5 すると李白が笑いながら云った。 「文章で嚇して来たのです、文章で嚇して帰しましょう。蕃使をお招きなさりませ、私、面前で蕃書を認め、嚇しつけてやることに致します」 翌日蕃使を入朝せしめた。 皇帝を真中に顯官が竝んだ。 紗帽を冠り、白紫衣を着け、飄々と李白が現われた。勿論微醺を帯びていた。 座に就くと筆を握り、一揮して蕃書を完成した。 まず唐音で読み上げた。 「大唐天宝皇帝、渤海の奇毒に詔諭す。むかしより石卵は敵せず、蛇龍は闘わず。本朝運に応じ、天を開き四海を撫有し、将は勇、卒は精、甲は堅、兵は鋭なり。頡利は盟に背いて擒にせられ、普賛は鵞を鑄って誓を入れ、新羅は繊錦の頌を奏し、天竺は能言の鳥を致し、沈斯は捕鼠の蛇を献じ、払林は曳馬の狗を進め、白鸚鵡は訶陵より来り、夜光珠は林邑より貢し、骨利幹に名馬の納あり、沈婆羅に良酢の献あり。威を畏れ徳に懐き、静を買い安を求めざるなし、高麗命を拒ぎ、天討再び加う。伝世百一朝にして殄滅す。豈に逆天の咎徴、衝大の明鑒に非ずや。況や爾は海外の小邦、高麗の附国、之を中国に比すれば一郡のみ。士馬芻糧万分に過ぎず。螳怒是れ逞うし、鵝驕不遜なるが若きだに及ばず。天兵一下、千里流血、君は頡利の俘に同じく、国は高麗の続とならむ。方今聖度汪洋、爾が狂悖を恕す。急に宣しく[#「宣しく」はママ]過を悔い、歳事を勤修し、誅戮を取りて四夷の笑となる毋れ。爾其れ三思せよ。故に諭す」 実にどうどうたるものであった。 皇帝はすっかり喜んでしまった。 そこで李白は階を下り、蕃使の前へ出て行った。文字通り蕃音で読み上げた。 蕃使面色土のごとく、山呼拝舞し退いたというが、これはありそうなことである。 奇毒、すなわち渤海の王も、驚愕来帰したということである。
「俺は長安の酒にも飽きた」 で、李白は暇を乞うた。 皇帝は金を李白に賜った。 李白の放浪は始まった。北は趙魏燕晋[#ルビの「しん」は底本では「し」]から、西は※岐[#「分+おおざと」、664-上-20]まで足を延ばした。商於を歴て洛陽に至った。南は淮泗から会稽に入り、時に魯中に家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。 天宝十三年広陵に遊び、王屋山人魏万と遇い、舟を浮かべて秦淮へ入ったり、金陵の方へ行ったりした。 魏万と別れて宣城へも行った。 こうして天宝十四年になった。 ひっくり返るような事件が起こった。 安祿山が叛したのであった。 十二月洛陽を陥いれた。 天宝十五年玄宗皇帝は、長安を豪塵して蜀に入った。 李白の身辺も危険であった。宣城から漂陽にゆき、更に中に行き廬山に入った。 玄宋皇帝の十六番目の子、永王というのは野心家であったが、李白の才を非常に愛し、進めて自分の幕僚にした。 安祿山と呼応して、永王は叛旗を飜えした。弟の襄成王と舟師を率い、江淮[#ルビの「こうわい」は底本では「こうれい」]に向かって東下した。 李白は素敵に愉快だった。 「うん、天下は廻り持ちだ。天子になれないものでもない」 こんな事を考えた。 詩人特有の白昼夢とも云えれば、儻不羈の本性が、仙骨を破って迸しったとも云えた。 意気頗る軒昂であった。自分を安石に譬えたりした。二十歳代に人を斬った、その李白の真骨頭[#「真骨頭」はママ]が、この時躍如としておどり出たのであった。 「三川北虜乱レテ麻ノ如シ、四海南奔[#ルビの「なんぽん」は底本では「なんぱん」]シテ永嘉ニ似タリ、但東山ノ謝安石ヲ用ヒヨ、君ガ為メ談笑シテ胡沙ヲ静メン」 などとウンと威張ったりした。 「試ミニ君王ノ玉馬鞭ヲ借リ、戎虜ヲ指揮シテ瓊筵ニ坐ス、南風一掃胡塵静ニ、西長安ニ入ッテ日延ニ到ル」 凱旋の日を空想したりした。 ところが河南の招討判官、李銑というのが広陵に居た。永王の舟師を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」]討った。 永王軍は脆く破れた。 永王は箭に中って捕えられ、ある寒駅で斬殺された。そうして弟の襄成王は、乱兵の兇刄に斃された。 李白は逃げて豊沢に隠れたが、目つかって牢屋へぶち込まれた。 