白河戸郷
その日から十日は経ったようであった。 丹生川平から五里ほど離れた、白河戸郷から一群の人数が、曠野の方へ歩いて来た。 一人の若い美しい乙女を、十二人の処女らしい娘達が、守護するように真ん中に包んで、長閑に話したり歌ったりして、ゆるゆると漫歩して来るのであった。飛騨の山の中でも白河戸郷といえば、日あたりの良いいい土地として、同国の人達に知られていた。 季節は六月ではあったけれども、山深い国の習いとして、春の花から夏の花から、一時に咲いて妍を競っていた。木芙蓉の花が咲いているかと思うと、九輪草の花が咲いていた。薔薇と藤とが咲いているかと思うと、水葵の花が咲いていた。青草の間には名さえ知られていない、黄色い花や桃色の花が、青い絨毯に小粒の宝石を、蒔き散らしたように咲いていた。 白河戸郷は四方グルリと、低い丘によって囲まれていて、その丘を上ると曠野であって、曠野の外れは高山によって、これまた四方を囲まれていた。で、高山の大城壁が、白河戸郷をまず守り、次に荒々しい広い曠野が、白河戸郷を抱き包み、さらに低い丘が内壁かのように、白河戸郷を守っているのであった。 約言すると白河戸郷は、三重の大自然の城壁によって、守護されている盆地形の、城廓都市ということが出来た。 が、もちろん、城廓都市という、この大袈裟な形容詞の、中っていないことは確かであって、むしろ三重の大自然によって、外界と遮断されている、別天地と云った方が中っていて、盆地の中には多数の人家や、小ぢんまりとした牧場や、花園や畑や田や売店や、居酒屋さえも出来ていた。 で、朝夕炊煙が上って、青々と空へ消えもすれば、往来で女達が喋舌ってもいれば、居酒屋で男達が酔っぱらってもいれば、花園で子供達が飛び廻ってもいれば、田畑で農夫達が耕してもいた。 が、ここに不思議なことには、盆地の中央に一宇[#「一宇」は底本では「一字」]の伽藍が、森然として立っていることであって、その形は小さかったが――と云って二十間四方はあろうか、様式がこの上もなく異様であった。とは云え伽藍の本当の姿は、その伽藍をこんもりと取り巻いている、巨大な杉や桧に蔽われて、見て取ることは出来なかった。が、真鍮色の天蓋形の、伽藍の屋根が朝日や夕日に、眼眩めくばかりに輝いて、正視することさえ出来ないように、鋭い光を反射して、そのため鳥の群がそこへばかりは、翼を休めて停まろうとさえしない。――と、云うほどにも神々しい屋根が、人々の眼に見てはとれた。 曠野の方へ漫歩して行く、女の群はその伽藍から、どうやら揃って出て来たらしい。 その群は今や丘の斜面を、上へすっかり上り切って、丘の頂きへ姿を現わした。 十二人の処女らしい娘達に、守護されながら歩いている乙女の、何という美しく健康で、快活で無邪気であることか! 身長も高ければ肥えてもいる。四肢の均整がよく取れていて、胸などもたっぷりと張っている。切れ長でしかも大きな眼、肉厚で高い真直ぐの鼻、笑うごとに石英でも並べたような、白くて艶のある前歯が見え、その歯を蔽うている唇は、臙脂を塗ってはいなかったが、臙脂を塗っているよりも美しかった。練り絹の裾だけに、堂や塔や伽藍や、武器だの鳥獣だのの刺繍をしている、白の被衣めいた長い布を、頭からなだらかに冠っていた。異国織りらしい帯の前半へ、異国製らしい形をした、金銀や青貝をちりばめた、懐剣を一本差しているのが、この乙女を気高いものにしていた。 乙女を守護している娘達も、揃って美しく健康で、上品で無邪気ではあったけれども、被衣などは冠っていなかった。侍女達であることは云うまでもあるまい。 その一行が斜面を上って、丘の頂きへ立った時に、下から一斉に声を揃えて、呼びかける声が聞こえてきた。 ――お嬢様ご用心なさりましょう。 ――あまり遠くへおいでなさいますな。 ――丹生川平の連中が、襲って参るかもしれませぬ。 距離がへだたっているがために、地言はハッキリと解らなかったが、こういう意味のことを言っているようであった。 で、乙女も侍女達も、盆地の方を振り返って見た。往来や田畑や家の門口などに、人々が集まって丘の方を見ていた。 その人達が注意したのであった。 「大丈夫だから先へ行こうよ」 この郷の長であると共に、この郷の神殿の祭司である、白河戸将監の一人娘の、小枝というのがこの乙女であったが、そう云うと侍女達を従えて、曠野の方へ漫歩をつづけた。 彼女達は彼女達が信じている、白河戸郷の守護神とも云うべき、神殿のご本尊の「唯一なる神」へ、野の花を捧げようと考えて、野の花を摘みに来たのであった。 小川が一筋流れていて、燕子花の花が咲いていた。と、小枝は手を延ばしたが、長目に燕子花の花を折った。と、小枝は唄い出した。
 メッカの 礼拝堂に 信者らの祈る時、 帳の奥におわす 御像の脚に捧げまつらん 日の本の燕子花を。
「みんなも燕子花を取るがよいよ」 ――すると侍女達も手を延ばして、各自燕子花を折った。 一行は楽しそうに歩いて行く。 灌木の裾に白百合の花が、微風に花冠を揺すりながら、幾千本となく咲いていた。 と、小枝は手を延ばして、その一本を折り取ったが、
白楊の林に豹が隠れ、 信者らが 含嗽して アラの 御神を讃え 奉る時、 回教 弘通者のオメル様の 墳塋へ、 ささげまつらん白百合の花を。
こう歌って侍女を返り見た。 「さあお前達も百合の花をお取り」 一行は先へ進んで行く。 一所に崖が出来ていて、小さな滝が落ちていた。岩燕が滝壺を巡って啼き、黄色い苔の花が咲いていた。その苔の花にまじりながら、常夏の花が咲き乱れていた。
果物の木に匂いあり 御神水と 黒石とに、 虹の光のまとう時 馬合点様の死せざる魂に いざや捧げまつろうよ 常夏の花の束を。
小枝は常夏の花を見ると、こう朗らかに歌いながら、手を延ばして一本の花を折った。と、延ばした右の手の袖が、肘の辺りまで捲くれ上って、白い脂肪づいた丸々とした腕が、ムキ出しに日の光にさらされた。艶々とその腕が濡れて見えたのは、滝の飛沫がかかったからであろう。侍女の一人が小枝の背後で、ひざまずくように小腰をかがめて、地に敷こうとしている被衣の裾を、恭しく両手でかかげている。 と、小枝は歩き出した。 蜂が花から花へ飛んで、うたいながら蜜を漁っている。小鳥が八方から翔けて来て、この人達は害をしないよ――そう思ってでもいるかのように、一行の頭上や周囲で啼いた。陽炎がユラユラと上っている。花の匂いと草の匂いとが、蒸せるように匂っている。空は白味を含んではいたが、しかし一片の雲も浮かべず、澄んで遥かにかかっていて、その中に太陽が燃えながら、地上の一行を眺めていた。 手に手に野花を握り持って、楽しそうに歌いながら歩いて行く群の、女達十三人の姿というものは、画中の人物が歩くようであった。時々草叢から兎が飛び出したり、山猫が唸り声をあげながら、一行の行く手を横切って、ノッソリと林へ入ったりした。遠くに森林が連らなっていたが、その裾を一列の隊をなして、鹿の走って行く優しい姿が、一行の眼に見えもした。 この一行が進めば進むほど、その一行を惑わかすかのように、野には諸々の草や木の花が、数を尽くして咲いていた。 で、一行は我を忘れて、先へ先へと歩いて行く。 いつか白河戸郷を巡っている、連々たる丘からは遠く放れて、曠野の中央の辺りまで行った。 惑わしでなくて何であろう! 一行の進んで行く方角に、白河戸郷を敵と目して、日頃から争いをつづけている、丹生川平があるのであるから。 が、勿論彼女達といえども、五里のへだたりを持っている、丹生川平の領域へまでは漫歩をつづけて行きもしまいが、もしも丹生川平の住民が、この方面へ様子を見に来て、彼女達の姿を認めたならば、見遁して置くようなことはあるまい。 しかし花野の美しさは、彼女達にそういう危険をさえ、感じさせないように思われた。 花を摘んでは手に抱え、歌いながら先へ進んで行く。
