黒島傳治全集 第一巻 |
筑摩書房 |
1970(昭和45)年4月30日 |
1970(昭和45)年4月30日第1刷 |
1970(昭和45)年4月30日第1刷 |
一
子供が一人ぐらいの時はまだいゝが、二人三人となると、育てるのがなかなか容易でない。子供のほしがるものは親として出来るだけ与えたい。お菓子、おもちゃ、帽子、三輪車――この頃は田舎でも三輪車が流行っている。女の子供は、少し大きくなると着物に好みが出来てくる。一ツ身や、四ツ身を着ている頃はまだいゝ。しかし四ツ身から本身に変る時には、拵えてやっても、拵えてやってもなお子供は要求する。彼女達は絶えず生長しているのである。生長するに従って、その眼も、慾望も変化し進歩しているのだ。 清吉は三人の子供を持っていた。三人目は男子だったが、上の二人は女だった。長女は既に十四になっている。 夫婦揃って子供思いだったので、子供から何か要求されると、どうしてもそれをむげに振去ることが出来なかった。肩掛け、洋傘、手袋、足袋、――足袋も一足や二足では足りない。――下駄、ゴム草履、櫛、等、等。着物以外にもこういう種々なるものが要求された。着物も、木綿縞や、瓦斯紡績だけでは足りない。お品は友染の小浜を去年からほしがっている。 二人は四苦八苦しながら、子供の要求を叶えてやった。しかし、清吉が病気に罹って、ぶら/\しだしてから、子供の要求もみな/\聞いてやることが出来なくなった。お里は、家計をやりくりして行くのに一層苦しみだした。 暮れになって、呉服屋で誓文払をやりだすと、子供達は、店先に美しく飾りたてられたモスリンや、サラサや、半襟などを見て来てはそれをほしがった。同年の誰れ彼れが、それぞれ好もしいものを買って貰ったのを知ると、彼女達はなおそれをほしがった。 「良っちゃんは、大島の上下揃えをこしらえたんじゃ。」 お品は縫物屋から帰って来て云った。 「うち(自分のこと)毛のシャツを買うて貰おう。」次女のきみが云った。 子供達は、他人に負けないだけの服装をしないと、いやがって、よく外へ出て行かないのだ。お品は、三四年前に買った肩掛けが古くなったから、新しいのをほしがった。 清吉は、台所で、妻と二人きりになると、 「ひとつ山を伐ろう。」と云いだした。 お里はすぐ賛成した。 山の団栗を伐って、それを薪に売ると、相当、金がはいるのであった。
二
正月前に、団栗山を伐った。樹を切るのは樵夫を頼んだ。山から海岸まで出すのは、お里が軽子で背負った。山出しを頼むと一束に五銭ずつ取られるからである。 お里は常からよく働く女だった。一年あまり清吉が病んで仕事が出来なかったが、彼女は家の事から、野良仕事、山の仕事、村の人夫まで、一人でやってのけた。子供の面倒も見てやるし、清吉の世話もおろそかにしなかった。清吉は、妻にすまない気がして、彼自身のことについては、なるだけ自分でやった。が、お里の方では、そんなことで良人が心を使って病気が長びくと困ると思っていた。清吉の前では快活に骨身を惜まずに働いた。 木は、三百束ばかりあった。それだけを女一人で海岸まで出すのは容易な業ではなかった。 お里が別に苦しそうにこぼしもせず、石が凸凹している嶮しい山路を上り下りしているのを見ると、清吉はたまらなかった。 「ひまがあったら、木を出せえ。」彼は縫物屋が引けて帰ったお品に云いつけた。 「きみも出すか、一束出したら五銭やるぞ。」 姉よりさきに帰っている妹にも云った。きみはまだ小さくて、一束もよく背負えなかったが、 「一束に五銭呉れるん。そんなら出さあ。」 きみは、口を尖らして、眼をかゞやかした。 「出すことなるか?」 「うん、出さあ。一束よう出さなんだら、半束ずつでも出さあ。」 「そうかい。」彼は笑った。
三
