三
しかし北斎にはその言葉が頷き難く思われた。「爪立ち採るというようなことは童子といえども知っている筈だ」――こう思われてならなかった。でいつまでも黙っていた。この執念い沈黙が融川の心を破裂させ、破門の宣告を下させたのである。 「それもこれも昔のことだ」こう呟いて北斎は尚もじっと佇んでいたが、寒さは寒し人は怪しむ、意を決して歩き出した。 ものの三町と歩かぬうちに行く手から見覚えある駕籠が来た。 「あああれは狩野家の乗り物。今御殿からお帰りと見える。……どれ片寄って蔭ながら、様子をお伺がいすることにしよう」 ――北斎は商家の板塀の蔭へ急いで体を隠したがそこから往来を眺めやった。 今日が今年の初雪で、小降りではあるが止む時なくさっきから隙なく降り続いたためか、往来は仄かに白み渡り、人足絶えて寂しかったが、その地上の雪を踏んでシトシトと駕籠がやって来た。 今北斎の前を通る。 と、タラタラと駕籠の底から、雪に滴るものがある。……北斎の見ている眼の前で雪は紅と一変した。 「あっ」 と叫んだ声より早く北斎は駕籠先へ飛んで行ったが、 「これ、駕籠止めい駕籠止めい!」 グイと棒鼻を突き返した。 「狼藉者!」 と駕籠側にいた、二人の武士、狩野家の弟子は、刀の柄へ手を掛けて、颯と前へ躍り出した。 「何を痴! 迂濶者めが! お師匠の一大事心付かぬか! おろせおろせ! えい戸を開けい」 北斎の声の凄じさ。気勢に打たれて駕籠はおりる。冠った手拭いかなぐり捨て、ベッタリと雪へ膝を突き、グイと開けた駕籠の扉。プンと鼻を刺すは血の匂いだ。 「お師匠様。……」 と忍び音に、ズッと駕籠内へ顔を入れる。 融川は俯向き首垂れていた。膝からかけて駕籠一面飛び散った血で紅斑々、呼息を刻む肩の揺れ、腹はたった今切ったと見える。 「無念」 と融川は首を上げた。下唇に鮮やかに五枚の歯形が着いている。喰いしばった歯の跡である。……額にかかる鬢の乱れ。顔は藍より蒼白である。 「そ、そち誰だ? そち誰だ?」 「は、中島めにござります。は、鉄蔵めにござります……」 「無念であったぞ! ……おのれ豊後!」 「お気を確かに! お気を確かに!」 「……一身の面目、家門の誉れ、腹切って取り止めたわ! ……いずれの世、いかなる代にも、認められぬは名匠の苦心じゃ!」 「ごもっともにござります。ごもっともにござります!」 「ここはどこじゃ? ここはどこじゃ?」 「お屋敷近くの往来中……薬召しましょう。お手当てなさりませ」 「無念!」 と融川はまた呻いた。 「駕籠やれ!」 と云いながらガックリとなる。 はっと気が付いた北斎は駕籠の戸を立てて飛び上がった。それから静かにこう云った。 「狩野法眼様ご病気でござる。駕籠ゆるゆるとおやりなされ」 変死とあっては後がむつかしい。病気の態にしたのである。 ちらほらと立つ人影を、先に立って追いながら、北斎は悠々と歩いて行く。 この時ばかりは彼の姿もみすぼらしいものには見えなかった。
その夜とうとう融川は死んだ。 この報知を耳にした時、豊後守の驚愕は他の見る眼も気の毒なほどで、怏々として楽しまず自然勤務も怠りがちとなった。 これに反して北斎は一時に精神が緊張まった。 「やはり師匠は偉かった。威武にも屈せず権力にも恐れず、堂々と所信を披瀝したあげく、身を殺して顧なかったのは大丈夫でなければ出来ない所業だ。……これに比べては貧乏などは物の数にも入りはしない。荻生徂徠は炒豆を齧って古人を談じたというではないか。豆腐の殻を食ったところで活きようと思えば活きられる。……葛飾へ帰るのは止めにしよう。やはり江戸に止どまって絵筆を握ることにしよう」 ――大勇猛心を揮い起こしたのであった。
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