丹生川平の人々
はたしてこの頃一群の人数が、丹生川平の方角から、こなたへ向かって歩いて来た。 その中の一人は意外にも、醍醐弦四郎その人であり、その他は恐らく丹生川平の、住民達であろう、筒袖を着て山袴を穿いて、腰に一本ずつ脇差しを差した、精悍らしい若者達で、その数総勢で十人であった。 花野を踏み踏み歩いて来る。しかしおおっぴらに歩けないのでもあろう、木立があれば木立に隠れ、灌木があれば灌木に隠れ、林があれば林に隠れ、森があれば森に隠れて、忍ぶがように歩いて来る。 「醍醐様そろそろ近づきました。なるだけご用心なさいますよう」 一人の若者がこう云いながら、弦四郎の顔を覗くように見た。 「たかが山奥の住民どもだ、武芸の心得などロクロクあるまい。襲って参らばよい幸いに、この弦四郎みなごろしにしてやるよ」 弦四郎は太々しくこんなことを云ったが、 「美しい娘があるということだの?」 「はいはい小枝と申しまして、美しい娘がございます」 「丹生川平の浪江殿と、どっちの方が美しいかな?」 「それを見る人の心々で、どっちがどうとも申されませぬ。二人ながら美しゅうございます」 「浪江殿に負けずに美しいというのか。ふうむ、それは素晴らしいの」と弦四郎は厭らしい笑い方をしたが、 「全く浪江殿はお美しい。ちょっと都にもなさそうだ」 「はいお美しゅうございます」 「性質はちと優しすぎるようだが」 「お父上がああいうお方ゆえ、いろいろご苦労がありまして、陰気になられるのでございましょう」 「いかにも処女らしくて俺は好きだ」 「山道に迷ったと仰せられて、あなたさまが数人のご家来を連れられ、丹生川平へおいでになって以来、どうやらあなた様におかれては、浪江様に大変ご執心のようで、もっぱら評判でございます」 「そうかな」と弦四郎は苦笑いをしたが、 「丹生川平へ入り込んでから、十日という日が経ってしまった。そのくせ俺はある重大な、用事を持っている身分で、かつ一人の人間を、探し廻っているのであるが、どうもお美しい浪江殿という、あのお娘ごを見て以来は、外へ行くのが厭になってしまった」 「我々住民にとりましては、有難いことにございますよ」 追従めかしくこう云ったのは、額に瘤のある若者であった。 「洵に浪江殿はいい娘ごではあるが、父上の宮川覚明殿は、俺には変に人間放れのした、奇怪な人物に見えてならぬ」 弦四郎はこう云うと苦々しく笑った。 「そのくせあの仁に依頼されると、危険だと云われている白河戸郷へ、こうして様子を見に出かけて来る。我ながら変な気持がするよ」 「覚明様は一面霊人、他面魔物にございますよ」 こう怖そうに云ったのは、片眼潰れている若者であった。 「奇怪といえばもう一つある」 弦四郎は云い云い首を傾げた。 「あの神殿も奇怪なものだ」 「…………」 誰もが返辞をしなかった。 誰も彼も弦四郎が言葉に出した、「神殿」というその言葉に、触れることを憚っているようであった。 「が、俺は覚明殿と約束をしたのさ。俺の力で白河戸郷を、没落させることが出来たなら、浪江殿をくれるか神殿の中へ入れるか、どっちかを果すという約束をな」 しかし弦四郎がこう云っても、若者達は黙っていた。 信用しないぞという様子なのである。 一行は先へ進んで行く。 同じように野からは陽炎が立ち、兎が草の間から飛び出したりした。 一行の歩いて行く影法師が、野の花で絨毯を織っている、曠野の上へ黒々と落ちて、一行が進むに従って、影法師も先へ進んで行き、影法師が進んで行くにつれて、野の花がある時は暗くなり、またある時は明るくなった。