三 恋愛――結婚(上)
恋愛は女性が母となるための門である。よき恋愛から入らずよい母となることはできぬ。女性は恋愛によって自分の産む子に遺伝し、感染させたいような諸特徴を持った男性を選ぶのである。この選択が無意識的になされるところに恋愛という本能のはたらきがあるのだ。しかしそれだからといって恋愛を母となるための手段と見るのはたりない。花は実を結ぶ手段ではあるが、実は花を咲かすための手段ともとれる。恋愛はやはり人生の開花であると見るべきだ。女性の造化から与えられているさまざまの霊能が恋愛の本能の開発する時期に同時に目をさまし、生き生きとあらわれてくる。美と力とそしてことに霊の憧憬が恋愛の感情とともにあらわれるということは、面白いまたありがたい事実といわねばならぬ。徳、善、道というものへの憧れのまじらないような恋愛は純真な恋愛ではない。女性は美しく、力強い男性を選ぶのだが、善い、高貴な素質をそなえた男性をこれと切り放すことなしに求めねばならぬ。恋愛するときに、この徳への憧れが一緒に燃え上がらないようなことではその女性の素質は低いものであるといわねばならぬ。何故なら恋愛するときほど、女性の心が純であるときはないのだからだ。恋愛にこの性質があるために、青年は女性によって強められ、浄められ、励まされる。一国の青年がなまけて、軽くて、使命の自覚のないその日暮らしの状態であるときには、その国の娘たちの恋愛がきっと本来の純熱を失って、その淘汰性がゆるんでいるのだと思われる。それ故くれぐれも恋愛を軽くあしらってはならぬ。このごろは結婚も恋愛結婚でなく、媒介結婚がいいなどという説がかなり行なわれているようだが、私は全然反対である。結婚はどこまでも恋愛から入らねばならぬ。こういう生命の本道というものをゆがめるところから、どんな大きな間違いが結果するであろうか。なるほど媒介結婚説は一つの社会現実の知恵からきたもので、恋愛結婚の方が甘いように一見見えるけれども、決してそうではない。こういった種類の現実的知恵というものは鋭いように見えても、本道ではないから、さきでその復讐を受ける。恋愛でさえも媒介結婚で満足し、現実の便宜で妥協するようなことでは、その他の人生の尊いものもどう取り扱われるかしれている。たとい田の畔での農夫と農婦との野合からはいった結婚でさえも、仲人結婚より勝っている。こんな人生の大道を真直ぐに歩まないのでは後のことは話しにならない。夫婦道も母性愛も打ち建てるべき土台を失うわけである。その人の子を産みたいような男子、すなわち恋する男の子を産まないでは、家庭のくさびはひびが入っているではないか。ことに結婚生活に必ずくる倦怠期に、そのときこそ本当の夫婦愛が自覚されねばならないのだが、そうしたときに、恋愛から入っていなくては思いなおしができぬ。
今更らに何をか嘆かむうちなびき心は君に依りにしものを
これは万葉の歌だが、恋愛から入った夫婦でなくてはこうしたしみじみした諦感は起こるまい。 結婚はそのように恋愛から入らねばならないから、恋愛する態度は厳かで、純で、そして知恵のあるものでなければならない。互いに異性に交際する機会の少ない男女は軽速な恋に陥りやすいから相手を見誤らないように注意せねばならぬ。恐ろしい男子は世間に少なくないからだ。といって身の振り方をつけるためばかりに男子を見、石橋をたたいてみてから初めて恋をするというような態度でも困る。これは可愛らし気がなく、純な娘らしい雰囲気がなくなるからだ。恋愛は一方では、意識選択ではなく、運命であるという趣きがあるということも必ず忘れてはならぬ。これが人生の神秘というもので、そういう感じがないと常識的、取引的、身の振り方をつけるための品定めのようになって恋愛のたましいがぬけるからだ。こんなふうにいうとむずかしい態度になるようだが、そこが造化のたくみで、純な娘の本能の中に、自分を保護する本能と相手を見わける英知とがおのずとそなわっているのだ。