典を焚いたことがある。 戰國の末に出た韓の韓非は、その著『韓非子』のうちに、國を治むるには、法律とその法律を執行する官吏とあれば十分である。この以外に先王の道とか、聖人の書とかの必要はない。然るに今天下到る所に、儒者と稱する者あつて、古聖の書を引いて當世の政を誹り、上下の心を惑はしむるは、甚だ不都合千萬である。先づこの儒者を除き去ることが、刻下の急務であると主張して居る。韓非と同時の秦の呂不韋も亦、その著『呂氏春秋』のうちに、略同樣の意見を述べて居る。 始皇帝はかねて韓非を崇拜して居つた。寡人得下見二此人一與レ之游上、死不レ恨矣とさへいうた程である。呂不韋は始皇即位の初に、國政を委ねた大臣で、然も始皇の實父とさへ傳へられて居る。この韓非、この呂不韋、何れも處士を抑へ古書を除くべしと主唱する以上、始皇は最初より處士と古書の處分に腐心して居たのは、むしろ當然のことと思はれる。かかる事情の下に、彼の尤も信任せる丞相の李斯が、思想統一の爲、君權擁護の爲、異端邪説に關係ある古書を禁止せんことを上書したから、始皇は直に之を納れ、遂に所謂挾書の禁、焚書の令が發布されたのである。 秦の焚書は、文運の大厄であつたことは申す迄もない。しかし世人は多くその書厄を過大視して居るやうである。現に『舊唐書』などにも、三代之書經レ秦殆盡と記してあるが、こは誇張の言で、頗る事實を誣ふるものといはねばならぬ。始皇の典籍を銷燬した記事は、詳に『史記』に載せてあるが、之を熟讀すると、左の事實を否定することが出來ぬ。
(イ)秦に不利益な記事の多い六國の史料は焚いたが、秦の史料は焚かぬ。
(ロ)醫藥・卜筮・農業に關係ある書籍は、民間に使用して差支ない。
(ハ)上記以外の書籍、殊に『詩經』『書經』及び諸子百家の書は、一切民間に所藏することを禁じ、必ず禁令發布後三十日以内に官省に差出さしめて、之を燒棄した。
(ニ)朝廷所屬の博士は、如何なる書籍を所藏しても差支ない。
故に民間一般の書籍を燒棄したのは事實であるが、煩雜なる古文を竹簡に漆で書いて、書籍を作つた當時のこととて、書籍の價も甚だ不廉で、且は携帶にも頗る不便であつたから、民間の藏書の案外貧弱であつたことは申す迄もない。先秦時代に藏書の多きことを、五車の書と稱するが、竹簡に寫した書籍が五車に滿載する程あつても、今日の印刷にすれば、誠に貧弱なものである。されば當時の學者は、大抵は書籍を貯藏するよりも、書籍を諳誦したのである。東漢時代に紙が發明され、寫書やや容易となつた頃にも、民間では依然諳誦の風を繼續して居つた。また當時『公羊傳』『穀梁傳』等の如く、專ら口傳により、未だ竹簡に載せられなんだ書籍も多かつたから、天下の書を焚くといふ條、世人の想像する程、大なる損害はなかつたものと察せられる。殊に秦の朝廷には七十人の博士があつて、その藏書は無難の筈であるから、秦火災厄の程度は愈輕小といはねばならぬ。その後ち楚の項羽が關中に入つて、咸陽の宮殿を一炬に焚き盡した時、官府所藏の典籍多く灰燼に歸したので、古書佚亡の責は、始皇よりも咸陽を焚いた項羽、若くば項羽に先だつて關に入りながら、官府の藏書の保護を怠つた、劉邦や蕭何らが負ふべき筈である。 思想統一の爲、君權擁護の爲とはいへ、天下の書籍を焚くなどは、勿論贊むべきことでないが、ただ世人は焚書事件のみを知つて、その當時の事情と實際とを察せぬ者が多いから、聊か始皇の爲に辯じたのである。
六
