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人生における離合について(じんせいにおけるりごうについて)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 6:09:16 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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敷島の日本の国に人二人在りとし思はば何か嘆かむ(万葉巻十三)
したがってその人のためにも、自分のためにも、それを傷む心の持って行き場がないからである。どうしても彼のために祈り、自分の傷を癒やしてくれる人間以上のものを求めたくなる。人間の愛につまずいた者が人間以上のものを求めるようになる心理は実に自然である。人の心は恃み難しとして神にゆく者は少なくないが、それほどでなくても少なくとも宗教的心情を抱くようになるものである。しかし私たちはすべての人間が別離を味わったからといって、あるいは殉死し、仏門に帰し人生の希望を失うことを期待するものではない。一つの別離ののち勇ましく立ち上がり、さらに一層博い力強い視野にたって踏み出した者は少なくない。これには広い人生の海があり、はかり知れない運命の地平線があるのであって、決して一概に狭く固く考えるべきではない。多くの秀れた人々の伝記を読むのに一生にただ一つの愛しか持たないというような例は稀である。そこには苦痛を忘却さしてくれるいわゆるレーテの川があり、歳月はいつしか傷を癒やしてまた新しい情熱を生み出してくれるものである。軍人の未亡人の如きも遺児を育て、遺児なきときは社会事業に捧げ、あるいは場合によっては再婚するというようなことも決して考えられない運命ではない。こうした考え方は人生の広き経験なき者にはむしろ淋しいことであるが、あのチェホフのような博大な人生観やまたヴィルドラックのような現実の理解ある暖かき社会観もあるのであって、必ずしもすべての人に厳格な突きつめた身の処分を要すべきものではない。まして大乗仏教のような深い見方をすれば、「凡聖逆謗ひとしく廻入すれば衆水海に入りて味一つなるが如し」というような趣きもあるのであって、さまざまの人々がそのうけた精霊の促がすところにしたがい、それぞれの運命のコースを辿りつつ、全体としては広大なる人生を作っているのである。人間共存同悲とは、かかる心持をいうのであって、これなくしては共同体の真の結紐はできないのである。また人と人との結合は一つの運命であって必ずしもそれが世法に相応しく行われるとは限らないものである。そこに個人生活と社会生活との不調和を生じて悲劇を生むものであるが、それらのいきさつについてあまりに厳しく裁いてはならない。これはもとより望ましきものではないが、それは人間苦悩の哀れむべき相であって、またそれを通じて美しき人間性の発露もあり得る。日本民族独特の情死の如きは、もっと鞏固な意志と知性とが要求されるとはいえ、またそうでなければ現われることのできない人心の結びと契いとの機微があるのである。梅川忠兵衛がもし心中しなかったら、世間の人情はさらに傷つくかもしれないだろう。ダンテは神曲においてポーロとフランチェスカとの不義の愛着を寛大に取り扱った。しかしながら現代の男女としてはかような情緒にほだされていわゆる濡れ場めいた感情過多の陥穽に陥るようなことはその気稟からも主義からも排斥すべきであって、もっと積極的に公共の建設的動機と知性とをもって明るく賢く快活に生きるべきであろう。 今更に何をか嘆かむ打ち靡き心は君に依りにしものを(万葉巻四)
調和した安らかな老夫婦は実に美しく松風に琴の音の添うような趣きがあって日本的の尊さである。 姉は島原妹は他国 桜花かや散りぢりに
真鍋博士の夫人は遺言して「自分の骨は埋めずに夫の身の側に置いて下さい」といわれたときく。が博士もまた先ごろ亡くなられた。今は二人の骨は一緒に埋められて、一つの墓石となられたであろう。 別るるや夢一とすぢの天の河
(『婦人公論』一九四二・一〇・所載)
底本:「青春をいかに生きるか」角川文庫、角川書店 1953(昭和28)年9月30日初版発行 1967(昭和42)年6月30日43版発行 1981(昭和56)年7月30日改版25版発行 入力:ゆうき 校正:noriko saito 2005年1月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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