木がらしに思い立ちけり神の旅
こういう一句を壁に認めると、飄然と主家を立ち去ってしまった。十四歳の時である。 「もうもう宮仕えは真平だ」 馬琴は固く決心したが、しかしそれでは食って行けない。止むを得ず戸田侯の徒士となったり旗本邸を廻り歩いたり、突然医家を志し幕府の典医山本宗英の薬籠持ちとなって見たり、そうかと思うと儒者を志願し亀田鵬斎の門をくぐったり、石川五山に従って柄にない狂歌を学んだり、橘千蔭に書を習ったりしたが、成功することは出来なかった。こうして最後に志したのが好きの道の戯作者であったが、ここに初めて京伝によってその天才を認められたのである。――馬琴この時二十四歳、そうして京伝は三十歳であった。
版元蔦屋重三郎がある日銀座の京伝の住居をさも忙しそうに訪れた。 「おおこれは耕書堂さん」 「お互いひどい目に逢いましたなア」 蔦屋は哄然と笑ったものである。 幕府施政の方針に触れ、草双紙が絶版に附せられたのは天明末年のことであった。恋川春町、芝全交、平沢喜三二と云ったような当時一流の戯作者達はこの機会に失脚し、京伝一人の天下となり大いに気持を宜くしたものであるが、寛政二年の洒落本禁止令は京伝の手足を奪ってしまった。 と云ってこれ迄売り込んだ名をみすみす葬ってしまうのは如何にも残念という所から版元蔦屋と相談した末「教訓読本」と表題を変え、内味は同じ洒落本を蔦屋の手で発行した。思惑通りの大当りで増版々々という景気であったが、果然鉄槌は天下った。利益に眩み上を畏れず下知を犯したは不届というので蔦屋は身上半減で闕所、京伝は手錠五十日と云う大きな灸をすえられたのである。 「さて」と蔦屋は居住居を直し京伝の顔色を窺ったが、 「身上半減でこの蔦屋もこれ迄のようにはゆきませんが、しかしこのまま廃れてしまっては商売冥利死んでも死なれません。そこでご相談に上りましたが、今年もいよいよ歳暮に逼り新年の仕度を致さねばならず、ついては洵に申し兼ねますが、お上のお達しに逆らわない範囲で草双紙をお書き下さるまいか。」[#「まいか。」」は底本では「まいか。」] 余儀ない様子に頼んだものである。 京伝は腕を組んで聞いていたが、早速には返辞もしなかった。――彼はすっかり懲りたのである。五十日の鉄の手錠は彼には少し重すぎた。いっそ戯作の足を洗い小さくともよいから店でも出し、袋物でも商おうかしら? それに今こそ人気ではあるがいつ落ちないものでもなし、それにもし今度忌避に触れたら牢に入れられないものでもない。あぶないあぶないと思っているのであった。 「しかし蔦屋も気の毒だな。身上半減は辛かろう。日頃剛愎であるだけにこんな場合には尚耐えよう。それに年来蔦屋には随分俺も厄介になった。ここで没義道に見捨ることも出来ない」 で、京伝は云ったものである。 「ようごす、ひとつ書きやしょう」
戯作道精進 「さあ忙しいぞ忙しいぞ」 蔦屋重三郎の帰った後、京伝は大袈裟にこう云いながら性急に机へ向かったが、性来の遅筆はどうにもならず、ただ筆を噛むばかりであった。 そこへのっそりと入って来たのは居候の馬琴である。 「あ、そうだ、こいつア宜い」 何と思ったか京伝はポンと筆で机を打ったが、 「滝沢さん、頼みますぜ」 藪から棒に云ったものである。 「何でござるな」と云いながら、六尺豊かの偉大な体をずんぐりとそこへ坐らせたが、馬琴は不思議そうに眼をパチつかせる。 「偉いお荷物を背負い込んでね、大あぶあぶの助け船でさあ。実は……」と京伝は蔦屋との話をざっと馬琴へ話した後、 「新年と云っても逼って居りやす。四編はどうでも書かずばなるまい。とても私の手には合わず、さりとて今更断りもならず、四苦八苦の態たらくでげす。――いかがでげしょう滝沢さん、代作をなすっちゃア下さるまいか?」 とうとう切り出したものである。 「代作?」と云って渋面を作る。 馬琴には意味が呑み込めないらしい。 「左様、代作、不可せんかえ?」 「……で、筋はどうなりますな?」 「ああ筋ですか、胸三寸、それはここに蔵して居ります」 ポンと胸を叩いたが、それから例の落語口調でその「筋」なるものを語り出した。 