純真な娘であることが、やはり一番安全であるということになるのだ。「これは変だな」と思うようだったら、どこかあやしいのである。しかし自分の心に曇りがあれば、相手に乗じられて、相手の擬装が見わけられないようになる。欲心とうぬぼれとは最もよくない。よほど綺麗な人でも、人は誰でも好意をもってくれるのが当り前のように思っているとひどい目にあうことがある。また相手の財産などあまりあてにならぬ。何故なら今日の世態ではよほどの財産でない限り、やがてじきになくなるからだ。相手の人格と才能とをたのみ自分も共稼ぎする覚悟でなくては選択の範囲がせまくなってしまう。恋人には金がないのが普通と思わねばならぬ。社会的地位のある男子にならそれほど好きでなくとも嫁ぐというような傾向は娘の恥である。しかしいくら恋愛結婚でも二、三年は交際してからでないと相手を見あやまるものだ。だから恋愛の表現、誓い、ことに肉体的のそれは最後までつつしまねばならぬ。日本にも少し健全な男女交際の機会が与えられねばならぬと思う。 すべての精神的に貴重なものが、そうであるように、恋愛もまた社会状態、経済的機構のいびつのために、みじめに押しまげられている。恋愛についてこうした理想的な要請をする場合に、私たちはそのことを考えると力抜けがするのを感じる。これはどうしても社会制度一般の正しい建てなおしをしなくてはならないのである。精神的理想を主張するものは、その意味で一方必ず社会改革の根本的運動に乗り出さずにはいられなくなる。そしてこのことは社会のすべての人たち、われわれも、青年も、娘たちもひとしくその義務をもっているものだ。大学出の青年、農村の青年たちの結婚の物質的基礎のことを考えると暗くならずにはいられぬ。この改革の努力を伴わずに理想だけを要求してもまだ通らない。しかしそれだからといって、社会改革ができるまでは、恋愛の理想をまげたり、低めたりしてもいいということはない。困難な現実の中でどこまで精神の高貴と恋愛の純情とをつらぬきうるかというところに、人間としての戦い、生命の宝を大事にするための課題があるのである。環境にエキスキュースを求めるのはややもすれば、精神的虚弱者のことであるのを忘れてはならぬ。恋愛は、ことに女性にとって、その人生の至宝の、三つとはない貴重なものである。その恋愛にできるだけ高い、大きな理想を盛らないことは実に惜しむべきことである。私は心ゆく限り、恋の願いに濃く、深く、あらんことをむしろ娘たちにのぞみたい。それは日本の娘の特徴でもあるからだ。恋を雑に、スマートに、抜け目なく、取り扱わないようにくれぐれもいましめたい。結婚後の恋愛は蜜月や、スイートホームの時期をへて、次第に、真面目な地についた人生の営みのなかにはいってゆく。こうして夫婦愛が恋愛の健全な推移としてあらわれてくる。それは恋愛の冷却というべきものではなくして、自然の飽和と見るべきものだ。少なくともそれはニイチェのいうような、一層高いものに、転生するための恋愛の没落なのだ。そこには恋愛のような甘く酔わせるものはないが、もっと深いかみしめらるべき、しみじみとした慈味があるのだ。円満な、理想的な夫婦は増鏡にたとえ、松の緑にたとえ、琴の音にたとえたいような尊い諧和なのだ。子どものある、落ち着いた夫婦は実に安泰な美しいものだ。子どもがないなら、共同の仕事、道、理想をもって、子どもと見るがいい。またこの時期の妻らしき、母らしき夫人は女性美の最も豊かな、円熟した感じのあるものだ。この時期に達してからの夫以外の男性との恋愛は、女性にとっては、そのたましいの品性と平和とを傷つける地上の最も醜き、呪うべきものである。この意味でニイチェのいわゆる一回性の法則は、さまざまの現実的事情あるにもかかわらず、永遠に恋愛と結婚との最も祝福された真理であるといわねばならぬ。
(一九三四・一一・二六)
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