木代が、六十円ほどはいったが、年末節季の払いをすると、あと僅かしか残らなかった。予め心積りをしていた払いの外に紺屋や、樋直し、按摩賃、市公の日傭賃などが、だいぶいった。病気のせいで彼はよく肩が凝った。で、しょっちゅう按摩を呼んでいた。年末にツケを見ると、それだけでも、かなり嵩ばっていた。それに正月の用意もしなければならない。 自分の常着も一枚、お里は、ひそかにそう思っていたが、残り少ない金を見てがっかりした。清吉は、失望している妻が可愛そうになった。 「それだけ皆な残さずに使ってもえいぜ。また二月にでもなれゃ、なんとか金が這入っ来んこともあるまい。」と云った。 「えゝ。……」 声が曇って、彼女は下を向いたまゝ彼に顔を見せなかった。…… 正月二日の初売出しに、お里は、十円握って、村の呉服屋へ反物を買いに行った。子供達は母の帰りを待っていたが、まもなく友達がさそいに来たので、遊びに行ってしまった。清吉は床に就いて寝ていた。 十時過ぎにお里が帰って来た。 「一寸、これだけ借りて来てみたん。」彼女は、清吉の枕頭に来て、風呂敷包を拡げて見せた。 染め絣、モスリン、銘仙絣、肩掛、手袋、などがあった。 「これ、品の羽織にしてやろうと思うて……」 と彼女は銘仙絣を取って清吉に見せた。 「うむ。」 「この縞は綿入れにしてやろうと思うて――」 「うむ。」 お里は、よく物を見てから借りて来たのであろう反物を、再び彼の枕頭に拡げて縞柄を見たり、示指と拇指で布地をたしかめたりした。彼女は、彼の助言を得てから、何れにかはっきり買うものをきめようと思っているらしかった。しかし、清吉にはどういう物がいゝのか、どういう柄が流行しているか分らなかった。彼は上向に長々とねそべって眼をつむっていた。彼女はやがて金目を空で勘定しながら、反物を風呂敷に包んだ。 「友吉にゃ、何を買うてやるんだ。」清吉は眼をつむったまゝきいた。 「コール天の足袋。」 「そうか。」と、彼はつむっていた眼を開けた。 妻は風呂敷包みを持って、寂しそうに再び出かけていた。 もっと金を持たせると元気が出るんだが……そう思いながら、彼は眼をつむった。こゝ十日ほど、急に襲って来た寒さに負けて彼は弱っていた。軽い胸の病気に伴い易い神経衰弱にもかゝっていた。そして頭の中に不快なもがもがが出来ていた。 「これ二反借って来たんは、丸文字屋にも知らんのじゃけど……」 もう行ったことに思っていたお里が、また枕頭へやって来た。 「あの、品の肩掛けと、着物に羽織は借って戻ったんを番頭さんが書きとめたけんど、これ二反はあとから借ってつけとらんの。……」 「何だって?」 「この二反も、一と口ことわっとかにゃ悪いと思うて、待ちよったけれど、客が仰山居って旦那も番頭も私なんどにゃ見向いても呉れんせに、黙って借って来たん……。」彼女は弁解するようにつゞけた。 「それでどうするんだ?」 「……」 「向うに知らんとて、黙って取りこむ訳にはいかんぜ。」 お里は何か他のことを二言三言云った。その態度がひどくきまり悪るそうだった。清吉は、自分が云いすぎて悪いことをしたような気がした。 お里は、善良な単純な女だった。悪智恵をかっても、彼女の方から逃げだしてしまうほどだった。その代り、妻が小心で正直すぎるために、清吉は、他人から損をかけられたり儲けられる時に、儲けそこなって歯痒ゆく思ったりすることがたび/\あった。 彼は二十歳前後には、人間は正直で、清廉であらねばならないと思っていた。が今では、そんなものは、何も役に立たないことを知っていた。正直や清廉では現在食って行くことも出来ないのを強く感じていた。けれでも彼は妻に不正をすゝめる気持にはなれなかった。
四