黙って馬琴は聞いていたが、時々水のような冷い笑いを頬の辺りへ浮べたものである。 聞いてしまうと軽く頷き、 「よろしゅうござる、代作しましょう」 「では承知して下さるか」 「ともかくも筆慣らし、その筋立てで書いて見ましょう」 「や、そいつア有難てえ。無論稿料は山分けですぜ」 しかしそれには返辞もせず、馬琴はノッソリ立ち上ったが、やがて自分の机へ行くと、もう筆を取り上げた。 筆を投ずれば風を生じ百言即座に発するというのが所謂る馬琴の作風であって、推敲[#「推敲」は底本では「推稿」]反覆の京伝から見れば奇蹟と云わなければならなかった。 その日から数えて一月ばかりの間に、実に馬琴は五編の物語をいと易々と仕上げたのである。しかも京伝の物語った筋は刺身のツマほども加味して居らず大方は馬琴の独創であって、これが京伝を驚かせもし又内心恐れさせもしたが、苦情を云うべき事柄ではない。で、黙って受取って自分の綴った二編を加え蔦屋の手へ渡したのである。 七編の草双紙は初春早々山東京伝の署名の下に蔦屋から市場へ売出されたが、やはり破れるような人気を博し今度は有司にも咎められず、先ずは大々的成功であったが、これを最後に京伝は、草双紙、洒落本から足を抜き、教訓物や昔咄や「実語教稚講釈」こう云ったような質実な物へ、努めて世界を求めて行った。これは手錠に懲りたからでもあるが、又馬琴の大才を恐れ、同じ方面で角逐することの、不得策であることを知ったからでもある。 その馬琴はそれから間もなく、蔦屋重三郎に懇望され、京伝の食客から一躍して、耕書堂書店の番頭となったが、これはこの時の代作が稀代の成功を齎したからであった。 「蔦屋へ来て何より嬉しいのは自由に書物が読まれることだ」 馬琴はこう云って喜んだが、それはさすがに書店だけに、耕書堂蔦屋には文庫があり、戦記や物語の古書籍が豊富に貯えられていたからである。馬琴は用事の隙々にそれらの書物を渉猟し、飽無き智慧慾を満足させた。 戯作者としては彼の体が余りに偉大であったので、冗談ではなく誠心から相撲になれと進める者があったが彼は笑って取り合わなかった。その清廉の精神と堂々の風彩を見込まれて、蔦屋の親戚の遊女屋から入婿になるよう望まれたが、馬琴は相手にしなかった。 側眼もふらず戯作道を彼は精進したのである。 曲亭馬琴と署名して「春の花虱の道行」を耕書堂から出版したのは、それから間もなくのことであったが、幸先よくもこの処女作は相当喝采を博したものである。 これに気を得て続々と馬琴は諸作を発表したが、折しも京伝は転化期にあり、他に目星しい競争者もなく、文字通り彼の一人舞台であり、かつは名文家で精力絶倫、第一人者と成ったのは理の当然と云うべきであろう。 しかし間もなく競争者は意外の方面から現われた。 十返舎一九、式亭三馬が、滑稽物をひっさげて、戯作界へ現われたのは馬琴にとっては容易ならない競争相手といってよかろう。
物を云う据風呂桶 それはある年の大晦日、しかも夕暮のことであったが、新しい草双紙の腹案をあれかこれかと考えながら、雑踏の深川の大通りを一人馬琴は歩いていた。 と、ボンと衝突った。 「ああ痛!」と思わず叫び俯向いていた顔をひょいと上げると、据風呂桶がニョッキリと眼の前に立っているではないか。 「えい箆棒、気を付けろい!」 桶の中から人の声がする。 「桶を冠っているからにゃ、眼のみえねえのは解り切っていらあ。何でえ盲目に衝突たりやがって。ええ気をつけろい気をつけろい!」 莫迦に威勢のよい捲き舌で桶の中の男は罵詈ったが、馬琴にはその声に聞き覚えがあった。それに白昼の大晦日に、深川の通りを風呂桶を冠って横行闊歩する人間は、あの男以外[#「以外」は底本では「意外」]には無いはずである。 そこで馬琴は声を掛けて見た。 「おい貴公十返舎ではないか」 「え?」 桶の中の男は酷く驚いた様子であったが、にわかにゲラゲラ笑い出し、 「解ったぞ解ったぞ声に聞き覚えがある。滝沢氏でござろうがな。アッハハハハ、奇遇々々。