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学生と生活(がくせいとせいかつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 6:04:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     三 恋愛の本質は何か

 恋愛とは何かという問題は昔から種々なる立場からの種々な解釈があって、もとより定説はない。プラトンのように寓話的なもの、ショウペンハウエルのように形而上学的なもの、エレン・ケイのような人格主義的なもの、フロイドのように生理・心理学的なもの、スタンダールのように情緒的直観的のもの、コロンタイのように階級的社会主義的のもの、その他幾らでもあって枚挙にいとまない。これらの諸説はみな恋愛の種々相のある一側面を捕え得たものには相異ない。この後とても世代の移るにつけいろいろな説がつみたされていくであろう。
 が恋愛とは何であるかということを概念的にきめてかかることはさまで大事なことではない。むしろ自分自身の異性への要求と、恋愛の体験とによって自らこの問いをさぐっていき、自説を持とうとするがよいのだ。
 実際人間はその素質なみの恋愛をし、その程度の恋愛論を持つのだ。そして恋愛論はその人の宇宙ならびに人生への要求一般と切り離せるものではないのだ。フロイドがどんな分析をして見せても、宗教意識の強いものは恋愛を宗教にまで持ち上げずには満足するものではない。現実主義者が恋愛は性慾と生殖作用の上部構造にすぎないといっても、精神的憧憬の深いイデアリストは恋愛が性慾をこえた側面を持ち、むしろそのこえんとする悩みにこそ、恋愛の秘義があると主張してやまないであろう。
 青年学生はいずれ関心事たる恋愛につき、いろいろな説を参考するもよかろう。また文芸や、映画でその種々相に触れずにもいないわけである。だが結局は自分の胸にわいてくるイメージと要請とをもって、自分たちの恋の世界を要求し、つくり出すべきだ。
 今日の文芸や、映画に出てくる恋愛が不満ならば恐れずその不満を持て。それはむしろたのもしいことだ。
 一般にいって自分の恋愛の要求を引き下げる必要はない。自分の夢多き空想だとして、現実主義の恋愛作者に追従したりする必要はない。
 観念的映像が多いだけむしろよく、それが青春の標徴である。恋愛を単に生物学的に考えたがることほど粗野なことはない。知性の進歩はその方角にあるのではない。恋愛を性慾的に考えるのに何の骨が折れるか。それは誰でも、いつでもできる平凡事にすぎない。今日の文化の段階にまで達したる人間性の精神的要素と、ならびに人間性に禀具するらしい可能的神秘の側面で、われわれの恋愛の要請とは一体どんなものであるかを探求するのこそ進歩的恋愛論の本質的任務でなくてはならぬ。これに比べれば恋愛の社会的基礎の討究さえも第二義的というべきだ。ましてすでに結婚後の壮年期に達したるものの恋愛論は、もはや恋愛とは呼べない情事的、享楽的漁色的材料から帰納されたものが多いのであって、青年学生の恋愛観にとっては眉に唾すべきものである。
 結婚後の壮年が女性を見る目は呪われているのだ。たとえば恋愛は未知の女性への好奇的欲望であるというような見方も、明らかに壮年の心理であって、結婚前の青年の恋愛心理ではない。実はそれは美的狩猟の心理なのだ。
 恋愛には必ず相手への敬の意識がある。思慕と憧憬との精神的側面があり、誇張していえば、跪きたくなる感情がある。そして対象は単一的であって並列的ではない。美的狩猟はならべ描くことによって情緒をますのだ。
 結婚前の青年、特に学窓にある青年にとって、恋愛とはまず精神的思慕であり、生命的憧憬でなければならぬ。美しい娘の中に自分の衷なる精神の花を皆投げこんで咲かせたものでなければならぬ。

君が面輪おもわの美しき見れば
花はみな君にぞある……


 これは中世イタリーの詩人の句片だ。

づらしとふきみは秋山の初もみぢ葉に似てこそありつれ


 これは万葉の一歌人の歌だ。汝らの美しき娘たちを花にたとえ、紅葉に比べていつくしめ。好奇と性慾とが生物学的人間としての青年たちにひそんでいることを誰が知らぬ者があろう。だがそれらは青春のわくが如き浪曼性と、さかんなる精神的憧憬の煙幕の下に押しかくされ、眠らされているのだ。
 結婚前の青年にとって、恋愛とは未来の「よりよき半分」を求めんとする無意識模索である。それは正統派の恋愛論の核心をなすところの、あの「二つのもの一つとならんとする」願望のあらわれである。ペーガン的恋愛論者がいかに嘲っても、これが恋愛の公道であり、誓いも、誠も、涙も皆ここから出てくるのだ。二人の運命を――その性慾や情緒をだけでなく――ひとつに融合しようとするものでなくては恋愛ではない。この愛らしの娘は未来のわが妻であると心にきめその責任を負う決意がなければならぬ。互いの運命に責任を持ち合わない性関係は情事と呼ぶべきで、恋愛の名に価しない。
 恋愛は相互に孤立しては不具である男・女性が、その人間型を完うせんために融合する作用であり、「を味う」という法則でなく、「と成る」という法則にしたがうものであり、その結果として両者融合せる新しき「いのち」が生誕するのだ。
 子どもの生まれることを恐れる性関係は恋愛ではない。
「汝は彼女と彼女の子とを養わざるべからず」
 学生時代私はノートの表紙に、こう書きつけて勉強のはげましにした。