お里が家から出て行ったあとで、清吉は、眼をつむって妻の心持を想像してみた。彼には、お里が子供のように思われた。久しく同棲しているうちに、彼は、妻の感覚や感情の動き方が、隅々まで分るような気がした。 妻が見せた二反は、彼は一寸見たきりだったが、如何にも子供がほしがりそうなものだった。彼女は、頻りに地質もよさそうだと、枕頭で呟いたりしていた。子供がほしいものはまた彼女のほしいものだった。 頭のもが/\は、濃くなって、ぼんやりして来るかと思うと、また雲が散るように晴れて透き通って来たりした。彼はとりとめもないことを、想像していた。想像は、一とたび浮び上って来ると、彼をぐい/\引きつけて行った。それは、彼の意志でどうすることも出来なかった。彼はただ従僕のように、想像のあとについて、引きずりまわされた。 想像は、いつのまにか、彼を丸文字屋の店へ引っぱって行っていた。丸文字屋へは、金持ちの客が沢山行っている。と、そこに、お里もしょんぼり立っていた。彼女は、歩くことまで他人に気兼しておび/\していた。自分の金で品物を買うのに買いようが少ないとか、粗末なものを買うとかで、他人に笑われやしないかと心配していた。金を払うのに古い一円札ばかり十円出すのだったら躊躇するぐらいだ。彼女は番頭に黙って借りて帰ったモスリンと絣を、どう云ってその訳を話していゝか思案している。心を傷めている。――彼はいつのまにかお里の心持になっていた。――番頭が、三反持ってかえりながら、二反しか持って来ていない、と思うかもしれない。いえ、たしかに二反だったんです。と彼女は云う。すると番頭は、ほうそうですか、でも私は、三反持ちかえりのところをこの眼で見たんですが、と云う。で証拠に、ここにちゃんとつけ止めであるんですが……。お里はそういう場合を想像してびく/\している。 彼女はびく/\しながら、まだ反物を風呂敷から出してはいない。そっとしのび足で店に這入って、片隅の小僧が居る方へ行き、他人が見ている柄を傍から見る。見ているようにしながら、なるべく目立たぬように、番頭に金を払う機会が来るのに注意している。丸文字屋の内儀は邪推深い、剛慾な女だ。番頭や小僧から買うよりも、内儀から買う方が高い、これは、村中に知れ渡っていることである。その内儀が火鉢の傍に坐りこんでじろ/\番頭や小僧の方を見ている。金をごま化しやしないか見ているのだ。 番頭のところには五六人も客が立てかけて値切ったり、布地をたしかめたりしている。番頭に買うと安いのだ。 お里は待っても待っても機会が来ない。彼女は風呂敷に包んだ反物と蟇口の金とを胸算用で、丁度あるかどうかやってみるが頭がぐら/\して分らなくなる。…… 清吉は、こういう想像を走らせながら、こりゃ本当にあることかもしれないぞ、或は、今、現に妻がこうやっているかもしれない。と一方で考える。 お里がびく/\しながら、番頭の方へ近づくと、 「あ、そうですか。」番頭は何気なく、書きとめた帳を出して見る。彼は、落ちつかない。そそくさしている。 「△円△△銭になります。」 「そうでござんすか。」 お里は金を出す。無断で借りて帰った分のことをどうしようかと心で迷う。今云い出すと却って内儀に邪推されやしないだろうか?…… 番頭は金を受取ってツリ銭を出す。お里は嵩ばった風呂敷包みを気にしながら、立っている。火鉢の傍に坐りこんでいる内儀の眼がじろりと光る。お里はぐら/\地が動きだしたような気がする。 番頭は算盤をはじき直している。彼は受領書に印を捺して持って来る。 「何と何です?」 不意に、内儀の癇高い声がひびく。彼女は受領書と風呂敷包を見っぱっている。 番頭は不意打ちを喰ってぼんやり立っている。 「何にも取っとりゃしませんぞな! 何にも……」 お里が俯向いて、困惑しながらこう云っている……
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