七
遠足に疲れた生徒が、泉のほとりに群がって休息しているように、兵士が、全くだれてしまった態度で、雪の上に群がっていた。何か口論をしていた。 「おい、あっちへやれ。」 大隊長はイワン・ペトロウイチに云った。「あの人がたまになっとる方だ。」 馬は、雪の上を追いまわされて疲れ、これ以上鞭をあてるのが、イワンには、自分の身を叩くように痛く感じられた。彼は兵卒をのせていればよかったと思った。兵卒は、戦闘が始ると悉く橇からおりて、雪の上を自分の脚で歩いているのだ。指揮者だけがいつまでも橇を棄てなかった。御用商人は、彼をだましたのだ。ロシア人を殺すために、彼等の橇を使っているのだ。橇がなかったらどうすることも出来やしないのに! 踏みかためられ、凍てついた道から外れると、馬の細長い脚は深く雪の中へ没した。そして脚を抜く時に蹴る雪が、イワンの顔に散りかかって来た。そういう走りにくいところへ落ちこめば落ちこむほど、馬の疲労は増大してきた。 橇が、兵士の群がっている方へ近づき、もうあと一町ばかりになった時、急に兵卒が立って、ばらばらに前進しだした。でも、なお、あと、五六人だけは、雪の上に坐ったまま動こうとはしなかった。将校がその五六人に向って何か云っていた。するとそのうちの、色の浅黒い男振りのいい捷っこそうな一人が立って、激した調子で云いかえした。それは吉原だった。将校が云いこめられているようだった。そして、兵卒の方が将校を殴りつけそうなけはいを示していた。そこには咳をして血を咯いている男も坐っていた。 「どうしたんだ、どうしたんだ?」 大隊長は、手近をころげそうにして歩いている中尉にきいた。 「兵卒が、自分等が指揮者のように、自分から戦争をやめると云っとるんであります。だいぶほかの者を煽動したらしいんであります。」中尉は防寒帽をかむりなおしながら答えた。「どうもシベリアへ来ると兵タイまでが過激化して困ります。」 「何中隊の兵タイだ。」 「×中隊であります。」 眼鼻の線の見さかいがつくようになると、大隊長は、それが自分の従卒だった吉原であることをたしかめた。彼は、自分に口返事ばかりして、拍車を錆びさしたりしたことを思い出して、むっとした。 「不軍紀な! 何て不軍紀な!」 彼は腹立たしげに怒鳴った。それが、急に調子の変った激しい声だったので、イワンは自分に何か云われたのかと思って、はっとした。 彼が、大佐の娘に熱中しているのを探り出して、云いふらしたのも吉原だった。 「不軍紀な、何て不軍紀な! 徹底的に犠牲にあげなきゃいかん!」 そして彼は、イワンに橇を止めさせると、すぐとびおりて、中隊長と云い合っている吉原の方へ雪に長靴をずりこませながら、大またに近づいて行った。 中隊長は少佐が来たのに感づいて、にわかに威厳を見せ、吉原の頬をなぐりつけた。 イワンは、橇が軽くなると、誰れにも乗って貰いたくないと思った。彼は手綱を引いて馬を廻し、戦線から後方へ引き下った。彼が一番長いこと将校をのせて、くたびれ儲けをした最後の男だった。兵タイをのせていた橇は、三露里も後方に下って、それからなお向うへ走り去ろうとしていた。 彼は、疲れない程度に馬を進めながら、暫らくして、兵卒と将校とが云い合っていた方を振りかえった。 でっぷり太った大隊長が浅黒い男の傍に立っていた。大隊長は怒って唇をふくらましていた。そこから十間ほど距って、背後に、一人の将校が膝をついて、銃を射撃の姿勢にかまえ兵卒をねらっていた。それはこちらからこそ見えるが、兵卒には見えないだろう。不意打を喰わすのだ。イワンは人の悪いことをやっていると思った。 大隊長が三四歩あとすざって、合図に手をあげた。 将校の銃のさきから、パッと煙が出た。すると、色の浅黒い男は、丸太を倒すようにパタリと雪の上に倒れた。それと同時に、豆をはぜらすような音がイワンの耳にはいって来た。 再び、将校の銃先から、煙が出た。今度は弱々しそうな頬骨の尖っている、血痰を咯いている男が倒れた。 それまでおとなしく立っていた、物事に敏感な顔つきをしている兵卒が、突然、何か叫びながら、帽子をぬぎ棄てて前の方へ馳せだした。その男もたしか将校と云いあっていた一人だった。 イワンは、恐ろしく、肌が慄えるのを感じた。そして、馬の方へ向き直り、鞭をあてて早くその近くから逃げ去ってしまおうとした。馳せだした男が――その男は色が白かった――どうなるか、彼は、それを振りかえって見るに堪えなかった。彼はつづけて馬に鞭をあてた。 どうして、あんなに易々と人間を殺し得るのだろう! どうして、あの男が殺されなければならないのだろう! そんなにまでしてロシア人と戦争をしなければならないのか! 