すなわち影法師の落ちているところの、野の花は影法師に蔽われて、色と艶とを失って、暗い姿となるのであるが、その反対に影法師が、先へ進んで行ってしまうと、暗い姿であった野の花が、鮮かに色と艶を甦生らすからであった。 こうして一行は進んで行ったが、一つの小さな林まで来た。 と、その林の向こう側から、女の歌声が聞こえてきた。 で、弦四郎の一行は、顔を互いに見合わせたが、眼を返すと木立の隙から、歌声の来る方をすかして見た。 被衣を冠った一人の乙女を、十数人の娘達が、守護するように囲繞して、各自野花を手にかざして、歌いながらこっちへ歩いて来ていた。 「素晴らしい代物がやって来たぞ」 額に瘤のある若者が、こう頓狂に声を上げた。 「醍醐殿々々々ご覧なされ、被衣を冠っているあの女が、白河戸郷の長をしている、将監の娘の小枝でございますよ」 「そうか」と弦四郎は小枝を見詰めた。 「遠眼でしかとは解らないが、いかさま美しい娘らしい。……が、何のために女ばかり揃って、こんな所へ来たのだろう」 しかし弦四郎にはそんなことは、どうであろうと関係はなかった。 弦四郎はすぐに計画を案じた。 (小枝を奪い取って人質としよう。白河戸郷を苦しめるのに、上越す良策はない) で、弦四郎は若者達へ云った。 「方々拙者に存じよりがあります。ここに待ち受けて小枝という娘を、奪い取ることにいたしましょう。さあさあ木陰へおかくれなされ」 で、弦四郎をはじめとして、丹生川平の若者達は、木陰に体をひそませて、小枝達の一行の近寄って来るのを、一団にかたまって待ち受けた。 そういう危険が待っているという、そういうことを小枝達が、どうして感付くことが出来よう。野花を摘みながら讃歌をうたい、歌いながら次第に林の方へ、浮き浮きとした様子で近寄って来た。 間もなく小枝達の一行は、林の前まで来ることであろう。 と、弦四郎達の一団が、踊り出て彼女達を襲うであろう。 その結果は知れている。 小枝は奪われるに相違ない。 しかるにこの頃一人の武士が、汚れ垢じみた旅姿で、曠野をこっちへ辿って来た。 他ならぬ宮川茅野雄であった。 輿を担いで来た二十人の、異様な樵夫のような人物達に、意外なことから襲われて、数人茅野雄は切りは切ったが、不覚にも崖を踏み外して、谷底深く落ち込んだのは、この日から十日前の深夜のことであった。 脾腹を岩などで打ったからであろう、茅野雄は谷底で意識を失った。 と、何者か呼ぶ者があった。 「お侍様! お侍様!」 で、茅野雄は蘇生した。 年寄りの夫婦の樵夫がいて、茅野雄を親切に介抱していた。 通りかかった良人の方の樵夫が、気絶している茅野雄の姿を、谷底で発見したところから、自分の小屋へ連れて来て、妻と介抱して蘇生させたのであった。 爾来茅野雄は小屋の中で、老樵夫夫婦の厄介になり、傷の養生に精を出した。大した負傷でもなかったので、まもなく恢復することが出来た。 で、樵夫夫婦に礼を述べ、丹生川平への道筋を、夫婦の者に教えられ、今朝方出発って来たのであった。 茅野雄は曠野の美しい景色に、一種の恍惚を感じながら、長閑に先へ歩いて行った。 と、その時行く手にあたって、小高い丘が立っていたが、その丘の背後と思われる辺りから、男達の怒声が突如として起こり、つづいて女達の悲鳴が聞こえた。 で、茅野雄は眼をひそめたが、声の来た方を眺めやった。 間断なく男達の怒声が聞こえ、女達の悲鳴がそれにつづいた。大勢の男女が争っているらしい。 (若い女子を悪者が、誘拐そうとしているのであろう) こういう場合の常識として、ふと茅野雄はこう思った。 (ともかくも行ってみることにしよう) で、茅野雄は小走った。 と、その時丘を巡って、一人の女を小脇に抱えた、逞しい武士が現われたが、茅野雄の方へ走って来た。
弦四郎の心! 茅野雄の心!
