五
「オイ赤川、もう駄目だよ」 こういったのは伊賀之助。 「どうにか成りませんかな、伊賀之助殿」 こういったのは赤川大膳。 八ツ山下の御殿である。 「どうなるものか、海上を見な、すっかりあの通り手が廻っている」 窓をひらくと品川の海、篝火を焚いた数十隻の船が、半円をつくって浮かんでいる。 「漁船のようには見えるけれど、捕方の船に相違ない。海上でさえあの通りだ。陸上の警固は思いやられる。蟻の這い出る隙間もない――ということになっているのだ」 「それに致しても」と赤川大膳さも不思議そうに伊賀之助へいった。「大事露見と見抜かれながら、天一坊はじめ天忠、左京まで町奉行所へ遣られたは、如何の所存でございますかな?」 「うむ、そいつか」と伊賀之助、苦々しそうに眉をひそめた。「あいつらみんな悪党だからよ。まず天一坊からいう時は、師匠の感応院を殺したばかりか、お三婆さんをくびり殺し、まだその外に殺人をした。また常楽院天忠となると、坊主の癖に不埓千万、先住の師の坊を殺したあげく、天一という小坊主をさえ殺したのだからな。藤井左京も十歩百歩、神部要助という伯母の亭主を、これまた殺しているのだからな。事もあろうにこれらの三人、目上の者を殺している。天人共に許さざる奴等、そこで刑死をさせてやろうと、大岡越前の手の中へ、わざわざ捕らせにやったのさ。そこへ行くとお前は少し違う。野武士時代にはあばれもしたろうが、恩顧を蒙った目上の者を、殺したことはないのだからな。そうして俺に至っては、人を殺めたことはない。で多少は許されるだろう。そこでお前に贋病を使わせ、そうして俺も贋病を使い、二人だけ此処へ残ったってものさ。……さあさあ大膳腹を切ろう。まごまごしていると捕方が来る。それにしても」と伊賀之助、苦渋の色を顔に浮べた。「淀川堤に住んでいた、乞食のことが気にかかる。……彼奴見抜いていたのだな! 今日のことを、露見のことを!」 ドッとその時戸外にあたり、閧を上げる声が聞えて来た。つづいて乱入する物の音! 「いよいよ不可ねえ、さあ大膳、捕方が向かった、腹を切ろう!」 差添を抜いた伊賀之助、腹へ突っ込もうとした途端、捕方ムラムラと込み入って来た。 「おのれ?」 と飛び上がった赤川大膳、太刀を揮うと飛びかかった。 「御用々々!」 と叫びながら、大膳の殺気に驚いたか、サーッと後へ引っ返した。 「どうせ駄目だよ、追うな追うな!」 呼び止める伊賀之助の声を残し、遁れられるだけは遁れてみよう、こう思ったか追っかけた。 「御用々々!」 と遠退く声! 「ワッ」と二、三度悲鳴がした。 大膳が捕方を切ったのらしい。 「よせばよいのに殺生な奴だ! どうせ捕れるに決っている。覚悟の出来ていない人間は、最後の土壇場で恥を掻く。……が、俺には却って幸い、どれこの隙に腹を切ろう」 左の脇腹へブッツリと、伊賀之助刀を突き立てた時、 「お見事!」 という声が隣室でした。 襖をひらいて現れたのは、青竹の杖をひっさげた、容貌立派な乞食であった。 「やッ、汝は!」と伊賀之助。 「淀川堤におりました者」 「汝が然うか? どうして此処へ?」 「御首級頂戴いたしたく……」 「俺の首をか、何んにする?」 「或お方のお屋敷へ参り、或お方へ近寄って、一太刀なりとも恨みたい所存……」 「ううむ」と唸ったが伊賀之助「身分をいわっしゃい! 名をいわっしゃい!」 「或お方の差金により、取潰された西国方の大名、その遺臣にござります」 「淀川における風流は?」 「ただ拙者という人間を、貴殿のお耳に入れようとな」 「うむ矢っ張り然うだったか。易水の詩を残したは? 我等の企ての失敗を、未然において察しられたか」 「正しく左様、一つには! ……が、同時にもう一つ、拙者の心境を御貴殿へ、お知らせ到そうと存じましてな」 「成程」 といったが伊賀之助、次第々々に苦しくなった。顔は蒼白、血は流れる。「成程……貴殿は……荊軻の身の上! ……が、今度は拙者より申そう、その或お方は無雙の人物、失敗致そう、貴殿の計画!」 だが乞食は悠然と「運は天にござります。ただ人力を尽したく……」 「立派なお心」と伊賀之助、首をグーッと突き出した。「ご用に立たば首進上! 死花が咲きます! いっそ光栄!」 その時であった、戸外から、 「赤川大膳、捕った捕った!」 捕方の声が聞えて来た。 「未熟者めが」と伊賀之助、嘲りの色を浮かべたが 「とうとう死恥を晒しおる! それに反して俺は立派だ! 義士の介錯受けて死ぬ。死後なお首が役に立つ! ……いざ首討たれい!」 と引き廻わした。 「ご免」 というと奇怪な乞食、仕込んだ太刀を引き抜いた。ピカリと一閃、スポリと一刀、ゴロリと落ちたは首である。 「伊賀之助、御用!」 と捕方の声々、間間近く迫ったが、奇怪な乞食驚かなかった。 死骸の形を綺麗に整え、傍の屏風を引き廻すと、伊賀之助の首級を抱きかかえた。 と、スルスルと廻廊へ出た。 襖を蹴仆す音がして、踏み込んで来たのは捕方である。 チラリと振り返った奇怪な乞食、ヒョイと右手を宙へ上げたが、恰も巨大な暁の星が、空から部屋へ飛び込んだように、一瞬間室内輝いた。 眼を射られて蹣跚いた捕手が、正気に返って見廻した時には、首の無い山内伊賀之助の、死骸が残っているばかりで、乞食の姿は見えなかった。
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