彼は、一方では、色白の男がどうなったか、それが気にかかっていた。――やられたか、どうなったか……。でも殺される場景を目撃するのはたまらなかった。 暫らく馳せて、イワンは、もうどっちにか片がついただろうと思いながら、振りかえった。さきの男は、なお雪の上を馳せていた。雪は深かった。膝頭まで脚がずりこんでいた。それを無理やりに、両手であがきながら、足をかわしていた。 その男は、悲鳴をあげ、罵った。 イワンは、それ以上見ていられなかった。やりきれないことだ。だが無情に殺してしまうだろう。彼は馬の方へむき直った。と、その時、後方で、豆がはぜるような発射の音がした。しかし、彼は、あとへ振りかえらなかった。それに堪えなかったのだ。 「日本人って奴は、まるで狂犬だ。馬鹿な奴だ!」
八
馭者達は、兵士がおりると、ゆるゆる後方へ引っかえした。皆な商人にだまされたことを腹立てていた。ロシア人を殺させるために、日本人を運んできてやったのだ。そして彼等はロシア人だ! 「人をぺてんにかけやがった! 畜生!」 彼等は、暫らく行くと、急に速力を早めた。そして最大の速力で、銃弾の射程距離外に出てしまった。 そこで、つるすことを禁じられていた鈴をポケットから出して馬につけ、のんきに、快く橇を駆った。 今までポケットで休んでいた鈴は、さわやかに、馬の背でリンリン鳴った。 馬は、鼻から蒸気を吐いた。そして、はてしない雪の曠野を、遠くへ走り去った。 殺し合いをしている兵士の群は、後方の地平線上に、次第に小さく、小さくうごめいていた。そして、ついには蟻のようになり、とうとう眼界から消えてしまった。
九
雪の曠野は、大洋のようにはてしがなかった。 山が雪に包まれて遠くに存在している。しかし、行っても行っても、その山は同じ大きさで、同じ位置に据っていた。少しも近くはならないように見えた。人家もなかった。番人小屋もなかった。嘴の白い烏もとんでいなかった。 そこを、コンパスとスクリューを失った難破船のように、大隊がふらついていた。 兵士達は、銃殺を恐れて自分の意見を引っこめてしまった。近松少佐は思うままにすべての部下を威嚇した。兵卒は無い力まで搾って遮二無二にロシア人をめがけて突撃した。――ロシア人を殺しに行くか、自分が×××[#岩波文庫版では「殺され」]るか、その二つしか彼等には道はないのだ! けれども、そのため、彼等の疲労は、一層はげしくなったばかりだった。 大隊長は、兵卒を橇にして乗る訳には行かなかった。彼は橇が逃げてしまったのを部下の不注意のせいに帰して、そこらあたりに居る者をどなりつけたり、軍刀で雪を叩いたりした。彼の長靴は雪に取られそうになった。吉原に錆びさせられて腹立てた拍車は、今は、歩く妨げになるばかりだった。 食うものはなくなった。水筒の水は凍ってしまった。 銃も、靴も、そして身体も重かった。兵士は、雪の上を倒れそうになりながら、あてもなく、ふらふら歩いた。彼等は自分の死を自覚した。恐らく橇を持って助けに来る者はないだろう。 どうして、彼等は雪の上で死ななければならないか。どうして、ロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出して来なければならなかったか? ロシア人を撃退したところで自分達には何等の利益もありはしないのだ。 彼等は、たまらなく憂欝になった。彼等をシベリアへよこした者は、彼等がこういう風に雪の上で死ぬことを知りつつ見す見すよこしたのだ。炬たつに、ぬくぬくと寝そべって、いい雪だなあ、と云っているだろう。彼等が死んだことを聞いたところで、「あ、そうか。」と云うだけだ。そして、それっきりだ。 彼等は、とぼとぼ雪の上をふらついた。……でも、彼等は、まだ意識を失ってはいなかった。怒りも、憎悪も、反抗心も。 彼等の銃剣は、知らず知らず、彼等をシベリアへよこした者の手先になって、彼等を無謀に酷使した近松少佐の胸に向って、奔放に惨酷に集中して行った。 雪の曠野は、大洋のようにはてしなかった。 山が雪に包まれて遠くに存在している。しかし、行っても行っても、その山は同じ大さで、同じ位置に据っていた。少しも近くはならないように見えた。人家もなかった。番人小屋もなかった。嘴の白い烏もとんでいなかった。 そこを、空腹と、過労と、疲憊の極に達した彼等が、あてもなくふらついていた。靴は重く、寒気は腹の芯にまでしみ通って来た。……
(昭和二年九月)
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