と、見てとった宮川茅野雄は、立ち向かうように足を止めた。 と、女を小脇に抱えた、逞しい武士は走って来たが、腕前に自信があるがためか、傍若無人の心持からか、遮った茅野雄を無視するように、避けもせずに駆け抜けようとした。 「待て!」 「邪魔だ!」 「こ奴、悪漢!」 「よッ、貴殿は宮川氏か!」 「どなたでござるな?」 「醍醐弦四郎でござる!」 「これはいかにも醍醐氏であったか!」 いつぞや江戸の小石川の、松倉屋勘右衛門の別邸の前で、弦四郎に突然に切りかけられた時には、月こそあったが夜であったので、醍醐弦四郎の顔や姿を、ハッキリと見ることは出来なかった。 で、今、こうやって邂逅った時にも、早速には逞しいこの武士が、醍醐弦四郎であることは気がつかなかった。 しかし一方弦四郎の方では、いうところの競争相手として、茅野雄の身分から屋敷から顔や姿までも調べて置いたらしい。 で、今こうやって邂逅って、二言三言罵り合っている間に、弦四郎が茅野雄だということを、早くも見て取って声をかけたのであった。 しかし弦四郎は声をかけてから、「しまった!」と思わざるを得なかった。いやいや、「しまった!」というよりも、「どう処置をしたらよいだろうか?」とこう思わざるを得なかった。と云うのは弦四郎は茅野雄の後を尾行て、わざわざ飛騨の山の中へ、入り込んで来た身の上であって、道に迷って茅野雄を見失い、偶然に丹生川平という、不思議な郷へ入ったものの、心では常時茅野雄の行衛を、知りたいものと思っていた。その茅野雄に今や邂逅ったのである。 本来なれば何も彼もすてて、茅野雄の後を尾行て行くか、でなかったら後腹の痛めぬように――競争相手を滅ぼす意味で――討って取るのが本当であった。 が、しかし今は出来なかった。 と云うのはせっかくに白河戸郷の、郷長の娘の小枝という乙女を、奪って小脇に抱えている。で、この小枝を丹生川平へ、首尾よく連れて行くことが出来たら、白河戸郷の勢力を弱めて、滅ぼすことが出来るかもしれない。滅ぼすことが出来たならば、丹生川平の郷の長の、宮川覚明と約束をした通りに、覚明の娘の浪江という美女を手中へ入れることも出来、それが出来なくとも丹生川平の、守護神とも云うべき神殿の中へ――弦四郎にはある種の予感によって、神殿の中に高価な物が、蔵されてあるように感じられていた。――その神殿の内陣へ、入って行くことが出来るのであった。 茅野雄の後を尾行るとなれば、小枝を捨てなければならないだろう。弦四郎には小枝が捨てかねた。茅野雄と戦って茅野雄を殺すにしても、小枝を地上へ下ろさねばなるまい。下ろされた小枝は逃げ去るであろう。弦四郎には小枝に逃げられることが、どうにも苦痛でならなかった。 では小枝を小脇に抱えたまま、茅野雄を見捨て丹生川平へ行こうか。すると茅野雄は行衛不明になろう。と、後を尾行て行くことが出来ない。これが弦四郎には苦痛であった。 (百発百中に予言をする、巫女の千賀子が茅野雄に向かって、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と、こう予言をしたからには、間違いなく茅野雄はその何かを、手に入れるものとみなさなければならない。その何かが何であるかを、俺は大略知っている。恐ろしいほどにも高価なものだ。茅野雄の手へは渡されない。是非とも俺が手に入れなければならない。ではどうしても茅野雄の後を尾行て、彼の行く所へ自分も行って、彼が何かを得ようとするのを、邪魔をして横取りしなければならない)と、いう思惑があるからであった。 右することも出来なければ、左することも出来ないというのが、現在の弦四郎の心持であった。 一方宮川茅野雄においては、弦四郎に対して咎めたいことが、いろいろ心にわだかまっていた。たとえば自分は巫女の占った、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と云う、その占いを実現しようとして、飛騨の山の中へ来たのでもないのに、「醍醐弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」などと、あのような矢文を射てよこして、こちらの心を不安にさせたのは、不届きではないかと咎めもしたければ、あの巫女の占った「何か」なるものを、弦四郎は知っているらしいので、かえって訊ねて見たいとも思った。