     四 青春の長さと童貞

 恋愛は倫理的なあこがれであるだけでなく、肉体的、感覚的な要請であることはいうまでもない。それは、露わにいえば、手を、唇を、肌を相触れんとするところの衝動でもある。したがっていかなる倫理的な、たましいの憧憬を伴う恋愛も終局はその肉体的接融をまって完成すべきものではある。しかしたましいの要請が強ければ強いだけ、その肉体的接融はその用意を要する。すなわち肉体だけがたましいの要請をはなれて結びつかぬように、そうした部分がないように隙間なく要求されてくるのは当然なことである。これは一方が打算から身を守るというようなことでなく、相互にそうしなければ恋愛の自覚上気がすまない。これが本当の慎しみというものだ。
 学生は大体に見て二十五歳以下の青年である。二十五歳までに青年がその童貞を保持するに耐えないという理拠があるであろうか。また本人の一生の幸福から見て、そうすることが損失であろうか。私は経験から考えてそうは思われない。女をることは青春の毒薬である。童貞が去るとともに青春は去るというも過言ではない。一度女をった青年は娘に対して、至醇なる憧憬を発し得ない。その青春の夢はもはや浄らかであり得ない。肉体的快楽をたましいから独立に心に表象するという実に悲しむべき習癖をつけられるのだ。性交を伴わぬ異性との恋愛は、如何にたましいの高揚があっても、酒なくして佳肴に向かう飲酒家の如くに、もはや喜びを感じられなくなる。いかに高貴な、楚々たる女性に対してもまじりなき憧憬が感じられなくなる。そしてさらに不幸なことには、このことは人生一般の事象を見る目の純真性を曇らすのだ。快楽の独立性は必ず物的福利を、そして世間的権力を連想せしめずにはおかぬ。人間がそうした見方を持つにいたればもはや壮年であって、青春ではないのである。
 事実として青春の幸福はそこから去ってしまうのだ。如何に多くのイデアリストの憧憬に満ちたる青年が、このことからたちまち壮年の世俗的リアリズムに転落したことであろうか。
 かりに既婚者の男子が一人の美しき娘を見るのと、未婚者の男子がそうするのとでは、後者の方がはるかに憧憬に満ちたものであることは容易に想像されるであろう。それが未婚者の世界の洋々たる、未知のよろこびなのだ。その如くに童貞者にあるまじりなき憧憬は青春の幸福の本質をなすものであってひとたび女をるならば、もはや青春はひび割れたるものとなり、その立てる響きは雑音を混じえずにはおかなくなる。そしてそれは性の問題だけでなく、人生一般の見方に及ぶのである。いかなるイデアリストの詩人、思想家も、彼が童貞を失った後にそれ以前のような至醇なる恋愛賛美が書けるはずはない。自分の例を引けば、「異性の内に自己を見出さんとする心」を書いたとき私はまだ童貞であった。性交を賛美しつつも、童貞であったのだ。
 私はかようなことに好んでこだわるのではない。青春にとってこれは重要なことであって触れずにおれないのだ。誰しも青春の長いことを望まぬものはあるまい。その長さは人生の幸福をはかる重要な尺度である。これは青春のすぎ去った者のしみじみ思うところである。そして青春の幸福を長く保とうとねがうならば、童貞を長く保たねばならぬ。学生時代を童貞ですごすことは一生から見て、少しも損失ではない。これは冷淡な教父の如き心でいうのでなく、現実的な考慮を経ていうのである。つまり女をるの機会は、もし欲するなら、壮年期に幾らでもあるからである。
 もっとも二十五歳まで女をらなければ、りたいための悩みを持つであろう。しかしその悩みは青春そのものの本質なのだ。それが青春の独特な歓楽をつくり出すところの種箱なのだ。それが青年を美しくし、弾力を与え、ものの考え方を純真ならしめる動機力なのだ。
 私は青春をすごして、青春を惜しむ。そして青春が如何に人生の黄金期であったかを思うときにその幸福を惜しめとすすめたくなるのだ。そしてそれには童貞をなるだけ長く保つべきだ。
 しかし何かの運命でそれをすでに失ってしまったものはやむを得ない。そのひびの薄れるように、そのまわりに結締組織のできるように修養すべきだ。傷をいやすレーテの川、忘却というものも自然のたまものだ。絶対的にのみ考えなくてもいい。童貞の青年といえども、すでに自慰を知らぬものはなく、肉体的想像力を持たぬものもあり得ない。全然とり返しがつかぬという考え方はこれは天国的なものでなく、悪魔の考え方である。
 しかし童貞を尊び、志向を純潔にし、その精神に夢と憧憬とを富ましめるということは、青年の恋愛にとって欠くべからざる心がけである。

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