いかにも手前十返舎一九、冑を脱いでいざ見参! ありゃありゃありゃありゃ、ソレソレソレソレ」 掛声と一緒に据風呂桶を次第に高く持ち上げたが、ヌッと裾から顔を覗かせると、 「一夜明ければ新玉の年、初湯を立てようと存じやしてな、風呂桶を借りて参りやした。そこで何と滝沢氏、明日は是非とも年始がてら初湯を試みにお出かけ下され。確とお約束致しやした。しからばこれにて、ハイハイご免。ありゃありゃありゃありゃ、お隠れお隠れ、血塊々々、ソレソレソレソレ」 ふたたびスッポリ桶を冠るとやがてユサユサと歩き出した。 後を見送った曲亭馬琴は、笑うことさえ出来なかった。あまりに一九の遣り口が彼とかけ離れているからである。 「いやどうも呆れたものだ」 馬琴は静かに歩きながら思わず口へ出して呟いた。 「洒落と奇矯でこの浮世を夢のように送ろうとする。果してそれでよいものだろうか? 今江戸に住む戯作者という戯作者、立派な学者の太田蜀山さえ、そういう傾向を持っている。一体これでよいものだろうか? どうも自分には解らない」 馬琴は何となく寂しくなった。肩を落とし首を垂れ、うそ寒そうに足を運ぶ。 「京伝は俗物、一九は洒落者、そうして三馬は小皮肉家。……俺一人彼奴らと異う。これは確かに寂しいことだ。しかし」と馬琴は昂然と、その人一倍大きな頭を、元気よく肩の上へ振上げたが、 「人は人だ、俺は俺だ! 俺はやっぱり俺の道を行こう。仁義礼智……教訓……指導……俺は道徳で押して行こう。俺の目的は済世救民だ!」 彼は足早に歩き出した。何の不安も無さそうである。 その翌日のことであったが、物堅い馬琴は約束通り、儀礼年始の正装で一九の家を訪れた。 「これはこれは滝沢氏、ようこそおいで下されやした。何はともあれ初湯一風呂さあさあザッとお召しなさりませ。湯加減も上々吉、湯の辞儀は水とやら十段目でいって居りやす。年賀の挨拶もそれからのこと、へへへへ、お風呂召しましょう」 一九は酷くはしゃぎ廻り無闇と風呂を勧めるのであった。
東海道中膝栗毛 「左様でござるかな、仰せに従い、では一風呂いただきましょうかな」 馬琴は喜んで立ち上り、一九の案内で風呂場へ行ったが、やがて手早く式服を脱ぐと、まず手拭で肌を湿し、それから風呂へ身を沈めた。些か湯加減は温いようである。 「これは早速には出られそうもない。迂濶り出ると風邪を引く。ちとこれは迷惑だわえ」 心中少しく閉口しながら馬琴はじっと沈んでいたが、銭湯と異い振舞い風呂、いつ迄漬かっても居られない。で手拭で体を拭き、急いで衣装を着けようとした。どうしたものか衣類がない。式服一切下襦袢までどこへ行ったものか影も形もない。 驚いた馬琴が手を拍つと、ノッソリ下男が頭を出したが、 「へえ、お客様、何かご用で?」 「私の衣類はどこへ遣ったな?」 「へえ、私知りましねえ」 「ご主人はどうなされた?」 「あわててどこかへ出て行きやした」 「何、出て行った? 客を捨てか?」 「珍しいことでごぜえません」 「寒くて耐らぬ。代わりの衣類は無いか」 「古布子ならござりますだ」 「古布子結構それを貸してくれ」 下男の持って来た布子を着、結び慣れない三尺を結び、座敷の真中へぽつねんと坐り、馬琴は暫らく待っていたが、一九は容易に帰宅しない。 その中元旦の日が暮れて、燈火が家毎に燈るようになった。その時ようやく門口が開き、一九は姿を現わしたが、見れば馬琴の式服を臆面もなく纏っている。 「アッハハハハ」と先ず笑い、 「式服拝借致しやした。おかげをもって近所合壁年始廻りが出来やした。いや何式服というものは、友達一人持って居れば、それで萬端役立つもので、決して遠慮はいりやせん、借りて済ますが得策でげす」 自分が物でも貸したように平然として云ったものである。 呆れた馬琴が何とも云わず、程経て辞して帰ったのは、笑止千萬のことであった。 一九の父は駿府の同心、一生不遇で世を終わったが、それが一九に遺伝したか、少年時代から悪賢く、人生を僻んで見るようになった。独創の才は無かったが、しかし一個の奇才として当代の文壇に雄飛したことは、又珍しいと云うことが出来よう。
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