そうして自分がこのようにして、飛騨の山の中へ入り込んで来たのは、丹生川平という郷にいる、宮川覚明という叔父の一族と、邂逅しようがためなのであると、そういうことも告げたかった。 が、しかしそれより茅野雄としては、現在弦四郎が小脇に抱えている、姫君のように美しく若い、気絶をしている乙女の身分と、何故にそういう乙女を攫って、どこへ行くのか何をしようとするのかを、詰問したい衝動に猟り立てられた。 で、茅野雄はたしなめるように云った。 「拙者貴殿に対しては、いろいろ申し上げたいこともあり、お訊ねいたしたいこともあり、釈明いたしたいこともござる。が、まずそれはそれとして、ゆっくり後日に譲ってもよろしい。しかし後日に譲れないのは、現在の貴殿の悪行を、見過ごしにするということでござる。見れば臈たけた娘ごを、貴殿には誘拐なされようとしている。穢い所業、卑怯でござるぞ! 武士たる者のすべきことではござらぬ! 娘ごを放しておやりなされ! もしも悪行をつづけられるならば……」 ここで刀の柄頭を、茅野雄はトントンと右手で叩いたが、 「勿論拙者にはその娘ごの、身分も存ぜねば名も存ぜぬ。また娘ごと貴殿との間の、交渉も知らねば関係も知らぬ。が、偶然来合わせて、この眼で貴殿の悪行を――さようさよう打ち見たところ、貴殿には正義の武士でなく、この出来事は悪行らしゅう厶。――で、貴殿の悪行を、認めた以上は打ち捨ては置かれぬ。貴殿に制裁を加えた上で、その娘ごをお助けせねばならぬ」 ここでまた茅野雄は右の手でトントンと刀の柄頭を打った。 「娘ごを放しておやりなされ! 否と申さば太刀打ち申そう! いかがでござる! いかがでござる!」――で、右手で刀の柄を握り、拇指で鯉口をグッと切った。抜き打ちに切ろうとする足の踏み方だ、右足を一歩前へ踏み出し、左足のかかとを軽く上げ、体全体を斜めにして、刀の柄を握った上にソリを打たせて上へ上げたので、右の手の肘が矩形をなして、胸の上まで上ったのを、拍子取るように揺るがして、弦四郎の眼を睨み付けた。否と云ったならばただ一刀に、弦四郎の左の胴からかけて、胸まで割り付ける意気込みであった。握った手に余った柄頭の、金具が日の光に反射して、露が溜ってでもいるように、細かく生白く光って見えた。 (凄いの! これは! 凄い気魄だ!) 物も云わなければ動きもしないで、茅野雄の動作と言葉とへ、注意を向けていた弦四郎は、こう思わざるを得なかった。 (正当に太刀打ちをしたところで、五分と五分の勝負になろう。小枝などを抱えていて、片手でうかうかあしらおうものなら、こっちがあぶない、仕止められるであろう。言葉をもって云いくるめようとしても、眩まされるような人物でもない。彼の云う通り小枝を放して、丹生川平へ逃げ帰るか、ないしは真剣に切り合うより、他に手段はなさそうだ。どっちにしても困ったものだ) 弦四郎は処置に当惑した。 しかしその時丘の背後から、今まで聞こえていた女達の悲鳴や、男達の喚き罵っていた声が、急にこなたへ近寄って来て、すぐに九人の荒くれた男が、若い女を一人ずつ抱いて、丘の陰から走り出て、こっちに走って来るのが見えた。 丹生川平の若者達で、女は小枝の侍女達であった。弦四郎が小枝を奪ったのを習って、一人ずつ侍女達を奪って来たのであった。 と、見て取った弦四郎は、しめた! とばかり心で想った。 「方々!」と、そこで大音に、若者達へけしかけるように云った。 「この武士を打ってお取りなされ、我ら小枝を奪ったのに対して、こ奴は邪魔立て致そうとしております! 我々の怨敵白河戸郷に、味方を致す人間と見えます! 女子どもを打ち捨ておかかりなされ!」 この言葉は、極めて効果的であった。 (白河戸郷に味方する奴なら、我らにとっては怨敵である! やれ! 逃がすな! 切り刻め!)と、云う感情を男達の心へ、一斉に理性なしに湧き起こさせたのであるから。 ワ――ッというような叫声が、九人の男から起こった時には、九人の若い侍女達が、地上へ抛り出された時であり、九本の刀が夏の日の光に、氷柱のように光った時であり、意外の出来事に驚いて、棒立ちに立った茅野雄の左右へ、男達の逼った時であった。 男達の凄じい殺気立った顔と、虐殺することを喜んでいるらしい、男達の悪鬼じみた態度とは、茅野雄をして口をひらかせて、事の真相を弁解させるべく、無駄であることを思わせた。
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