「どうも不可ねえ、夢だったよ」 憮然として彼は呟いた。 「兵を指揮するということは、韻をふむよりむずかしい。そうすると俺より安石の方が、人殺しとしては偉いらしい。もう君王の玉馬鞭なんか、仮にも空想しないことにしよう……。ひょっとかすると殺されるかもしれねえ。何と云っても謀反人だからなあ、もう一度洞庭へ行って見たいものだ。松江の鱸を食ってみたい。女房や子供はどうしたかな? 幾人女房があったかしら? あっ、そうだ、四人あったはずだ」 李白はちょっと感傷的になった。 無理もないことだ、五十七歳であった。 李白は皆に好かれていた。 新皇帝粛宗に向かって、いろいろの人が命乞いをした。 宣慰大使崔渙や、御史中丞宋若思や、武勲赫々たる郭子儀などは、その最たるものであった。 そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。 道々洞庭や三峡や、巫山などで悠遊した。 李白はあくまでも李白であった。竄逐[#「竄逐」はママ]されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。 乾元二年に大赦があった。 まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。 そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽へ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。 あっちこっち歩き廻った。 到る所で借金をした。九割までは酒代であった。 のべつに客が集まって来た。 やがて宝応元年になった。 ある県令に招かれて、釆石江で舟遊びをした。 すばらしく派手やかな宮錦袍を着、明月に向かって酒気を吐いた。 波がピチャピチャと船縁を叩いた。 十一月の月が水に映った。 「ひとつ、あの月を捕えてやろう」 人の止めるのを振り払い、李白は水の中へ下りて行った。 水は随分冷たかった。 彼の考えはにわかに変わった。 どう変わったかは解らない。 李白は水中をズンズン歩いた。 やがて姿が見えなくなった。 それっきり人の世へ現われなかった。 「李白らしい死に方だ」 人々は愉快そうに手を拍った。
東巖子は岷山にいた。 相変わらず小鳥の糞にまみれ、相変らずぼんやりと暮らしていた。 ある日薄穢い老人が、東巖子を訪れて来た。 「先生しばらくでございます」 「誰だったかね、見忘れてしまった」 老人は黙って優しく笑った。 なるほどまさしく薄穢くはあったが、底に玲瓏たる品位があった。人間界のものであり、同時に神仙のものである、完成されたる品位であった。 で、東巖子は思わず云った。 「おお貴郎は老子様で?」 「いえ私は李白ですよ」 「いえ貴郎は老子様です」 東巖子は云い張った。 「どうぞ上座へお直り下さい」 李白は平気で上座へ直った。 数百羽の小鳥が飛んで来た。音を立てて庵の中へ入った。 そうして東巖子の頭や肩へ……いや小鳥は東巖子へは行かずに、李白の頭や肩へ止まった。すぐに李白は糞まみれになった。
今でも岷山のどの辺りかに、李白とそうして東巖子とが、小鳥を相手に日向ぼっこをして、住んでいる事は確かである。
●表記について
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「りっしんべん+更」 |
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662-15 |
「くさかんむり/均」 |
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662-下-1 |
「分+おおざと」 |
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664-上-20 | 上一页 [1] [2] [3] 尾页
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