〔坑儒〕 始皇帝は挾書の禁令發布の翌年に、諸生四百六十餘人を咸陽に坑殺した。世に所謂坑儒事件である。この事件も根本史料の『史記』を調査すると、後世の所傳は、事實を誣ふるもの、尠からざることが發見される。 戰國の頃から、不死の靈藥を求むることを專門とする、方士といふ者が出來、燕・齊・楚等の諸國王は、何れも方士を信任した。始皇帝も亦當時の風潮に從ひ、幾多の方士を寵用したが、その方士の中で侯生・盧生の二人は、始皇帝を詒き、不死の藥を求むる費用として萬金を貪つたが、固より藥は見當る筈なく、早晩詐僞暴露して、罪に處せられんことを恐れ、行掛けの駄賃に、散々始皇を誹謗して逃亡した。始皇は金を騙られし上に、惡口されしこととて大いに怒り、侯盧二生と日夕往來して、朝廷や皇帝を誹謗した在咸陽の諸生を驗問させた。所がこれら諸生は、徒に一身を免れんが爲に、卑劣にも甲は乙に、乙は丙にと互に罪を他人に嫁したから、拘引の範圍は次第に廣まり、遂に四百六十餘人の檢擧となつたが、眞の犯罪者は發見出來ぬ。始皇も處置に窮して、容疑者全體を坑殺することとした。これが所謂坑儒事件の實相である。 右の事實に由つて觀ると、坑殺された諸生は多く方士である。其うち幾分儒生も混じて居つたやうであるけれど、此等の儒生とても、咎を人に嫁して平然たるが如き破廉恥漢で、儒生の名あつて儒生の實なきものである。殊に彼等は何れも誹謗妖言の犯罪容疑者である。無辜の儒者を、何等の理由なくして殺戮したものと、同一視することは出來ぬ。 犯罪容疑者を擧げて無差別に坑殺したのは、やや亂暴の譏を免れぬが、當時の事情を斟酌すると、これにも多少恕すべき點がある。罪は輕きに從ひ賞は重きに從ふとは、儒家の意見で、法家はその反對に、罪は重きに從ひ、賞は輕きに從ふを原則として居る。法家の説を信奉する始皇帝が、罪の疑はしき者に對して、嚴に從つて處罰したのは、その所信に忠實なる結果である。彼は終始この主義を一貫して居る。坑儒事件に就いてのみ、無情過酷であつた譯ではない。 始皇は一日丞相李斯の途中行列が、餘りに堂々たるを見て、君主の位置を無上絶對に置く彼は、甚だ不平であつた。下尅上の漸とならんことを恐れてである。然るにその翌日から、李斯は打て變つて、その前騎從車の數を減じた。始皇は之を見て、我が不平を李斯に内通した者があるとて大いに怒り、左右の者を案問したが、遂にその人を認め得なんだから、當日左右に侍した者一同を捕へて、死罪に處したことがある。又その後ち、東郡地方で石に始皇帝死而地分の七字を刻した者があつた。始皇は官吏を派遣して、その犯罪者を搜索したが、目的を達し得ずして、遂に附近の住民一同を死罪に處したこともある。此等の事件を坑儒事件と對比すると、始皇の主義も自から理會することが出來る。 若し坑儒事件の當時に、四百六十餘人の諸生中に、一人でも男子らしい者があつて、自からその犯罪を名乘り出で、一同の犧牲となつたならば、決して彼が如き大事を惹き起さなんだに相違ない。坑儒事件に就いては、始皇の暴戻を責めんより、むしろ諸生の卑怯を憫むべきことと思ふ。 私は上數章に渉つて、始皇の内政の重なる點を紹介したが、之によると、彼の政策は多少非難すべき所があつても、大體に於いて時勢に適切であつたことは、否定すべからざる事實である。その他始皇は天下の武器を沒收したこともある。地方の城壁を撤去したこともある。また天下の富豪十二萬戸を國都咸陽に移住させたこともある。何れも割據の餘風を破つて、一統の實效を擧げ、地方を彈壓して、中央を鞏固にするには必要なる政策といはねばならぬ。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页
|